2020年11月13日金曜日

銀輪のわだち その13

「知られざる銀輪のわだち」その13 

三浦環と自転車お玉、自転車美人の明と暗

三浦環だけが有名
世紀の先端を切る明るさ
 わが国で初めて自転車に乗った女性はだれだったのか? 多くの出版物はソプラノ歌手・三浦環をあげている。そして、それが常識になっている。
 彼女が自転車に乗ることを有名にしたのは、明治33年(1900年)上野の東京音楽学校へ入学すると、自宅の芝虎ノ門から上野までの往復に自転車を利用したことである。毎日、きまったコースをほぼきまった時間に若い女性が緋の袴に矢羽根の着物の袖をなびかせ、髪に大きな純白のリボンをつけて走るのだからたちまち話題になった。
 男をしり目にさっそうと駆け抜ける先端的な女性を見物しょうと、多くの弥次馬が時をはかっては通学路のあちこちに群れをなすようになっていった。いつの間にか新聞は”自転車美人”という肩書きをつけ、紙面にしばしば登場させるようになる。
 その3年後の明治36年、小杉天外は読売新聞に連載した小説「魔風恋風」でヒロイン初野を自転車で登場させる。その描写は三浦環をモデルにしたといわれている。
「ベルの音高く、あらわれたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結い流しにして白いリボン清く、着物は矢がすりの風通、袖長ければ風になびいて、色美しく品高き、十八、九の令嬢」というわけだ。

魔風恋風 前編 小杉天外作
の挿絵
明治36年11月15日発行

環のほかにも多くの女性
女子嗜輪会が東京で発足

 三浦環が自転車で登場したとき、時代はちょうど二〇世紀を迎えようとしていた。
だから彼女は、“新世紀の女性”というイメージで受けとめられ、後年は欧米で世界的ソプラノ歌手として認められる著名人となるのだから「日本で初めて自転車に乗った女性」という説が定着したわけである。
 だか、このころの女性で自転車に乗ったのは彼女だけではない。同じ明治33年の秋、東京で「女子嗜輪会」なる団体が発足している。
 下ページの写真や記事は当時の雑誌「自転車」からとったものだが、会の規約や役員を紹介している。まず11月に8人の女性が集まって発起会を開いており、12月に開いた例会にはさらに7人が入会している。幹事として東宮いと子、田中きの子、寺沢まさ子、朝夷たけ子、柴田環子の名があがっているが、この中の柴田環子とは三浦環であろう。彼女の旧姓は柴田である。

女子嗜輪会の発会式での記念写真
明治33年11月25日
中央が17歳の三浦 環
自転車はカナダ製の婦人用アバンホー
写真提供:自転車文化センター

 上の写真は8人が並んでいるから発起会のものである。この中の三浦環は前列中央の女性である。当時、自転車に挑戦した女性は三浦環の外にもいろいろ存在していたことがわかる。
 女子嗜輪会の目的はこう書かれている。
「本会は、愛輪同志女子相互の懇親を求め、兼ねて一般女子体育の進歩をはかるをもって目的となす」。そして会費は毎月20銭、会員は新しい会員を勧誘する義努があり、会は遠乗り会や名士の講演会をおこなうとしている。

日本女子大の自転車推奨
安全車登場が普及の契機

 この会がその後、どのように発展、あるいは解消していったのか、調べが及んでいないが、女子嗜輪会が発足した翌年、日本女子大学が開校され、学校内に自転車部が設立される。そして「女子が自転車に乗ることはけっして美徳をそこなうものではない」という同校の教育方針は女性の自転車愛好者を増やしていく。
 このように女性の自転車乗りがさかんになる背景にはもう一つセーフティ(安全型)自転車の普及という事情がある。ミショー型(ボーンシェーカー)やオーディナリー(だるま型)では女子には乗りたくとも乗りにくい。だが明治25年ごろからセーフティ型自転車の輸入がはじまってくる。このために女性にも愛好者を増やすことができた。読者諸氏もご存知の浜松市の自転車店、御園井商会の経営者・御園井宏昌氏の祖母タツさんもこのころ同市で”自転車美人”として有名だったのである。

女性第一号の暗い物語
お玉を知ってますか?

 ところで三浦環が”自転車美人”として明るい話題を提供したのと同じ年に、東京・浅草の劇場常盤座ではある芝居が大当りをとっていた。題して「自転車お玉」、これは三浦環よりも30年も前―明治初年に”自転車美人”として評判になった女性の暗い物語である。
 自転車お玉の名は、明治期の読物にはときたま登場するが、いまではどのような人間だったかを伝えるものがまず見当らない。
 このときの芝居は後に劇評家として大をなす伊原青々園が新聞に連載した小説をもとにして脚色されている。大筋は幼いころ人買いの手に渡ったお玉という美しい女性が、数奇な運命の果てに情痴がからんで、犯罪をおかすというものだが、ほとんどフィクションだと思われる。まず時代設定が明治20年代になっているし、話の筋立てが江戸期からの人情噺の流れを汲む毒婦伝型になっている。
 伊原青々園はこの前後「五寸針寅吉」など同じような”犯罪実話”をいくつもフィクションで書いている。ただ、お玉が犯罪者であったこと、そして明治初年に洋装で自転車に乗っていて有名だったことは事実である。
 私がお玉に興味を抱くのは、彼女がわが国でもっとも早く自転車に乗った女性であるという事実と、いかなる型の自転車に乗ったのか? という点にある。が、お玉の名さえ知らない人が多いと思われるので、いくつかの資料からプロフィールを探ってみよう。
 出生地は神奈川県藤沢の周辺で、嘉永二年(1849年)生まれとも6年生まれともいう。没年も明治9年、あるいは11年とされ、はっきりはしないが26、7年の短い生涯である。家が貧苦で娘手踊りの一座に売られ、娼婦、外人相手のラシャメン(洋妾)になったりして横浜・東京で暮らすが、犯罪をおかして逮捕され獄死という運命をたどる。

伊原青々園作 自転車お玉
下巻の表紙絵
明治34年2月13日発行

お玉はどんな自転車に
ミショー型か三輪車か?

 自転車お玉という名は、彼女が明治4年ごろ東京・築地の外人居留地にあるホテルで働いていたころ(外人向けのコールガールかもしれない)、洋装で自転車を乗り回していたことによる。すこぶるつきの美人であり、まだ珍しい自転車で走っていたのだから注目を集めたことは事実だろう。
 一説ではホテルが客寄せにお玉を自転車に乗せたともいわれている。彼女に魅せられてかなりの外人客が集った――とも。
 だが、この人気が仇になった。お玉はそれ以前、横浜で妾をしていたころに大金を旦那から盗んで東京へ高飛びしてきたのだった。自転車お玉の存在が有名になったため所在が発覚して、殺人事件にまき込まれてまた逃走。数年後に逮捕される。
 行刑資料を精査すれば詳しいことがわかるかもしれない。だが残念ながらそこまで手が回らないでいる。
 明治・大正のお玉に関する出版物は、夜嵐お絹とか、高橋お伝などと同様に女性犯罪人をすべて ”毒婦”としてとらえ、情痴のストーリーにしてしまっている(高橋お伝などはわずか一人の殺人を稀代の毒婦に仕立てられている)。大正期に「自転車お玉愛憎情史」という、きわどいウラ本も出ていると聞くし、戦後に書かれた本にも「ハイカラ毒婦、自転車お玉」と題されている。
 昭和50年に入って井上ひさし氏が『オール読物』に彼女の悲劇を同情的に描いているのがやや異色だ。
 自転車史の中で、なぜお玉のことが調べられていないのか? 同じ自転車美人でも三浦環のエピソードはプラス材料になるが、お玉はマイナス材料ーー 自転車にとっていいイメージはもたらさない、こういう配慮が研究者の意識に働くのだろうか?
 明治4年ころ、まだ男性も自転車になじみのないころに、これに挑戦した彼女には明るい、活発な女性というイメージがわいてくる。
 どんな服装で、どういう自転車に乗ったのか? ある書物にはオーディナリーかマクミランではないかと推測している。が、私はそうは思わない。
 オーディナリーがわが国に入ってくるのは明治20年以降であって、それでは時代が合わない。
 2輪のマクミランはすでに本国のイギリスでもその存在が否定されている。だからこれもあり得ないのである。
 したがってそのころお玉が乗り回した自転車といえば、ミショー型か、あるいは前々号で紹介した三輪車の壱人車(ラントン型)ではないかと思われる。私は三輪車の可能性が大と思っている。
 伊原青々園の「自転車お玉」は上中下3巻の本になっていて、その下巻の表紙にはセーフティ型の自転車が描かれているが、小説の時代設定を明治後期にしているのだから参考にはならない。井上ひさし氏のそれは朝倉 摂さんがイラストレーションを描いているが、朝倉さんもどんな自転車にしていいか迷ったと見え、シンボリックな一輪車に乗っているお玉を描いている。

季刊「サイクルビジネス」№24 陽春号、1986年4月24日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)