2009年4月30日木曜日

日米商店(2)

 日米商店の履歴の中で、1903年(明治36)3月に、本店を京橋から銀座三丁目九番地に移転、としましたが、これは同年4月2日付け時事新報に既に所在地が東京銀座三丁目となっていたからです。といいますのは「日米富士自転車八十年史稿」(昭和57年12月21日発行)では、明治37年3月と1年後になっています。
 一時資料を優先することから新聞記事の年月を採用しました。

友の会だより

 すでに会員の方には届いていると思いますが、4月20日発行の「自転車文化センター 友の会だより」第10号が出ています。おそらく近いうちには、同センターのHPにもアップされると思います。
 内容は、催事の案内と「資料から知る自転車の歴史9」、所蔵資料の紹介などです。
 明治43年発行の金輪社のカタログも一部掲載されていますので、当ブログの2009年4月23日付け、金輪社1~3と合わせて参考になると思います。

28吋

 これは大正14年1月23日付けの見積書兼領収書のようです。
 28吋のチューブ、ラーヂペダル、ラーヂ・二ツ山リム、ラーヂ左クランクなどが記入されています。合計金額は、金五拾壱円二拾銭とあります。自転車店の名前は、星自転車店で会津高田町にあったよう です。
 現在でも星自転車店をグーグルで検索しますと出てきますが、はたして同じ店であるかどうかは確認していません。
 車輪のサイズですが、今日では26インチが一般的ですが、この当時はむしろ28インチでした。戦後も小田原でこの頃のラーヂに乗っていた老人がいましたが、やはりタイヤサイズは28インチでした。

2009年4月28日火曜日

ホーライ号

 昨日のこのブログの「月賦販売」の中で、ホーライ号自転車製作所とありましたが、はたしてホーライ号と言う名の自転車だけをこの会社は製造していたのでしょうか。調べて見ますとこの会社は2,3年の間に会社名をたびたび変更しています。
 ホーライ号はこの会社の主力商品で所謂看板自転車でした。

大正10年のときは「小林商店」でした。所在地も東京市下谷区西町三番地にありました。ホーライ号自転車・ホーライタイヤ発売元とあります。(「輪業世界」第35号 大正10年1月号)

大正11年には「ホーライ号自転車製作所」 小林勇蔵とあります。所在地は同じ下谷区西町三番地です。(「輪業世界」第47号 大正11年1月号)

大正12年には「小林製作所」 小林勇蔵で、所在地は浅草区七軒町八番地に移転しています。(「輪業世界」第59号 大正12年1月号)

大正13年には、また「ホーライ号自転車製作所」に会社名がもどっています。所在地は浅草区七軒町八番地です。

 このようにたびたび数年の間に会社名を変更しています。「小林ホーライ製作所」と名のった時期もありました。銘柄車としては、蓬莱号、ヒフミ号、セント号などがありす。

 月賦販売の受領証に書いてありました販売店の「淺川自転車店 浅川政治」は、新潟県村松町にありました。ホーライ号の代理店は、大正12年1月現在で全国に22店舗ありました。

2009年4月27日月曜日

月賦販売

 これは自転車の月賦販売の受領証です。大正時代に入っても、まだ自転車は高価なものでした。現在でもローンで車を買う人は多いと思います。この時代も同じように自転車をローンで購入しました。ホーライ号は126円で現在に換算しますと40万円ぐらいになります。

 ホーライ号は、ホーライ号自転車製作所が製造した自転車です。この製作所の所在地は、東京市浅草区七軒町八番地にありました。

2009年4月26日日曜日

石版画

 これは明治38年の「上野」というタイトルの石版画で、あとから彩色が施されています。作者は延重です。
 明治38年といいますと既にこの絵にあるダルマ自転車は、巷から消えようとしていました。ダルマ自転車が流行した時期はだいたい明治23年から明治30年頃までです。それ以降はアメリカ製のセーフティー型(安全車)自転車が主流となります。
 「上野」と書いたタイトルの次に「「樹木繁茂して花あり 四季の散策によし」と書かれています。上野公園の桜はまさに満開です。

この石版画は、国立歴史民俗博物館所蔵のものです。

日米商店

 右の広告は、明治43年8月26日付け「やまと」新聞のものです。
 ラッジとホイットワースは、 1894年10月9日に合併したイギリスの自転車メーカーです。
 日米商店との直輸入販売契約は、1906年(明治39)1月に締結され、それ以来、日米商店の主力銘柄になりました。
 もともと日米商店は、その会社名でも分かるとおり、米国製品の輸入販売から始まりました。

この間の履歴は次のとおりです。

1899年(明治32)11月、創業者の岡崎久次郎は、店名を日米商店として、京橋区竹河岸で米国製懐中電灯の輸入販売を始める。
1903年(明治36)3月に、本店を京橋から銀座三丁目九番地に移転。
同年4月2日付け時事新報に祝博覧会開設非常大割引、写真器及び自転車界へ大突貫 日米商店として広告を載せる。
同年4月5日付けの毎日新聞にも同様の広告を載せる。
同年8月14日発行の日米商店商品目録に取り扱い銘柄車として、スターリング、ウルフアメリカン、スタンホード、アメリカンを掲載。
1904年(明治37)8月23日付け東京朝日新聞に、陸軍御用スターリング自転車の広告 東京銀座三丁目 日米商店とある。
1905年(明治38)4月大阪東区大川町に大阪支店を開店。
同年9月28日付け時事新報の広告に、1905年最新形スターリング自転車とある。
1907年(明治40)日米商店ラーヂ・ホイットワースのカタログを発行。

2009年4月25日土曜日

横浜鉄道図

 ミショー型自転車がフランスで発明されたのはいつ頃なのか、いろいろと説がありますが、いまのところの有力説は、1861年と言われています。それでは、このミショー型自転車がいつ頃日本に現れたのかについては、まったく分かっていません。
 明治初年頃にたくさんの自転車を描いた錦絵がありますが、三輪車を除きどれも忠実に描かれた二輪車(ミショー型自転車)はありません。唯一、正確に描かれていますのは明治10年頃の「東京府下自漫競 江戸橋石造」三代広重画です。私はこの錦絵を基準として、ミショー型自転車の日本到来は早くても明治8年以降と推定しました。ただし、これも当座の推定年であることは勿論です。他に有力な資料が現れれば、変更されるものです。
 上掲の錦絵は、極めて重要な情報を提供していると思います。なぜなら、かなり正確にミショー型自転車を描いているからです。この錦絵の発行年は、正確ではありませんが、どうやら1872年(明治5年)頃のようです。ミショーの発明から約10年後ということになります。場所も横浜で、しかも外国人商館の前のようです。コートを羽織りブーツを履いた外国人風の男がミショー型自転車に乗っています。この自転車を珍しそうにまわりの人々も見ています。二人連れの日本人女性も横目で見ています。この絵が確実に明治5年に描かれたものとすれば、ミショー型自転車の日本渡来説も早まることになります。可能性としては明治5年も充分考えられる年代です。

この錦絵は、国立歴史民俗博物館所蔵のものです。
しん板車づくし 横浜鉄道図 豊重画 版元、綱島亀吉 明治5年頃

自転車ぶし



 これは、1910年(明治43)10月10日発行の「今流行自転車ぶしと博多ぶし」(編集兼発行者 大淵 浪 発行元:駸々堂)の小冊子です。
 明治30年前後までは一部富裕層の乗物であった自転車も、この明治40年代に入りますと、多くの一般大衆も貸し自転車などを利用するようになりました。自然発生的にこのような「大流行ハイカラ自転車ぶし」まで謡われるようになりました。
 自転車乗りの中には目立とうとして曲乗りに興ずる者も現れました。皮肉と滑稽さの中にも明治庶民の大らかさを感じさせてくれます。

機関誌「銀輪」

 昭和23年8月1日に西日本自転車労働組合文化部が発行しました機関誌「銀輪」第2号の表紙です。 戦後、新憲法により労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動権)が保障され、各産業別に労働組合が結成されました。これもその中の一つの組織が発行した機関誌です。
 この組合の所在地は、福岡市住吉平田町にありました。

2009年4月23日木曜日

東洋商会

    「輪界」第11号 明治42年7月25日発行に掲載された公告

 東洋商会の創業者は松下常吉氏です。彼は、1855年(安政2)5月には石川県の能登半島七尾町で生まれました。明治16年に上京し、石川島造船所で機械工として働きました。その頃、石川島造船所にキングーという米国人の技術者がいて、最新の機械技術等の教育を受けています。
 その後、東京小石川陸軍砲兵工廠や田中機械工場で働きました。明治22年の頃に田中機械工場の事務員であった庄司という人が、米国製の自転車に乗っているのを見かけ、たいへん興味を持ちました。この頃より自転車の利便性と将来性を強く意識するようになったようです。
 明治30年の春にはその頃勤めていた芝浦製作所を辞職して、芝区三田四国町二番地十六号に貸自転車及び修理業の店を開業しました。この頃の出来事として次のような事件が起っています。
 明治32年3月21日付けの東京朝日新聞に
「一昨夕芝区三田四国町二番地十七号の貸自転車業愛輪会松下常吉方へ十七八の男来たり僕は三田三丁目の洋服裁縫職宮田宇吉と申す者だが三十分程貸して貰いたいとて定価二十六七円の自転車一輌借り受けヒラリと飛び乗って駆け行きしまま帰り来ずさては乗り逃げと心付きて訴たへたり・・・」
とあります。 
 その後、長男である幸作氏と親子共同で自転車製作を開始し、精力的に取り組むようになりました。 明治42年には、上野で開催された第1回発明品博覧会で、出品した自転車が高く評価され、銀牌を受賞しています。
 事業は順調に推移し、販売部として芝区芝口一丁目十六番地に置き、更に第二工場として田町三丁目八番地に建設し、年間に1,500台を生産するという規模になりました。そして、東洋商会製の自転車はジャワ、スマトラ、朝鮮、樺太などにも輸出されるようになりました。
 「輪業世界」1922年(大正11)1月号に幸作氏の名前で喪中とあり、恐らく大正10年に松下常吉氏は逝去したと思われます。
 大正11年12月10日には三田四国町から大崎町居木橋四八八の大崎駅付近に住宅と工場のすべてを移転しています。

 東洋商会の銘柄車としては、東洋、ルビー、ヒーロー、クローフオルド、シャーマン、チビタル、松下製デートンなどがありました。

金輪社(3)

        明治42年10月6日付け上毛新聞の広告

 これも金輪社の新聞広告です。上毛新聞という地方紙に掲載されたものです。
 特約関東一手販売店 岩崎自転車商会(高崎市連雀町)とあります。ここでは、看板自転車のモノポール(Monopole Cycle & Carriage)ではなく、ピースとセントジョージの商標を載せて宣伝しています。

 『上毛新聞』は、明治20年11月1日に群馬日報と上野新報が合併して創刊された新聞です。

金輪社(2)

 この保証書には発行年月日が記入されていませんので分かりませんが、おそらく大正初期のものと思われます。ターヒー自転車とはあまり聞かない銘柄です。
 金輪社の看板自転車と云えばモノポールでした。モノポール号イコール金輪社というイメージが定着していました。

金輪社

  今年は、横浜が1859年(安政6年)に開港からしてから150周年を迎えます。
 この新聞広告には開港50年とあります。
 自転車も文明開化を象徴する一つで、開港してまもない明治元年には、この地にイギリスのラントン三輪車が現れています。そして開港から50年も経ちますと巷には自転車が多く行き交うようになりました。国産化も進み、人力車を駆逐して庶民の足として利用されるようになるのもこの時期です。
 金輪社は、元石川商会の社員であった松浦精一郎がはじめた会社です。彼は、明治時36年に独立して横浜の相生町五丁目に開業しました。その後、明治41年9月には業務も伸展し、尾上町四丁目に移転しています。尾上町と言えば石川商会(尾上町六丁目)があった場所です。金輪社が取扱った主な銘柄はイギリスのモノポールやピースでした。

参考資料:
明治42年7月3日付け横浜貿易新報
横浜成功名誉鑑 横濱商况新報社編 明治43年7月発行

2009年4月22日水曜日

商標偽造

 これは新聞に掲載された謝罪文です。ピアスの商標を偽造したことが発覚したことによるものです。どうやら商標変更後もこのような偽造が後を絶えなかったようです。言い換えればそれほどピアスは人気車種であったことが分かります。
 下の広告は、ハンバーのものです。当初、ハンバーはこの横浜の商館が輸入し、神戸の橋本と東京の仁藤が特約代理店となり販売されていました。その後、ハンバーは神戸の橋本商会が一手販売することになります。

2009年4月21日火曜日

センター号(2)

 この商標はセンター号のものです。明治43年の橋本商会のカタログから転載したものです。このマークをよく見ていれば「Center」と早とちりすることもなかったと思います。
 「Centaur」と、この絵があれば、直ぐにケンタウルス号であることが分かったはずです。「Centaur」の発音は、セントー、セントーア、セントアーでしょうか。センターとは読まないと思います。カタログにはセンター号と書いてあります。

資料提供:自転車文化センター

廃業の真意

 石川商会が明治42年に廃業した理由として、社主である石川賢治氏の病気であるとしていますが、本当にそうなのでしょうか。一般的に考えれば社主が病気療養中でも補佐役である他の役員や社員がいれば会社は存続していくはずです。個人商店であれば店主が病気になり廃業することもうなずけますが、どうも石川商会のような大きな組織では、それだけの理由で廃業することは考えられません。
 上掲の資料は、解散後の翌年に行われた新年会の招待状です。
 石川賢治氏から元社員であった石田源太郎氏へ宛てたものです。石田源太郎氏は石川商会を退社後、鎌倉の井桝家へ養子に入りこの地で自転車商を開業しました。現在でも井桝自転車商会(小町2丁目13-5)は営業しています。この資料は井桝新雄さんから提供していただきました。この招待状の日付は明治43年1月10日で新年会は16日の午後4時から横浜の相生町四丁目の八百政楼で行うとあります。
 この招待状から、快気祝いのようなことは一切感じられません。
 そして、雑誌「輪界」には次のような投稿があります。
 「石川商会の主人石川賢治氏同商店廃業に就いて」の中で、 

其主要取扱品米国車不振に陥り其挽回の目途立たず・・・

 とあります。やはり廃業の一番の原因はピアス車を中心とした米国車の販売不振にあったようです。この時期になりますともはや米車に人気はなく、主流は英国車に変わっています。安価な国産車の台頭も見逃せません。何れにしても時代の流れに乗遅れたような気がします。病気も一つの理由だったのかも知れませんが、営業不振が最大の理由のようです。

参考資料:
雑誌「輪界」(第11号 輪界雑誌社)明治42年7月25日発行

競輪舎

 これは競輪社ではなく競輪舎の広告です。この広告は明治42年7月25日発行の雑誌「輪界」(第11号 輪界雑誌社)から転載したものです。この競輪舎の所在地は、東京小石川第六天前(小日向水道端三ノ二八)とあります。先の競輪社の本店は、やはり小石川水道端町一ノ二八にありましたから、ことによると同じ会社かも知れません。競輪舎を競輪社に変更したのでしょうか。
 ここにあるキング号という銘柄は何処のメーカーでしょう。恐らくこの時期ですとイギリス製の可能性があります。1901年頃に確かにキングというメーカーがありますが、銘柄とメーカー名が同じとは限りません。むしろ違う場合が普通です。それにしてもキングとは、あまりにも一般的なネーミングです。アメリカだけでも、ザ・ホイールHPで調べますとキングとつくものが16銘柄もあります。

タビス号

 これも競輪社の広告です。大正9年10月3日付け読売新聞に掲載されたものです。
 低価格のタビス号は、58円とあります。当時の米価から換算しますと、それでも8万円ぐらいになります。

競輪社

 これは大正9年10月4日付けの東京毎日新聞に掲載された広告です。自転車製造卸商 ㈱ 競輪社と書いてあります。所在地は東京下谷区御徒町三(停留所前)とあります。
 ここで注目したいのは会社の名前です。競輪という言葉は誰が最初に考え、使用したのか分かりませんが、すでに大正期には一般的な名称だったのでしょうか。私はいままで昭和23年の競輪誕生のころから使われ始めたものと思っていました。
 現在「Keirin」は、国際語になっています。

2009年4月20日月曜日

三輪車

  前のブログ(2009年4月19日オールデース三輪車)で「以前見たこの頃の錦絵に似たような三輪車が描かれていたのを思い出します」と書きましたが、やっと思い出しました。その錦絵とは「東京名所 芝公園増上寺山門前之景 大正元年」です。

資料提供:自転車文化センター

2009年4月19日日曜日

オールデース三輪車

 これは、オールデースの英国ロンドン中央郵便局特別仕様の三輪車です。
 石川商会のカタログ(明治40年頃)に掲載されたものです。
 日本の逓信省あたりでも恐らくこのカタログを見たと思います。実際にこのような仕様の三輪車が利用されたかはいまのところ不明です。以前見たこの頃の錦絵に似たような三輪車が描かれていたのを思い出します。

Alldays(G.P.O service tricycle)

センター号

 このブログでも書きましたが、ゼブラ自転車は、イギリスのセンター号を見本に製作したとありますが、以前からこのセンター号に疑問をもっていました。と言いますのは、イギリスで当時センターという銘柄が見当たらないからです。
 これは私の不注意でした。ゼブラ自転車のカタログにある商標をよく見ないで「センター Center」とばかり思い込んでいたからです。ラッジをラーヂと書いたり、自転車曲乗家のヴォーンをボーンとするのはかまわないのですが、センターと書いてあれば恐らく100人中100人の人が「センター Center」を想像すると思います。これを「セントーやセントーア Centaur」と直ぐに分かる人はよほど英語に堪能な方だと思います。
 Centaur は、ケンタウルスと言った方が馴染みがあると思いますし、意味も直ぐに分かります。
 当時、英国でCentaurというメーカーは、次の2社がありました。

Centaur Cycle Bicycle & Tricycle Manufacturing Co. (1879年頃)
Centaur Cycle Co. (1911年頃)

2009年4月18日土曜日

オールデース

  この写真は、明治40年頃の石川商会のカタログから転載したものです。
 石川商会と言えばアメリカ車であるピアス、アイバンホー、スネルの販売で有名でしたが、この時期になりますと英車が主流になっています。このカタログに掲載されている自転車も総て英車です。オールデースの他にトライアンフ、ラグランなどが載っています。
 これは、軍用自転車のオールデース228号で、価格は190円(米価換算で約150万円)です。オールデースはバーミンガムにあったメーカーで、創業は1650年と古いですが、自転車の製造は、1889年からです。社名は、オールデース&オニオンズ・ニューマチック・エンジニアリング株式会社といいました。

ビーストン・ハンバー

 この写真は明治40年頃の神戸・橋本商会のカタログから転載したものです。自転車は、橋本商会が一手販売していました英国のハンバーです。ビーストンは、ノッティンガム近郊にある町の名前です。この自転車はビーストンで造られたものなので、ビーストン・ハンバーと呼ばれました。
 ハンバーの歴史は古く1868年にトーマス・ハンバーにより、イギリスのシェフィールドでミショー型の自転車の製造から始まったと伝えられています。まもなくノッティンガムに移り、自転車製造を本格的に開始しました。その後、業務を拡大し、ビーストン、ウルバーハンプトン、コベントリーに工場を持つようになりました。

2009年4月17日金曜日

ピアスのマーク


 石川商会のカタログや正価表が時々オークションや古本屋から出ますが、発行年が記載されていないものが多くあります。
 そこで年代特定の判断材料の一つとしてピアスの商標をあげることができます。
 このブログでも書きましたが、明治36年7月に石川商会はピアスの商標をPの字から丸石に変更しています。ですからPのマークであれば、明治36年7月以前となり、丸石であれば明治36年7月から明治41年までということになります。
 それと、カタログや正価表をよく見ますと自転車の年式が書いてある場合があります。これらを参考に発行年を絞り込むことができます。

ゼブラ

 これは昭和10年7月発行のゼブラ・タイムス(夏の特大号)です。おそらく業界誌だと思います。
 ゼブラ自転車製作所の創業は、明治25年で、高橋長吉が浅草の聖天町で人力車製造を開始したのがはじまりです。明治30年頃から自転車用修理部品の生産を始めました。明治35年にはイギリスのセンター号を見本に自社ブランドのゼブラ号を販売しています。

2009年4月16日木曜日

石川商会大阪支店

 この写真は石川商会の大阪支店です。明治39年1月のカタログから転載しました。店の場所は、大阪市西区西横堀東上橋南詰にありました。石川商会はこのブログでもたびたび述べていますが、明治32年頃から自転車の輸入をはじめ、特にピアス自転車の販売で業務を拡張していきました。明治39年には横浜の本店をはじめ支店としてカナダのトロント、東京、大阪の4店舗になりました。最終的(明治41年の解散時)には、神戸出張所を含め全部で5店舗になっています。

2009年4月15日水曜日

丸石のマーク

 この写真は、石川商会の東京支店です。明治39年1月発行のカタログから転載しました。店の場所は、東京市京橋区南伝馬町三丁目にありました。屋根の上の塔に丸石のマーク(実はこれが新しいピアスのマーク)が見えます。このマークの使用は明治36年頃からです。銘柄車のピアスは石川商会の一手販売でしたが、別ルートで中古車などを輸入した業者がフレームを塗替え販売する悪質なケースなどがあとを絶ちませんでした。それに横浜のアンドリュース&ジョージ合名会社も似たようなマークの使用をはじめました。そこで石川商会は、やむなくピアスのマークを丸石に商標変更するという思い切った手段に出ました。明治36年7月31日付けの萬朝報に「輪界に警告す」というタイトルで、この商標変更のことを載せています。

石川商会本店(2)

 この写真も石川商会の本店です。撮影年月はカタログに書いてありませんが、取扱自転車が総て英国車になっていますので明治40年頃と思われます。明治41年には石川賢治社主の病気引退により丸石へ引き継がれますが、恐らくそれに近い年月に撮影されたものと思います。社屋も近代的な三階建てのビルに変わっています。所在地は同じ横浜の尾上町六丁目です。

裏焼き



 前のブログで写真の反転について書きましたが、よい例がありますので載せたいと思います。この二枚の写真は本来同じものですが、下の写真が現像の裏焼きになっています。この写真は上野水茶屋を撮影したもので明治25年頃のものと思われます。撮影者は横浜の弁天通一丁目にあつた玉村写真館の店玉、玉村康三郎です。
 右隅にあるダルマ自転車が、下の写真では左隅になっています。それと撮影場所を書いた下部のローマ字を見ると分かります。

石川商会本店

 この写真は石川商会のカタログから転載したものです。カタログの発行年は明治39年1月です。
 石川商会本店の住所は、明治33年に横浜市弁天通四丁目七十三番地にありましたが、明治39年には横浜市尾上町六丁目八十九番地になっています。業務拡張により弁天通から尾上町にこの間、移転したようです。また、住所は同じですが明治41年頃の写真を見ましと、近代的な三階建ての社屋になっています。
 写真をよく見ますと屋根の上にある看板の字が反転しています。この頃の写真に多く見られる現像時のミスと思われます。
 左側に写っています木枠は何なのでしょうか。自転車を格納するには厚みがないように思われます。この頃の自転車梱包もどのようなものであったか興味深いところです。
 自転車梱包の一つの資料としては、日本自転車史研究会の機関誌「自転車」第50号 1990年1月15日発行の(明治期の自転車梱包について)を参照願います。これは明治38年の農商務省商工局『海外輸入貨物包装調査報告第1回』の写真入り資料です。この資料は齊藤俊彦氏から提供されたものです。

橋本商会本店

 これは神戸の橋本商会本店の写真です。正確な撮影年月日は分かりませんが、早くとも明治40年頃か、或は大正期に入って撮影されたもの思われます。時代の先端を行く、自動車が2台も写っています。よく見るとハンバーの看板が中央右よりの窓ガラス付近にあります。

2009年4月14日火曜日

橋本商会(2)

 資料を整理していましたら、橋本商会の正価表と石川商会のカタログが出てきましたので、逐次このブログで画像などを紹介したいと思います。
 橋本自転車商会の大阪出張店の写真は、2009年4月8日付けのこのブログにありますが、コピー転写のため画質が悪いです。そこで再度、原本からのものを掲載いたします。大きいサイズを希望の方は、下記のメールアドレスへ申し込みください。無料にて送信いたします。

newsbuna@yahoo.co.jp

ラシクル

 このチラシは、発行年がどこにも書いていないので分かりませんが、恐らく明治36年頃のものと思われます。
 明治36年8月28日付けの大阪毎日新聞の広告にもアイバージョンソンとラシクルがあり、東洋総代理店角自転車商会とあります。
 このチラシをみますと角自転車商会は、全国に3店舗あったことが分かります。本店は大阪市本町一丁目、東京支店は東京市神田三崎町二ノ三、九州支店は筑前博多蔵本町とあります。
 またラシクルはアメリカのメジャーテーラーと日本の石井大三郎選手が乗用していたとも書いてありま す。
 メジャーテーラーは、アメリカの黒人選手でマーシャル・ウォルター・テイラー(1878年11月26日-1932年6月21日)です。通称、メジャーテーラーと呼ばれていました。1899年の世界選手権大会の1マイル・トラック競技でみごと優勝した選手です。人種差別の激しい時代の中で活躍した選手でした。
 石井大三郎選手は、東西の横綱級の一流選手の一人で、東の鶴田勝三、西の石井大三郎とも言われていました。 角自転車商会の所謂お抱え選手の一人です。
 ラシクルは、オハイオ州ミドルタウンにありましたマイアミ・サイクル&製造会社の銘柄車です。製造年は1894年~1918年です。
アイバー・ジョンソンは、マサチューセッツ州フィッチバーグのアイバー・ジョンソンズ・アームズ&サイクル・ワークスの銘柄車で、1896年~1918年まで製造されました。アイバー・ジョンソンは、イギリスのBSA同様兵器も製造していた会社でした。

2009年4月13日月曜日

競輪

  この「サイクルファン」は、小倉で競輪が発祥してまもない1949年4月3日の発行です。
 第1回西宮市主催 西宮競輪予想表とあります。
 自転車の銘柄を見ますと時代を感じさせる名前が並んでいます。

サンスター、白菊、日帝、マルシン、BBB、333、ウガイ、富士フェザー、プリミア、富士、エバレスト、ミツウロコなどが見えます。

 競輪は、地方財政の寄与、戦災都市復興及び自転車産業振興を目的として開催されるようになりました。法律も整備され「自転車競技法」は、昭和23年7月に国会で可決成立しました。
 第1回の競輪は1948年(昭和23)11月20日~23日に北九州の小倉で開催されました。なぜ小倉かといいますとちょうどこの年の10月に福岡県で第3回の国民体育大会が開催され整備された競技場をそのまま利用することができたからです。

三菱十字号

  戦後まもなく航空機の技術者であつた本庄季郎技師が製作した三菱十字号は精緻な強度計算からうまれた自転車でした。
 十字号のコンセプトは次のような考えから発想されました。

一、戦時中大量に航空機用材として生産されたアルミニューム合金材を平和産業に転用し、これを有効に利用する。
一、すでに定着したダイヤモンド型フレームはもはや改良の余地がないのか。
一、鋼材の溶接作業にかわり、できるだけプレス作業を利用する。(航空機のプレス作業用機械が遊休中のため)
一、機能を向上させながら工作の合理化、簡便化さらには材料の節約など。
一、分解、組立、手入、取扱の簡易化。
一、精密な構造及び強度計算による安全率の確保。特にアルミ軽合金材の撓みを考慮する。

 こうして、三菱十字号は1947年(昭和22)に生産を開始しました。その後、Ⅰ型からⅣ型まで進化して行きました。 
 1950年6月に勃発した朝鮮戦争の特需景気とともに三菱は本来の重工業へと戻って行き、十字号の生産も中止となりました。

写真提供:自転車文化センター この三菱十字号はⅠ型です。

参考資料:
雑誌「自然」3号 1947年発行(自転車の強度 本庄季郎)

「三菱重工業技術部報告」第62号 1947年 同技術部発行

2009年4月12日日曜日

モハン号

 このブログでも前に取り上げましたが、モハン号について少し書いてみたいと思います。
 鳥山新一氏の書いた本や雑誌の記事にありますモハン号の写真を拡大鏡でよく見ますと、同じものではないことが分かります。モハン号の特徴としましては、チェーンホイールの伝達構造と折畳小径車であることです。特にこのチェーンホイールの位置は若干ずれていますが左右それぞれに付いていることです。細部の構造は写真でよく分かりませんが、ギヤ比による変速か、或はギヤ比の拡張のために左右にそれぞれ付いているのではないかと思われます。
 この仕組みなどは書いてありませんが、雑誌「工芸ニュース」所収の文中に簡単ですが次のようにあります。

唯戦後一時騒がれた折畳式の自転車は8年ごろ前輪14in、後輪16inのモハン号(図8)が鈴木商会から市販され、後に改良型をだしたが筆者も長年2種類共使用した。

 どうやらモハン号のⅡ型とその改良型の2種類を鳥山氏は所有していたようです。旧型(Ⅰ型)は婦人車をそのまま小さくした形と図8の注書きにあります。ですからモハン号は全部で3種類製造販売されたことになります。 
 昭和8年から昭和9年頃にかけて鈴木商会で製作されたようです。鈴木商会の履歴や所在地はいまのところ不明です。

参考資料:
「すばらしい自転車」鳥山新一著(日本放送出版協会版、1975年01月発行

「工芸ニュース」5月号 第23号 昭和30年5月5日発行
 (わが国自転車のデザインとその変遷 鳥山新一)

当ブログ 2009年3月5日 コンパクト自転車

スイツ工業

 スイツ工業とはあまり聞かないメーカーです。銘柄車は、国立号 スイツ号です。写真を見るかぎりかなり大きな工場に見えます。東京の国立に工場があったのでしょうか。詳しいことはこれから調べたいと思います。このメーカーは「平成16年度 日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査報告書(黎明期から昭和30年代まで」(平成17年3月発行)にも載っていません。
 1936年といえばスイス・チューリヒの世界選手権の個人ロードで、出宮順一選手が7位と大健闘した年です。

2009年4月11日土曜日

セレリフェール

 この写真は雑誌「モーター」(大正9年11月号 第88号)の表紙に掲載されているものです。
 そしてキャプションには次のように書いてあります。

この写真中に見える二輪車は世界最初の自転車にして何人が作ったか製作者は不明であるが1720年時代に製作されたることだけは明かである。現にフランスのバーヤータン・クラマンテン博物館に珍物として蔵したる。

 ドイツのカール・フォン・ドライス男爵が考案したドライジーネは1817年ですから、それよりも古いことになります。どこから1720年という年号が出てきたのか分かりませんが、極めて怪しげな年代設定です。それに写真にある自転車もこれまた怪しげな自転車です。時々似たような自転車を本や雑誌で見ますが、恐らくドライジーネを模倣して木馬のように動物の顔を先端につけた玩具的乗物の一種ではないでしょうか、以前セレリフェール(現在、この説はジャック・スレーによって否定されています)と呼ばれていた自転車の一つだと思います。

オーウェン・ピラミッド

  私がはじめてエーバイク(A-bike)を見たのは2年ぐらい前でした。国道1号線の歩道をエーバイクに乗った一人の男性がゆっくりと走っていました。
 デザインはたしかにユニークですが、長距離走行には向かないと思いました。このエーバイクのデザインですが何処かで見たような形でした。最近たまたま雑誌を整理していましたら、上掲のイラストが目にとまりました。車輪径は極端に違いますが、何となく似ているように思います。
 エーバイクは、2006年7月ごろ英国の発明家でありますサー・クライブ・シンクレア氏が開発した新型のフォールディングバイク(折りたたみ自転車)です。重量も約5.7kgという超軽量化を実現しています。所謂ちょい乗りにはもってこいの自転車だと思います。私も1台欲しくなりましたが、まだ手に入れていません。
 オーウェンの自転車は1896年に製造されました。名前はオーウェン・ピラミッドといいます。この会社は1878年の創業で1898年ごろまで製造したようです。他の銘柄にはオーウェンブラックビューティーやオーウェンなどがあり、オーウェン製造会社の工場はコネチカット州のニューロンドンにありました。
 私が見るところ、Aーバイクよりもむしろこのオーウェン・ピラミッドの方がよほどAーバイクの命名に適していると思います。

2009年4月10日金曜日

ダルマ乗車方法

 オーディナリー(ダルマ自転車)の乗り方について、かなり正確な文章が志賀直哉の短編小説「自転車」にあります。次のような文章です。

学習院の仏蘭西語の教師に庄司という背の高い先生がいて、この人が乗っていたのは又一ト時代前のもので、前輪は径五尺程の大きな車、後輪は一尺もない小さなものだった。近頃は自転車変遷史の絵などで見かける以外、実物は跡を絶ったが、乗るには片足を前輪と後輪とをつなぐ弓なりのフレームについている小さなステップにかけ、もう一つの足で地面を蹴って車を押し、惰性のついたところで、二段目のステップから、悠然と鞍に跨がり、道行く人を眼下に見ながら走って行く。チェインはなく、足の一回転と共に前輪も一回転するのだから、今から考えると、そう早い乗物ではないのだが、総てが悠長な時代で、早い乗物と思われていた。庄司先生がこの自転車で今よりも急な九段坂を下りたという噂を聞いて、私達は感服した。

 更に詳細に書くとすれば次のようになると思います。
 先ずダルマ自転車の後輪の後ろに立ち、ハンドルのグリップを両手でもちます。次に左足を後輪の少し上部にあるステップに置きます。このステップは弓なりのバックボーンのフレームに取り付けられています。右足で地面を蹴りながら助走します。ある程度スピードが出て直進性が増し安定したところで、右足を地面から離し、サドルにまたがる姿勢に移ります。サドルに腰掛けたら両足を回転する前輪のペダルに回転に合わせて置きます。これで完了です。後はペダルを踏み速度を上げていきます。降りる方法は、乗る場合の逆になります。スピードをじょじょに落とし、ペダルから左足を離して、後方のステップを探ります。ステップに左足がついたら、腰をサドルから離し右足も下げていきます。スピードがなくなったところで、右足を地面につけ着地します。左足もステップから離し地面に着地します。
慣れてきましたら次のような下車方法ができるようになります。スピードを落して、左足がペダルとともに時計の針(左回りで)で言えば50分から45分にきたときに右足をペダルから離し、左側に飛び降りるような形で降ります。この際、左足も45分ぐらいで速やかにペダルから離してほぼ同時に飛び降ります。この時に一番注意する点は、左足をいつまでもペダルに置かないことです。50分から45分までの回転時にすばやく行います。いつまでも置くとペダルが下がりすぎバランスを崩して転倒してしまいます。

 ダルマ自転車で一番つらいのは上り坂と下り坂です。特に下り坂は怖いです。前輪のスプーン型ブレーキを急にかけますと前に体が投げ出されて非常に危険です。ブレーキを少しかけ、あとは所謂ペダルでバックを踏むようにします。急坂では降りた方が無難です。庄司先生は九段坂を下りたといいましから、度胸もさることながら、自信があったのでしょう。

2009年4月9日木曜日

ウイリー

 先のブログ(2009年4月5日 曲乗り)で「日本の自転車曲乗りのはじまりはどうやらこのボーンとシッ ド・ブラック一座の影響と思われます」と書きましたが、これを裏付けるような文章が志賀直哉の短編小説「自転車」の中にありました。次のような文章です。

どれだけかして、往来での競走にも余り興味がなくなると、今度は曲乗りに興味を持つようになった。ある時、仲間のニ三人が横浜でバーンという曲乗りの上手な男が、前輪を高くあげ、後輪だけで走っているのを見て来て、驚いて私達に話した。暫くして、松旭斎天一の奇術の興行の中で、バーンの曲乗りを見、それから私達の間にも急に曲乗り熱が高まった。

 バーンとはボーン(William .C.Vaughn)のことで、前輪を高くあげ、後輪だけで走っているとは、まさにウイリー走法(Wheelie)です。

2009年4月8日水曜日

雑誌「サイクリング」

 この絵は、昭和32年創刊の自転車雑誌「サイクリング」です。
 この4年前の昭和28年にはサイクル時報社から「サイクル」が発刊されています。
 戦後の荒廃から立ち直り、この頃になりますと自転車熱も高まってきたようです。

自転車文化センター研究報告書

 この度、自転車文化センターでは研究報告書の第2号を刊行しました。
 内容は、「昭和30年代における女性の自転車乗車率の上昇原因」谷田貝一男氏と「ドライジーネとミショー型小史(1817年~1870年)」パリ在住の小林恵三氏の研究報告です。

 前回の報告書は「日本で製作・販売された自転車のブランド名に関する調査報告書(黎明期から昭和30年代まで」(平成17年3月発行)でした。

橋本商会

 この写真は明治40年頃に撮影されたものと思われます。大きな看板には神戸橋本自転車商会大阪出張店とあります。住所は「大阪京町橋西詰北へ入」と書いてあります。
 この時期、橋本商会は、本店が神戸三宮町二丁目に、九州支店が博多川端町にありました。
 明治43年のカタログを見ますと、次のような銘柄車を販売していました。
 ハンバー、インペリアル、センター、ノートン、スターレー、ラピッド、アライアンス、スタンダード、プリティー、サンシャインなどです。
 橋本商会は、ハンバーの東洋総代理店でした。

ランブラー(2)

     1891年発行のゴーマリー&ジェフリー製造会社のカタログより

 この自転車はゴーマリー&ジェフリー社製のランブラーです。この自転車の特徴としては、サドル下のコイル状バネとトップチューブの軽量化にあります。ビクターは前フォークにあるスプリングが特徴でしたが、このランブラーはシートステイの形状にあります。一目でその特徴が分かります。
 志賀直哉や那珂通世がどのタイプのランブラーに乗っていたのか、いまのところ定かではありませんが、横向きの写真などがあればすぐわかると思います。ただここで注意したいのはランブラーという銘柄は次の4社が名付けています。アメリカン自転車会社、アメリカン・サイクル製造会社、ゴーマリー&ジェフリー製造会社、ポープ製造会社です。このうち最初にネーミングをしたのはゴーマリー&ジェフリー社です。年代的に見て可能性の高いのはやはりこのゴーマリー&ジェフリー社製のランブラーだと思います。

参考資料:ザ・ホイールメンHP
Rambler-(M) American Bicycle Company, Rambler Sales Department, Chicago IL, 1901
Rambler-(M) American Cycle Manufacturing Company, Western Sales Department, Chicago IL, 1903
Rambler-(M) Gormully & Jeffery Manufacturing Company, Chicago IL, (1879) 1888-1900
Rambler-(M) Pope Manufacturing Company, Chicago IL, 1904
Rambler-(M) Pope Manufacturing Company, Hartford CT, 1908

2009年4月7日火曜日

ランブラー

                 明治32年8月15日付け東京朝日新聞の広告

 志賀直哉が短編小説「自転車」の中で、ランブラー自転車を衝動的に買ってしまったという話があります。次のような文章です。

 錦町から美土代町へ出て、神田橋の方へ歩いて帰って来た。不図、それまで知らなかった自転車の店のあるのを見た。ショーウインドウにランブラーという車が飾ってある。これはクリーヴランドやデイトンより品は少し劣るが、今までのランブラーとちがって、横と斜めのフレームは黒、縦は朱に塗った、見た目に美しい車だった。それが急に欲しくなった。早速、店へ入って値を訊くと、現在持っている金に九十円程足せばいいので、直ぐに決めて、その金を渡し、足らぬ分は自家で渡す事にして、小僧を連れ、その新しい自転車に乗って麻布三河台の家へ帰って来た。古くなったデイトンよりは遥かに軽く、乗心地がよかった。叱言を云われた記憶もないから、祖父がその金を払ってくれたものと見える。

 この文章にある「それまで知らなかった自転車の店」とはいったい何処の何という店なのでしょうか。というのは当時ランブラーを扱っていた店は限られていたからです。それは神田区錦町一丁目神田橋外にあった濱田自転車店です。文章の「錦町から美土代町へ出て、神田橋の方へ」と一致していることが分かります。間違いなく濱田自転車店なのです。

 志賀直哉以外で当時ランブラーを愛用していた人に那珂通世がいました。彼は「奥州転輪記」(明治34年4月1日発行の『自転車』所収)の中で次のように書いています。

 余が乗れるは、ランブラーなり、世間に余りはやらぬ旧式の車なり。然れども此車は、余が為には実に善く忠勤を励みたり。

 ランブラーの意味は「「ぶらぶら歩く人」でゴーマリー&ジェフリー社製の銘柄車です。日本では濱田自転車店が一手販売していました。

那珂通世博士

 那珂通世(なかみちよ)博士については、先のこのブログでも自転車十傑(部門は旅行家)の一人として選出されたことを書きましたが、博士が自転車旅行で各地を周った際に聞いた「自転車の名称」を新聞紙上に載せています。それによりますと、
一輪車、二輪車、じりんしゃ、にてんしゃ、いちりんきしゃ、にりんきしゃ、ひとり人力、ひとりくるま、ひとりきしゃ、じりきしゃ、いっちょうくるま、にちょうくるま、そして、なかには「自転車が一匹通る」というところもあったそうです。(明治34年8月17日付け東京朝日新聞)
 那珂通世は、趣味と歴史研究などを兼ね当時まだ珍しかった自転車を使って東北や九州をはじめ朝鮮や満州までも自転車で旅をしています。ですから彼のことを「自転車博士」と呼んだようです。
 那珂通世の略歴は次のとおりです。
 那珂通世(1851-1908)は、幼名を荘次郎と云い、1851年(嘉永4)1月6日に盛岡馬場小路にて旧南部藩士藤村政徳の三男として生まれました。1866年(慶応2)に那珂通高(江幡梧楼)の養子となり、小五郎通継と改名しました。さらに1889年(明治2)には通継改め通世と改名しています。 1871年(明治4)に上京して慶応義塾に通いました。その後教師となり、第一高等中学校教授、高等師範学校教授、東京帝国大学文科大学講師などを歴任しました。1901年(明治34)には東洋史を専攻し、文学博士になっています。主な著書には『支那通史』、『上世年紀考』、『成吉思汗実録』などがあります。

2009年4月6日月曜日

石川商会

 この写真は、明治34年4月1日発行の雑誌「自転車」第9号から転載したものです。石川商会もこの時期になりますと商売も順調に伸び、支店も4店舗になっています。本店(横浜市上尾町六丁目)、カナダ支店(トロント市)、東京支店(京橋区南伝馬町三丁目)、大阪支店(西区横堀東上橋南詰)、神戸支店(元町六丁目、上掲の写真)です。
 石川商会の社歴を簡単に述べますと、
 創業者の石川賢治は、1859年(安政6)に山形県西村山郡河北町に生まれました。明治14年に慶応義塾に入学し福沢精神を学びました。明治19年には、単身アメリカへ渡り、貿易実務を精力的に研鑽し、帰国。明治27年には、石川商会を設立して、横浜とカナダのトロント市に店舗を構えました。明治33年からは米国とカナダから自転車や写真機などを輸入販売しました。自転車の主な銘柄はピアス、アイバンホー、スネルでした。その後、順調に会社は発展して営業拠点も5店舗になりましたが、明治41年に石川賢治社主が病気なり、石川商会は解散してしまいます。明治42年3月には山口佐助が事業を継承し(資)丸石商会を設立させました。

2009年4月5日日曜日

曲乗り

 日本で最初に自転車の曲乗りをはじめた人はいったいだれでしょうか。私がすぐに思い出すのは、あの富士山を自転車で滑降した鶴田勝三とボーンです。富士山頂で鶴田やボーンが曲乗りをしている写真が残っているからです。
 鶴田勝三は当時、自転車競技の一流選手でした。明治31年11月6日に東京上野の不忍池畔で開催された自転車大競走会の二十哩競走で、横浜バイシクル倶楽部のドラモンドとの一騎打ちで見事に優勝しています。ボーンは、ウィリアム・C・ボーン(William .C.Vaughn)というアメリカ人で、横浜商館のアンドリュース&ジョージ合名会社(横浜市山下町242番館)の社員でした。彼も自転車競技選手であり、曲乗りも得意としていました。
自転車曲乗りの流行のはじまりは、明治33年6月にパリの大博覧会に向かう途中に来日したアメリカのシッ ド・ブラック一座の興行からのようです。同一座は回向院や三崎町の東京座などで二週間ほど興行し、大盛況を博しました。この一座の興行にもボーンが一役買っていました。日本の自転車曲乗りのはじまりはどうやらこのボーンとシッ ド・ブラック一座の影響と思われます。
明治34年4月1日発行の雑誌「自転車」に読者が部門別に十傑を投票で選んでいます。その投票結果が次のように掲載されています。投票は過去にこの誌上で2回行われ、今回が3回目の投票でした。部門は全部で十傑ですから10ありまして、名望家、博識家、競走家、曲乗家、旅行家、斡旋家、実験家、着実家、自転車商店、技術家となっています。
曲乗りの名人は次のような順位でした。
1位 1,560票 小林作太郎  芝浦製作所
2位 975票  鶴田勝三   芝区公園
3位 819票  岡田芳之助  大阪北区北道頓堀通
4位 654票  山崎健之極  京橋区八官町
5位 573票  池田 勗   大阪市本町一丁目
6位 348票  梅津元晴   牛込区若松町
以下略
この投票結果をみるかぎり、どうやら自転車曲乗りの名人は小林作太郎であることが分かります。それでも鶴田はやはり2位に入っています。もちろん競走家の1位は892票を集めた鶴田勝三でした。
以下十傑に決まった人々をあげてみますと、伊東琴三(名望家)、梅津元晴(博識家)、鶴田勝三(競走家)、小林作太郎(曲乗家)、那珂通世(旅行家)、小池菊次郎(斡旋家)、北村友吉(実験家)、小柳津要人(着実家)、四七商店(自転車商店)、梶野商店(技術家)以上です。
やはりそうそうたる顔ぶれが選ばれています。伊東琴三、北村友吉、小池菊次郎は帝国輪友会の古参会員です。梅津元晴は陸軍歩兵大尉で『自転車指針』(明治35年11月1日厚生堂発行)の著者でもあります。小林作太郎は芝浦製作所(現・東芝)の工場長です。那珂通世(なかみちよ)は歴史学者(東洋史)です。小柳津要人(おやいずかなめ)は丸善社長で翻訳家です。

アイバンホー(3)


 女史嗜輪会の発足式の記念写真で三浦環の前に置かれた自転車はアイバンホー婦人用のモデル第11号であることが分かりました。先にもふれましたが、この自転車は横浜の石川商会が女史嗜輪会の発足を祝して寄贈したものです。価格は125円です。現在の価格に米価から換算しますと90万円ぐらいになります。

写真提供:自転車文化センター
明治35年2月発行の石川商会カタログより

輪界新聞

 私は以前「名古屋輪界」という新聞を購読していました。過去にはこのような輪界新聞が多数発行されていましたが、その殆んどは現在廃刊になっています。
 以下、参考までに輪界新聞を列記したいと思います。

「輪界商工新聞」大正12年に創刊、その後「東亜サイクル通信」と改名。
「週間輪界レポート」
「合同輪界新聞」合同輪界新聞社 堺
「茨城交通輪界」茨城交通輪界新聞 水戸 月2回刊
「The Japan bicycle news」 Nihon ringyo tsushin Tokyo
「自転車工業新聞」自転車工業新聞社 東京 週刊
「九州交通輪業新聞」九州交通輪業新聞社 佐賀 月3回刊
「日本自転車新聞」日本自転車新聞社 東京 月刊
「日本輪業通信」日本輪業通信社 東京 週刊
「日本輪業通信」 特報 日本輪業通信社 東京 月4回刊
「日本輪界新聞」日本輪界新聞社 東京 週刊
「日本輪界タイムス」日本輪界タイムス社 東京 
「大阪輪界新聞」大阪輪界新聞社 豊中 月刊
「輪業新聞」輪業新聞社 大阪 旬刊
「輪界産業新聞」輪界産業新聞社 西宮 月刊
「西部輪界新聞」西部輪界新聞社 福岡 旬刊
「東亜サイクル通信」株式会社東亜サイクル通信社 大阪 週刊
「全国輪業新聞」全国輪業新聞社 東京 旬刊
「輸送機器新聞」輸送機器新聞社
「日本輪業通信」日本輪業通信社 毎月15日
「日本自轉車新聞」日本自転車新聞社 偶数月
「名古屋輪界」名古屋輪界新聞社 名古屋 月2回刊 明治41年1月「輪界タイムス」とし創刊
「輪界新聞」大正期発行
「北海輪界タイムス社」 昭和初期

2009年4月4日土曜日

アイバンホー(2)

 アイバンホーの自転車が載っているカタログを探していますが、なかなか出てきません。石川商会の当時の価格表は数点ありますが、自転車の金額が記されているだけで、イラストはありません。アイバンホーのマークは、雑誌や新聞とこの価格表にも出ています。独特な骨盤をデザインしたようなマークです。この骨盤のようなマークの意味はいまのところ調べていませんので分かりません。如何見ても不思議なデザインです。
 アイバンホーの意味は、サー・ウォルター・スコット(Sir Walter Scott) の小説(1819年刊)に出てくる勇敢な黒騎士の名前です。

「自転車」第6号 快進社 明治34年4月1日発行より

ジェラール自転車(3)

 これはジェラール軍用折畳自転車の解説図です。15秒で折り畳みができ簡便に背負うことができると書いてあります。背負い用の皮のベルトもフレームに装着していることがこの図から分かります。さらに平坦地は騎兵よりも速く、難路(山地)に至れば直ちに折り畳みこれを背負い一般歩兵のごとくに即座に対応でき、歩兵騎兵の両兵の性能をこの自転車によって備えることができるとあります。

雑誌「輪友」第8号 輪友社 明治35年6月5日発行より

2009年4月2日木曜日

ゴーマリー&ジェフリー

 この絵は、アメリカのゴーマリー&ジェフリー社製のオーディナリーです。1891年(明治24)発行のカタログから転載したものです。
 ちょうど日本ではこの時期、森村開作と兄の明六兄弟が、このゴーマリー&ジェフリー社製のオーディナリーに乗っていました。
 このアメリカのメーカーは、1878年にシカゴのトーマス・B・ジェフリーとR・フィリップ・ゴーマリーによって設立されました。その後、企業は成長を続け、アメリカで2番目に大きな自転車企業になりました。1900年には、アメリカン自転車会社に売却されています。
 日本では、このオーディナリーの他に同社製のランブラーに人気がありました。志賀直哉は短編小説の「自転車」の中で、ある自転車店のウインドウに飾られていたこのランブラーが急に欲しくなり衝動的に買ってしましたことが、書かれています。

2009年4月1日水曜日

ジェラール自転車 (2)

 この写真は雑誌「輪友」第8号 輪友社 明治35年6月5日発行から転載したものです。この号には、ジェラール式折畳自転車の記事と二宮五十槻陸軍砲兵少佐の軍用自転車談が掲載されています。
 ジェラール式折畳自転車を日本陸軍兵器監部が何台ぐらい軍用品として購入したのか詳しいことは分かりませんが、この自転車の有効性や利便性等について高い評価をしています。
 二宮少佐(後に大佐)は、その後、日露戦争に工兵第十二大隊長として出征し、奉天の会戦(1905年3月1日から3月10日)で戦死しています。

参考資料として、このブログの下記項目を参照願います。
2009年3月16日ジェラール自転車
2009年2月25日自転車部隊編制
2009年2月25日折畳自転車