「知られざる銀輪のわだち」その15
佐藤半山と雑誌「自転車」㊥
写真も墓地も発見
少しずつ実像判明
前回に引きつづいて自転車史研究家の真船高年氏の調査をもとにしてのべていく。
少しずつ実像判明
前回に引きつづいて自転車史研究家の真船高年氏の調査をもとにしてのべていく。
まずは、その後に発見された佐藤半山の写真を下に掲げよう。この夏の間、半山の郷里福島県から活躍地の東京を調査してまわって、戸籍簿を頼りにようやくあるところから探し当てたものである。没年もわかり墓地もたずねあてた。
佐藤半山
写真提供:真船高年氏
墓地は東京・谷中の西光寺にあった。昭和7年9月27日に64歳で没、戒名は覚浄院秋山自徳居士。昭和初期まで東京で暮らしていたのである。
ほかに明らかになったことを記しておくと神田区(現在の千代田区)区議会議員をつとめていたのは大正6年11月から大正10年の同期までの4年間で、これは千代田区史に記録されている。同区史には「福島県出身、現住所神田区北神保町13」とあり「職業欄」は空白になっている。このころは雑誌『自転車』は廃刊になっていたのかもしれない。立候補名は本名の喜四郎を使わず、佐藤半山であった。
もう一つわかったことは、この神田の住居は関東大地震で焼失し、その後の半山(家は本郷区、現文京区)千駄木町に移り、ここで晩年まで過ごしていること。以上である。そこで、前回のあとを引継いで『自転車』の内容に立入ることにする。
初期の広告は米国車
デートン、ピアスが主流
この雑誌への興味は20世紀初頭のわが国自転車事情を知ることにある。明治期も30年代以降の輪界史はすでにかなりととのっており、自転車産業振興協会編集の「自転車の一世紀」、佐野裕二氏の「自転車の文化史」がある。
だから、ここでは、それらを正史とするなら外史――つまり『自転車』に掲載された記事、広告の断片から自転車事情をのぞいてみたい。
まず、その広告から――。
自転車の広告は明治35年あたりまではすべて輸入車のもので、それも圧倒的に米国製である。ピアス、デートン、クリーブランド、エルク等々――そしてカナダのアイバンホーが目立つ。中でもピアスの広告が多い。ピアスは横浜の石川商会が独占輸入し東京の四七商店が代理店をしていたのだが、石川商会、四七商店、そして米国のジョージ・N・ピアス社までが揃って出稿している。
同誌の第9号(明治34年4月)には巻頭の写真のページに石川商会の米国支店員がせい揃いした記念写真や、同商会の神戸支店の全景を載せている。発見されている『自転車』のすべてに、石川商会=ピアスの広告がいいスペースを占めているが、同誌にとってかなりいい広告主だったのだろう。
自転車の広告は明治35年あたりまではすべて輸入車のもので、それも圧倒的に米国製である。ピアス、デートン、クリーブランド、エルク等々――そしてカナダのアイバンホーが目立つ。中でもピアスの広告が多い。ピアスは横浜の石川商会が独占輸入し東京の四七商店が代理店をしていたのだが、石川商会、四七商店、そして米国のジョージ・N・ピアス社までが揃って出稿している。
同誌の第9号(明治34年4月)には巻頭の写真のページに石川商会の米国支店員がせい揃いした記念写真や、同商会の神戸支店の全景を載せている。発見されている『自転車』のすべてに、石川商会=ピアスの広告がいいスペースを占めているが、同誌にとってかなりいい広告主だったのだろう。
ピアスについで出稿量の多いのはデートンである。デートンは東京の双輪商会がひんぱんに広告を出しているが、双輪商会とは明治時代の代表的な自転車選手・鶴田勝三の兄・吉田銈次郎が慶応義塾に在学中、学生仲間とともに興した会社である(本稿第10回参照)。デートンはピアスのように独占輸入ではなかったが、鶴田選手の名声でここがいちばん売ったようだ。
日英同盟の締結後に
市場がガラッと変わる
明治期の輸入車のブランドを拾うとおびただしい数になるが、現存している古老たちの記憶に強く残っているのはピアス、デートンのようである。「デートン色」などという呼称さえ残っているくらいだ。
ところが、この米国製一辺倒の自転車広告の中へ、国産車、英国製の広告がしだいに加わってくる。明治36年ごろから銃砲自転車製造販売・宮田製作所が旭自転車の広告を出しはじめ、つづいて37年ごろから岡本自転車電機器店が「国内製自転車」として扶桑号の宣伝を開始する。
同39年に入ると、オズモンド、トライアンフ、ハンバー、ローターキス、ラゼガゼル、インピスターなど英国製を扱う販売店の広告が目立ち、日・米・英の市場競争がはじまったことがわかる。
米国製のピアスやデートンは健闘しているものの、英国製が追い上げをはかっている。これはその前年までの日露戦争と日英同盟・日英攻守同盟の関係がモノをいっていること、そして米国に国際市場を奪われつつあった英国の巻き返しによるものであろう。
事実、統計によると明治39年、英国は日本市場でそれまで優位をつづけてきた米国製自転車をはるかに引きはなし、この後もつづけて市場を拡大している。
米国製のピアスやデートンは健闘しているものの、英国製が追い上げをはかっている。これはその前年までの日露戦争と日英同盟・日英攻守同盟の関係がモノをいっていること、そして米国に国際市場を奪われつつあった英国の巻き返しによるものであろう。
事実、統計によると明治39年、英国は日本市場でそれまで優位をつづけてきた米国製自転車をはるかに引きはなし、この後もつづけて市場を拡大している。
婦人専用の教習場開業
芸妓が各地で走り出す
下に掲げたのは第36号(明治36年)巻頭の写真ページにあるもので、当時、自転車に乗ることで名高い各地の芸妓たちである。
名高い各地の芸妓たち
中央がとくに人気の高かった東京・下谷の中川家の栄という芸妓で、この雑誌の投書欄にもときどき「栄といっしょに走りたい」というものが見える。そのまわりは山形・酒田、静岡・掛川の芸妓たちーー。
この年は小杉天外が読売新聞に自転車に乗る女性を描いた「魔風恋風」を連載しているが、そのモデル三浦 環が自転車に乗りはじめたときから3年目なのである。
女性と自転車の関係を他の号の誌面から見てみよう。第24号(明治35年)には「共楽園」という広告が出ている。場所は東京・本郷で「奇数日は男子、偶数は女子」と区分をし、実技指導や遠乗り、協議の催しをやるとしてある。会員制のクラブらしく甲種会員、乙種会員を設けている。女性の自転車願望が広がりつつあったのだろう。
女性と自転車の関係を他の号の誌面から見てみよう。第24号(明治35年)には「共楽園」という広告が出ている。場所は東京・本郷で「奇数日は男子、偶数は女子」と区分をし、実技指導や遠乗り、協議の催しをやるとしてある。会員制のクラブらしく甲種会員、乙種会員を設けている。女性の自転車願望が広がりつつあったのだろう。
ところが、その翌年になると「東洋元祖婦人練習場」というライバルが登場してくる。 東京・麻布に開業したもので、その広告文にいわく「婦人部は一切男子の立入りを禁じ、熟練した女教師が親切な教授をおこなう」。
男女の練習を分けたり、一切男子の立入りを禁じたりしているのは、男女関係がやかましかった当時の社会環境もあったのであろうが、そればかりではない事情もあったらしい。というのはーー、
男女の練習を分けたり、一切男子の立入りを禁じたりしているのは、男女関係がやかましかった当時の社会環境もあったのであろうが、そればかりではない事情もあったらしい。というのはーー、
教習中に芸妓につけ文
クラブも全国に生まれた
そのころの同誌の投書欄につぎのような一文が載っている。
「芸妓への自転車の指導に出かけた自転車店の店員が指導中に芸妓にラブレターを突っぱねられ赤恥をかいた例がある。自転車を売るための指導に行くのはいいが、こういうことをする奴は臨界を毒するものだ」。
ほかにもこれに近い投書があるところを見ると、男女の練習日、練習場の区分は、営業上のセールスポイントであったのだろう。
さて話を変える。第24号(35年7月)には日本帝国徽章商会の「徽章をつくりませんか」という趣旨の広告が載っている。
サンプルとして掲げられている徽章は日英同盟記念章や帝国大学運動会の記念章などである。「自転車も各地にクラブができたのだから、クラブ徽章をつくってもらえば商売になる」という広告主の読みであろう。毎号それをつづけていたが、それが効果をあげてくる。
第33号 (36年5月) の広告にサンプルとして掲載されているのはすべて自転車クラブの徽章である。仙台、福島、横浜などのクラブ徽章だが、ほかにもかなりの地方から注文をとったと思われる。
というのは、少なくとも明治30年代の『自転車』には毎号のように各地の自転車便りが載せられている。東京や大阪などの大都市には限られない。
富山県の泊(現朝日町)では明治33年戸数1.000余に過ぎないが200台もの保有がある。中には一人で10台も持っているものがあり「近く北陸連合大会を催す計画」とか、同じころ高松市でも弁護士、医師、実業家、郡部の豪農などの使用が増え「大阪あたりより同好者を招き競走会を催す準備中」、水戸市でも「クラブを結成した」などの報告がおびただしく報じられている。
その愛好者たちが当時の富裕層であるからこの徽章づくり広告はヒットしたのであろう。かなりのマーケティング力である。
その愛好者たちが当時の富裕層であるからこの徽章づくり広告はヒットしたのであろう。かなりのマーケティング力である。
軍事利用から生まれた
折りたたみ式自転車
第33号(明治36年)にはたいへん興味ある広告が出ている。商品名は「時計入れ」とあるが、腕時計のような図が示されている。腕時計はこの前年にスイスでつくりはじめられたばかりでまだ出回ってはいない時代なのだ。よく読んでみると、左手首に巻きつけるベルトに懐中時計が入るようなポケットをつけ、文字盤と龍頭の部分が外へ出る仕掛けである。従って「時計入れ」ー。
そのベルトの一部には方向磁石がついている。中田米松という人物の特許製品なのだが、特許の取得は明治28年とある。興味深いのはここだ。
腕時計のおこりは1899年(明治32年)の南阿戦争のとき、英軍将校の一人が懐中時計を皮バンドで手首に巻きつけて戦ったことである。世界の時計史ではそうなっているのに、中田米松はそれよりも4年早く、同原理の商品開発をしている。
この特許取得はまやかしではなく、当時の農商務大臣榎本武揚が押捺した証書がついている。
磁石がつき、手首に装着できる「時計入れ」はサイクリストには人気を博したと思われるが、この広告は明治37年後半から以後の雑誌には出ていない。それはほんものの腕時計の普及が国内ではじまったからであろう。
話を広告から記事のほうへ移すと、自転車の技術開発や輪行技術、各地競技会の情況、名士の自転車談、海外自転車事情が多いのだが、当時の社会情勢からして自転車の軍事利用の可能性がかなり論じられている。「梅津大尉自転車談」という佐藤半山の聞き書きがかなり長い期間連載されているが、この梅津大尉は半山とかなり親交が深かったようである。その中から興味ある事実を一つだけ紹介しておこう。
第33号(明治36年)にはたいへん興味ある広告が出ている。商品名は「時計入れ」とあるが、腕時計のような図が示されている。腕時計はこの前年にスイスでつくりはじめられたばかりでまだ出回ってはいない時代なのだ。よく読んでみると、左手首に巻きつけるベルトに懐中時計が入るようなポケットをつけ、文字盤と龍頭の部分が外へ出る仕掛けである。従って「時計入れ」ー。
そのベルトの一部には方向磁石がついている。中田米松という人物の特許製品なのだが、特許の取得は明治28年とある。興味深いのはここだ。
腕時計のおこりは1899年(明治32年)の南阿戦争のとき、英軍将校の一人が懐中時計を皮バンドで手首に巻きつけて戦ったことである。世界の時計史ではそうなっているのに、中田米松はそれよりも4年早く、同原理の商品開発をしている。
この特許取得はまやかしではなく、当時の農商務大臣榎本武揚が押捺した証書がついている。
磁石がつき、手首に装着できる「時計入れ」はサイクリストには人気を博したと思われるが、この広告は明治37年後半から以後の雑誌には出ていない。それはほんものの腕時計の普及が国内ではじまったからであろう。
話を広告から記事のほうへ移すと、自転車の技術開発や輪行技術、各地競技会の情況、名士の自転車談、海外自転車事情が多いのだが、当時の社会情勢からして自転車の軍事利用の可能性がかなり論じられている。「梅津大尉自転車談」という佐藤半山の聞き書きがかなり長い期間連載されているが、この梅津大尉は半山とかなり親交が深かったようである。その中から興味ある事実を一つだけ紹介しておこう。
ジェラールの折畳自転車
上の図は折りたたみ式の自転車である。いまなら珍しくもない携行型の一種だが、これは1895年(明治28年)にフランスの陸軍大尉ジェラールの発明によるもので、ジェラール大尉はフランス主戦自転車隊に属し、自転車を軍事利用に適するよう各種の改良を試みてきた人物らしい。
その一考案として図の自転車が「梅津大尉自転車談」に紹介されている(第44号=明治37年)。わが国にも一台は渡来したようで閑院宮元師に贈られ陸軍戸山学校に下賜された、とある。フレームはプジョー、タイヤはミシュランで、フランスでは当時から市販されていたようだ。
「天候不順にして道路地質ともに不良なる場合、旧自転車はその行進を妨害されしもジェーラル式に至りては車を折りたたみして背後に負担することができる」のが利点とされ、自転車に対する工学的なデータや自転車兵戦術についても詳しくふれている。日仏の軍部間で情報交換がおこなわれていたようである。
重量12キロ、フレームパイプを連接桿で結合する方式だが、これが折りたたみ式自転車の元祖かもしれない。
こういう新技術の紹介はほかにもかなりある。(つづく)
季刊「サイクルビジネス」№27 涼秋号、1986年10月15日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)