2020年11月5日木曜日

桑折町

 先日、書類を整理していたら鈴木三元のふるさと桑折町(こおりまち)の資料が出てきた。
この資料は昭和31年10月20日発行の「桑折町のすがた」編集兼発行人は桑折町教育委員会である。そういえば、5代目三元氏(1925年ー2014年)も桑折町教育委員会に奉職していたと聞いている。

町の名士であった初代三元と半田銀山の記載があり、その部分は以下の通り。

10、郷土の発展につくした人々 95頁、
◎鈴木三元
文化4年半田村谷地の農家に生れ、小さい時の名を藤右衛門といいました。小さい時から非常に頭がよく、いろいろ考えて製作することがすきでした。あまり本気であったために気違いとまでいわれました。早くから人々の生活上交通機関の重要であることを考え、自走車の発明に着手しました。10数年間寝食を忘れて研究を重ね、とうとう二人乗りと四人乗りを作製して三元車と名づけました。
明治12年高辻待從が東北巡視の際に御閲覧あらせられ、又14年4月東京上野に開かれた勧業博覧会に出品して4月25日照憲皇大后の天覧を受け、おほめのことばをいただきました。
又宮城県と福島県の境界の問題で長年争っておりましたが、単身宮城控訴院に出かけて解決し、現在に及ぶといわれています。明治18年78歳でなくなりました。(一部不適切な言葉が使われていますが、そのままにした)

半田銀山 28頁~30頁
現在は昔のおもかけはなくなりましたが、その昔日本の三大鉱山の一つとして我が国のためにつくしました。
そのために江戸時代には非常な大事な土地であるとして、幕府が代官をおいて直接に治めたのです。今は2万にもならない人口ですが、200年前の銀山が最もさかんであった頃には8万人もいたという記録があります。この銀山がどのような歴史をもっているのかをふりかえってみたいと思います。

●今から一千年も前に発見れ、その間慶長(1596年頃)から万治年間(1658年頃)の約60年間ぐらいはさかんな時もあったようですが、誰がどんな仕事をしたのか、よい記録がみつかりません。
●今から約三〇〇年前、この土地を治めていた上杉綱勝の命によって、家来伊達半十郎が銀を堀り出す仕事をしましたが、よい場所がみつかりませんでした。
1704年(宝水) 松平宮内少輔の領地になりました。その頃1723年(享保八年)北半田の野村勘右衛門が鉱石のたくさんある場所をほりあてました。
●1747年(延享四年)半田銀山の仕事を幕府が直接行うようになりましたー代官がおかれた。
●1750年頃から非常にさかんになりました――1756年の例。
人足三千人、かじや二千六百人、堀大工二万二千人、堀子四万人、岡勤め(坑外で働くもの)七千人、一年間に米三七万五千俵、みそ六千〆、坑木六万本、鉱石をやくために使う塩一日に百俵以上。
これだけの人と物とで仕事をしていたので、福島以上のにぎやかさと大きさとをもっていました。
●名代官寺西重次郎1820年(文政三年)頃さかんに新しい場所をさがしたが、見つかりませんでした。
●1830年(天保年間)頃、代官島田帯刀がよい場所を掘りあてる。
日本三大鉱山となる。(佐渡の金山、但馬生野の銀山)
●1864年(元治元年)銀の出かたが少なくなり、幕府はやめた。
●1867年、早田伝之助幕府のゆるしをうけて始めたが四年にしてやめる。
●1874年(明治七年)五代友厚政府の許可で堀り始める。仏人技師コアテ来て教える。友厚の子竜作(工学博士)機械を使用して生産高まる。
●1876年(明治九年)明治天皇行幸、坑内まで御覧になる。
●1901年(明治34年)及び1910年(明治四十三年)山崩れが起こり、そのために銀山の穴もうまり、やめるようになった。
●終戦後一時銅等を採掘しましたが、昭和二十六年に全くやめた。

表紙

奥付


補足説明、
鈴木三元は、ものの本等によると半田銀山の経営で資産をなしたとあるが、この記事を見るかぎり三元車の記載はあるものの、半田銀山とのかかわりは一切触れていない。
半田銀山の年史をみても、五代友厚と五代竜作は出ているが、鈴木三元の名はない。
おそらく初代三元は、半田銀山の経営といっても、五代友厚の経営する会社関連の現場業者或は下請けであったと考えられる。実際に銀山に関係した仕事はしたのであろうが、誇大に銀山採掘の経営をしていたとは言い難い。
三元車について、二人乗りと四人乗りを製作したとあるが、いまだ二人乗りの三元車の写真や図面などは見つかっていない。
現在のところ一人乗りと四人乗りの三元車の写真は残されている。
四人乗りの三元車の写真は、交通史研究家である齊藤俊彦氏が調査し、その論文に載っている。一人乗りは、昭和59年に自転車文化センターで開催された「明治自転車文化展」において写真が展示されていた。

関連資料、
〇「明治十年代前半における自転車事情 ー貨客運送用大型自転車開発の動きー」齊藤俊彦著 西南地域の史的展開(近代編)1988年1月5日発行

〇「明治自転車文化展」(解説書)、自転車文化センター 昭和59年3月9日発行

〇主な新聞記事
『東京日日新聞』 明治14年1月21日   「三元車の新発明」の記事
『東京日日新聞』 明治14年11月30日  「自走車」の記事
『東京日日新聞』 明治13年12月1日 4面 「鈴木三元の略歴」
『朝野新聞』(復刻版) 明治8年12月17日 「海内新報」の中の記事