2025年5月31日土曜日

スティーブンスの日本旅行記-㉑

 スティーブンスの日本旅行記-㉑

宮のメインストリートに入ると、重要な寺院の正面には長い石灯籠の列が目印となっている。どの家も、大きな日の丸の旗、提灯、紙製の魚など、何らかの宗教的な祭りの象徴が掲げられている。

大井川の急流には、長さ1マイルほどの脆い木橋が架かっており、金谷の町を過ぎてから渡る。そこから東海道は島田、藤枝、そして平地へと起伏のある道を進み、岡部へと続く。午後は度々雨が降り、道も丘もびしょ濡れになった。薄いゴム長靴を履き、土砂降りの中を岡部に到着したが、今日はこれ以上進むことは不可能だった。岡部は貧しい村で、宿屋も同様に貧弱だ。普段は良い魚さえ手に入らず、主に革質でロブスターのような風味を持つヒトデが売られている。

「魚介類」と、人形のような女給は、この奇妙な料理の正体について私が尋ねると、愛嬌のある笑顔と、彼女だけが持つ謙虚な敬意をもって答えた。海や湖、川の深海から採れるものは何でも「魚介類」と名付けられているようだ。

岡部と宇津ノ谷は1、2マイルの長距離移動が必要である。ここには長さ約600フィート、幅12フィートのトンネルがある。トンネルの入り口には簡単な反射板が設置されており、そこからわずかな日光がトンネル内に差し込む。反射板は単なるガラスの鏡で、トンネル内に光線を反射させるように斜めに設置されている。

この小さな峠を下ると、東海道は平坦な水田地帯を横切り、安倍川を渡り、人口3万人の静岡市の海岸に近づく。すぐ先に見える富士山の眺めは、実に美しい。平坦な道は、まるで波に洗われたかのような砂利の浜辺を縫うように続く。波は、音に合わせて寄せては引く。青い海には船が点在し、何マイルも先まで続く三日月形の海岸沿いには、村や茶屋が点在している。雄大な雪を頂く山頂から海へと、富士山が優雅に傾斜している。

三日月形の湾を巡り、興津、由比、蒲原、岩渕といった海岸の村々を抜け、優美に弧を描く大きな富士の裾野に抱かれた小さな町、吉原へと続く、実に素晴らしいサイクリングである。この辺りの海岸線は、そこから眺める富士の独特の美しさから、日本の詩歌の中で「田子の浦」として讃えられている。


240頁
図は、車輪レース(ダルマ自転車と人力車の)

宇津ノ谷峠の隧道
東海道: 広重画五拾三次現状写真対照 1918年発行
国会図書館所蔵資料

葛飾北斎「富嶽三十六景 東海道江尻田子の浦略図」

東海道岩淵 明治期の写真

2025年5月30日金曜日

輪史会のサイト

 輪史会のサイト

「輪史会」GoogleのWebサイト(ホームページ)を更新しました。




スティーブンスの日本旅行記-⑳

 スティーブンスの日本旅行記-⑳

数世紀前に起きた地震が原因とされている。伝説によると、富士山は駿河平野から、湖が形成されたと同時に雄大な姿を現したと言われている。

数多くの社寺があり、遠方から多くの巡礼者が参拝し、その美しさを目にする。観光客にとって特に興味深いものの一つは、見事な松の木である。枝は垂直の支柱に水平に伸び、数百平方ヤードの広い庇を形成している。東海道側には、この巨木を模した小さな松の木も、広がっている。

雪が湖を見下ろす山々の斜面に降り積もり、小さな汽船や無数の帆船が穏やかな水面を行き交い、雁が飛んでいる。左手に美しい景色、右手に茶園を望みながら、東海道は立派な松並木を抜け、湖岸沿いの多くの集落を通り過ぎて行く。

中山道は、乗馬の鞭の製造(竹根鞭細工)で名高い草津の村で左に分岐する。石部を過ぎ、横田川を渡るまでは、東海道は平坦で美しい道が続く。この川の交差点の近くには、三匹の猿が目と口と耳を覆っている彫刻が施された興味深い石碑(庚申塔)がある。これは「悪いことを見ず、聞かず、言わず」という意味である。この地域一帯は主に茶の栽培に力を入れており、起伏のある尾根や丘陵の斜面には、濃く光沢のある茶の木が茂り、整然とした列や群落が広がっていて、実に美しい景観を呈している。

東海道は急峻な斜面をジグザグに下り、八十瀬川(やそせがわ)の小さな谷へと入っていく。丘の麓には奇妙な祠のような洞窟があり、粗雑な偶像がいくつかある。金魚の入った水槽、そして私が今まで見た中で最も粗雑な仏像が一つ安置されている。野心的な仏像彫刻家の狙いは、「大いなる静寂」の擬人化を創造することにある。八十瀬川の谷にあるこの像は、まさにこの方面における傑作と言えるだろう。かすかに口と鼻が彫られた長方形の巨石が、人間の形を朧げに削り取った直立した石板に鎮座している。これほど静謐なものはないだろう。

46マイルの道は坂下村で終わる。ここには快適な宿屋が待っている。とはいえ、日本のほとんどの村と変わらない。東海道の宿屋の主人たちは、神戸以西の宿屋よりもヨーロッパ人の客に慣れている。毎年夏になると、多くの欧米人観光客が人力車で横浜と神戸の間を行き来する。

この宿屋で、私は初めて日本独特の制度、盲目の按摩師に出会った。小さな部屋に座っていると、四つん這いで近づいてきた男が私の注意を引いた。男は剃った頭を偶然、ドアになっている開いた羽目板の角に押し付けた。男は入り口で立ち止まり、自分の体をつねったり揉んだりするパントマイムにふける。彼の狙いは、私が彼のサービスを望んでいるかどうかを知ることだった。少額の心付けで、日本の盲目の按摩師は、頭から足まで、心地よい感触になるまでさすったり、揉んだり、押し付けたりしてくれる。この仕事は目の見えない人か老婆だけが行うもので、多くの日本人は温かいお風呂に入った後にこのサービスを受ける。彼らは、この施術がとても心地よく、有益だと感じているからだと言う。

日本人の模倣癖を最も面白く示す例の一つは、ほとんどすべての村の宿屋の壁を飾るアメリカ製の時計の数だ。面白いのは、これらの時計の持ち主たちが、それが何のためにあるのかを全く理解していないように見えることだ。私の宿屋の壁の時計の一つは11時を指し、もう一つは9時半、そして朝私が出発した時には7時15分を指していた。村の通りにある他の時計も同じように誤差がある。村々を自転車で走りながらこれらの時計を探すのは、今日のサイクリングの楽しみの一つとなっている。

坂下から美しい渓谷や松に覆われた山々を抜け、四日市まで続く道は、所々に起伏があるものの、概ね良好な状態である。四日市は小さな港町で、東海道沿いの旅人の多くは、ここから往復する蒸気船で宮(熱田宿) へ向かう。街道はさらに10マイルほど先の桑名まで良好に続いているが、そこから宮へは、水田、堤防、運河、沼地といった平坦な区間を通る狭い道を進まなければらない。ここでは農民が田舟で米を収穫している様子が見られる。


239頁

琵琶湖畔「唐崎の松」 1880年代の写真

庚申塔

「アウティング」誌 
第12巻 4月~9月 1888年(合本版)
自転車世界一周 トーマス・スティーブンス著
(アウティング誌特派員)

2025年5月29日木曜日

老舗さんぽ-58

 老舗さんぽ-58

シクロサロンとつか

浜松の佐鳴湖近くにあるシクロサロン戸塚は当時まだ老舗ではなかった。数年前に開店した店であった。だがあれから既に50年ほど経過している。もうりっぱな老舗になっている。

私が1980年~81年まで単身赴任で浜松に行っていたころ、休日にはよく佐鳴湖周辺とか舘山寺方面へサイクリングに出かけた。その際、数回のこの店を訪れた。店のつくりはモダンな印象を受けた。初めて店内に入ったときに目に入ったのは天井から下がっていたBSAの自転車で、確かタイプはクラブモデルであった気がする。すぐにこれが欲しくなってしました。

何回か訪問した時に思い切って店主に売ってくれないかと聞いてみた。「これはまだ私が乗っているので売らない」とのこと。それ以来この店は縁遠くなってしまった。

いまでは懐かしい思い出になっている。


シクロサロンとつか
浜松市中区佐鳴台4丁目37-32
Googleストリートビューより


註、浜松の定例サイクリングコース、当時のメモ帳から
1980年8月8日(日) 小雨
西武デパートで買い物。
サービスの悪い、不衛生な蕎麦屋で昼食。この店に入ったことを後悔する。
西来院:浜松市中区広沢2丁目、徳川家康の正室、築山御前の菩提寺などを見学。

昼寝のあと1時間程時自転車に乗る。
定例コースは、合同宿舎広沢住宅~浜松北高バス停~おかめ坂~富塚郵便局~県道宇布見浜松線~神ヶ谷農協前~一ノ坪池~大久保東~九領川~宮前橋~志都呂~田端~つるが丘団地~田端住宅~西ノ平公会堂~神ヶ谷~大崖下~佐鳴湖~医療センター前~合同宿舎広沢住宅。

当時、居住していた合同宿舎広沢住宅
Googleストリートビュー

2025年5月28日水曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑲

 スティーブンスの日本旅行記-⑲

宣教師の居住地は、街を東から見下ろす松の木に覆われた丘の上にあり、魅力的である。他の地域からも数人の女性宣教師が訪れており、全員アメリカ人である。思いがけない形で出会うことができ、楽しいひと時を過ごした。

日曜日の朝、私はケアリー氏に同行し、教会の信者たちが2000円をかけて自費で建てたという立派な新しい教会を見学した。改宗者たちの誠実さのようなものを感じさせる実に喜ばしいものである。多くの国では、改宗者たちは宣教団から提供される物質的な援助を通して、自らの邪悪な行いを知り、キリスト教の美しさに気づくようである。彼らは自らが奉じていると公言する大義のために自ら金銭を使うのではなく、そこから何かを得ることを期待している。しかし、ここでは改宗者たちが自ら集会所を建て、外部からの援助なしに教団を支えることを申し出ている。これは、「異教徒」を自らの宗教から改宗させることを信奉する人々にとっては心強いことであり、日本人の人格を研究する者にとっても喜ばしいことである。

約500人の人々が教会に集まり、マットを敷いた床に静かに整然と着席している。そこには、昔サムライの弁護士や紳士からごく普通の市民まで、白髪の老男女から、母親に連れられて来たばかりの、頭がぼうっとした若者まで、あらゆる階層の人々が集まっている。こうした母親たちの多くは、宣教師に説得されて習慣である歯の黒塗りをやめ、未婚の姉妹たちと同じように白い象牙色で、服を着て整列し、集会に出席している。好奇心旺盛な部外者たちが大勢、開いた扉の周りに集まり、中を覗き込み、立ち上がってケアリー氏の説教と賛美歌に耳を傾けている。賛美歌はアメリカと同じ旋律で歌われ、歌詞は日本語に翻訳されている。皆、賛美歌を楽しんでいるようで、説教にも熱心に耳を傾けている。

説教の後、会衆の著名な数人が立ち上がり、説得力のある言葉と身振りで自国の男女に語りかけた。ケアリー氏によると、普通の日本人なら誰でも、特別な努力や恥ずかしさを感じることなく、公の場で流暢に、さりげなく自分の見解を述べることができるようである。

日本人のクリスチャンたちが、自分たちの教会に集まり、床に座って歌い、説教し、楽しそうにしている光景は、新鮮で興味深いものである。温厚な日本人の間での宣教師の生活は、きっと楽しいものだろう。

土曜日と日曜日は楽しく過ぎ、小さな宣教師のコロニーでの楽しい思い出を胸に、月曜日の朝、岡山を出発しました。豊かな水田と無数の村々が点在する田園地帯を数マイル走り抜ける。景色は一変し、小さな湖と松の木に覆われた丘陵地帯が広がる美しい田園地帯は、マサチューセッツ州バークシャー・ヒルズを彷彿とさせる。天気は涼しく、晴れ渡り、道は素晴らしいが、ところどころ起伏が激しい。午後、今回の日本ツアーで唯一の事故に遭遇した。急な曲がりくねった坂を下っていると、急カーブの向こうに突然人力車が現れた。衝突を避けるには、側溝に突っ込まなければならない、自転車は激しく投げ出され、スポークが折れてしまった。

神戸、大坂、そして古都京都で楽しい日々を過ごし、そこから京都から東京へと続く有名な東海道へと向かう。「東の海の道」東海道とは対照的に、「中央の山の道」中山道と呼ばれるもう一つの街道も、古都と新都を結んでいる。しかし、中山道は東海道よりもやや長いだけでなく、起伏が多く、面白みに欠ける。京都を出ると、東海道は丘陵地帯を通る低い峠を越え、琵琶湖として知られる美しい湖畔の大津へと続く。

この湖はレマン湖とほぼ同じ大きさで、その超越的な美しさにおいてスイスの宝石に匹敵するほどである。自然の美を深く理解する日本人は、琵琶湖にうっとりと夢中になる。「琵琶湖の八景」はよく語られる。この八つの美とは「石山秋月、勢多(瀬田)夕照、粟津晴嵐 、矢橋帰帆 、三井晩鐘 、唐崎夜雨 、堅田落雁 、比良暮雪 」である。これらはすべて、湖に関する名所である。琵琶湖の水には、様々な伝説やロマンが語り継がれている。


238頁

近江八景之内 瀬田夕照
歌川広重
文化遺産オンラインより

「アウティング」誌 
第12巻 4月~9月 1888年(合本版)
自転車世界一周 トーマス・スティーブンス著
(アウティング誌特派員)

2025年5月27日火曜日

ニューサイ 第14号

 ニューサイ 第14号

月刊雑誌「ニューサイクリング」第14号 1965年4月1日発行より、

10スピード自転車特集


表紙

30頁

10スピード車の歴史と現状
A  ディレイラーの発明と 10スピードへの発展
① ディレイラーの発明と歴史
自転車用のチェンジギヤに、第16図のようなハブギヤと第17図のようなディレイラーのあることはよく御存知のことでしょう。
ところでハブギヤはその遊星歯車構造の基本原理のために、どうしてもギヤ比のちがい (これはステップと呼んでいますが)を小さくすることがむずかしいためと、構造上4スピード以上のものは構造が複雑で、高価になるため、ここでとりあげているスポーツ車用としての10スピードには、 うまく組み合せることが困難です。
というわけで、この本ではもっぱらディレイラ一について説明を進めていきましょう。
ディレイラーは歯数のちがうスプロケットを2 (日本では現在のところ5枚迄) 並べでフリーの上に取付けて、その上をチエンを左右に乗り移らせる式のものですから、スプロケットの歯数さえ変えればステップもギヤ比も自由にかえられるという大きな特長があります。
ディレイラーの発明は C.M. Linley (英)のフリ ―ホイールの発明 (1894)年よりも1年早く同じ
Linley氏によって固定式の2スピードのものが考案されたのが最初ですからずい分古い話です。
その後ディレイラーはイギリスでは問題にされす、主としてフランスで改良を重ねられて1910年代にはフロントディレイラー(普通は略してフロントといいます)も発明されました。
日本とざっと50年のひらきですから、オドロキです。
1923年はツーリストにとって大変意義の深い年で、ツーリング用のディレイラーとして信頼性の高いダブル・ケーブル・コントロール型式 (いわゆるプルプル式) がフランスの A. Raimond によって考案されました。これが今日まで本格的ツーリング用として広く採用されている “CYCLO"(仏)第18図のスタートなのです。

第16図 ハブギヤの内部構造

第17図 スポーツ車用軽量ディレイラー

31頁

32頁

33頁

広告 三光舎

PF型ディレーラー
パンタグラフ式PA型の普及型として製作しました。 PA型と同様全天候性は勿論その他の長所を取入れサイクリング用にも好適な、 特に重量が軽いものを製作しました。
形式 PF
重量 263g
価格  シングルレバー及ワイヤー付 2,200円


裏表紙

2025年5月26日月曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑱

 スティーブンスの日本旅行記-⑱

今日、私が巡礼路を走った道沿いの交差点や村の入り口に鎮座する仏像の多くは、更紗のよだれかけを着けている。現地の言葉に疎いため、その目的を判断することは不可能だ。このよだれかけは、宗教行事の特定の季節を象徴するものであることは間違いない。

1886年12月4日土曜日、岡山という重要な都市をゆっくりとダルマ自転車で走っていると、そこには豊富な食べ物、清潔で平坦な通り、店には豊富なヨーロッパ製品、そして常に興味深い人々が群がっていることがわかった。長崎を出てからこれまで、日本人以外の人に出会ったことはなく、ここで誰かに会うことも期待していなかった。しかし、嬉しい驚きが私を待っていた。主要な商業通りの一つの角で、二人のアメリカ人宣教師が現れたのだ。彼らはケアリー氏とローランド氏と名乗り、ここには3家族の宣教師が一緒に住んでいて、日曜日に招待された。また、自分の現在位置を確認する機会も得られた。長崎から下関まで通ってきた道のりの信頼できる地図や行程表は何も入手できず、日々の自分の居場所もほとんど分からずに旅をしてきた。初めて分かったのは、岡山であること、そして現在神戸から100マイル以内の地点にいるということだ。神戸では、マレーのハンドブックが道案内に大いに役立つだろう。

註、お地蔵さんの赤い前掛けは「子供を守る神様」として信仰されてきたことから、人々が「自分の子供が健やかに育つように」という願いを込めてよだれかけを奉納するようになったと云われている。


237頁
特徴的な山の近く

 マレー社日本旅行案内ハンドブック
1884年版

2025年5月25日日曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑰

 スティーブンスの日本旅行記-⑰

好奇心旺盛な野次馬がその訓練を見守っている。未熟な騎兵新兵が小さな馬に乗ると、馬は跳ねたり、噛んだり、足で蹴ったりする。兵士が投げ飛ばされるたびに見物人たちは笑い声をあげる。男も馬も小柄だが、ずんぐりとして使いやすそうに見える。騎兵隊の制服は青に黄色の縁取りが施されている。砲兵隊は整然としている。馬は小柄ながらも力強く、まさに過酷な作戦にふさわしい馬だ。

広島の北は丘陵地帯で、道は渓流を上り、また渓流を下る。この山岳地帯では、ベンガルの俊足の郵便配達員に匹敵するような配達員に出会う。日本の郵便配達員は、腰巻きと白と青の綿チェックの薄着という点で、より自然体だ。郵便袋は竹の棒に括り付けられている。軽快な足取りで跳ねながら、「ホー、ホー!」と音楽的な声で叫び、人々に道を空けるよう促す。この声は、春に南からの暖かい北へ急いでいる老いた小ガモ、つまり野生のガチョウの鳴き声に非常によく似ている。

これらの山々に囲まれた土地で、勤勉な日本人がわずか数エーカーの耕作地を確保するためにどれほどの労力を費やしてきたかには、驚嘆するしかない。堤防を築き、川の流れを狭めることで、残りの川床を畑や庭園に作り変えた。山々の間、主に山と海岸の間には、数平方マイルの平地が広がり、土地の面積に比べて不釣り合いなほどの人口を支えている。しかし、海岸に住む人々の多くは、瀬戸内海の青い海で生計を立てている。魚は米と並んで、日本の主食である。

今日の旅の終わりには、天候は一変し、かなり寒くなってきた。こうして私は、寒い時期に、木の骨組みと半透明の障子でできた家で、日本人がどうやって暖をとっているのか、その謎に直面することになった。床に開いた穴に炭の入った火鉢を置き、その上に木枠を載せ、掛け布団をかけて暖をとっている。(掘り炬燵)そのやり方の秘訣は、このフレームの下に体を入れ、肩周りをしっかりと覆い、内部の温かい空気が逃げないようにすることである。このユニークな構造の利点は、頭部を涼しく保ちながら、必要に応じて体を温めることができる。

日本の宿屋での一夜の体験は、他の夜とほとんど変わらない。人々が一様に感じよく礼儀正しい国では、その日の旅は順調で楽しく、何事もなく終わることが多いものである。時折、良好な道路、田んぼ、山の景色が続く日々の単調さを和らげるような小さな出来事が起こるが、たいていはそれなりに楽しいものである。その瞬間は楽しいものだが、日記に残すほど重要なことではない。村の食堂で夕食について話し合っているときに起きた出来事も、このようなものであった。ちょうどその時、一人の修行僧がやって来て、壱銭分のサツマイモを購入した。私自身の勘定に数銭上乗せするだけで、彼の質素な注文は、魚、米、酒のたっぷりとした食事に変わった。老托鉢僧が私に惜しみない感謝と優雅なお辞儀という形で与えてくれたものほど、金銭に見合うだけの豊かな見返りを、かつて得たことがない。老僧と私が一緒に宿屋に入るという奇妙な光景を、群衆も同じように感嘆と賛同の笑みで見守っていた。

今日は肌寒い日で、時折雪がちらつく。人々は背中を丸めて鼻を青くし、いかにも寒そうにしている。しかし、彼らはただ滑稽なほど陰気なだけで、この寒さと雪にひどく腹を立てているわけではない。茶屋の風上には藁葺きの防風柵が設けられ、通行人が茶屋の火鉢の周りに集まっては、おしゃべりをしたり煙草を吸ったりして立ち止まる姿が目立つ。

日本では男女問わず、誰もがタバコを吸う。この国で広く使われているパイプは、長さ約15センチの小さな真鍮の筒で、先端を上に折り曲げた(雁首)ものである。この先端の火皿にタバコをひとつまみ入れる。数回吸い込み、火鉢の縁で雁首を軽く叩いて吸殻を出すと、満足するまで何度も煙管の火皿にタバコを詰める。宿屋や茶屋で給仕をする女たちは、服の袖の大きなポケットにタバコを忍ばせているし、煙管は帯やガードルに差し込んだり、髪の後ろに挟んだりしていることもある。


236頁

2025年5月24日土曜日

スケール・ブラザーズ自転車店

 スケール・ブラザーズ自転車店

下の写真は、メタにアップされたケンブリッジのスケール兄弟自転車店。

店主らとサイクリング車、古風なダルマ自転車が見える。

スケールブラザーズは、自転車の修理と販売を行っていた。

ミシュランンの丸い看板やダンロップタイヤなどの広告も見える。

SKEEL BROS.OFFICIAL REPAIRERS NC.U. & C.T.C


1950年頃のポストカード

註、右側のサイクリング車について、英国車などに造詣が深い小池氏から以下のコメントをいただいた。

これは画像が悪すぎますね。メーカー特定は不可能です。リムはコンストリクターASP, ガードはバンテルかアシュビー。ペダルはウエッブ。
クランクは左右一直線になっていないので、入れ替えだろうと思います。ブレーキはレバーがストラータ。本体が前後で違います。うしろがたぶんモニター。フロントはたぶんバーライトです。1947年から1951年までこの手のメーカーが戦後復興で大量に現れ、1954年~1956年で英国の総自転車輸出額が3分の1にまで落ち込みました。その時代のものだろうと思います。

リアのブレーキは戦前型です。フロントフォークオフセットは、たぶん65mmぐらいと思います。
1952年以降はこれほど大きいオフセットのスポーツ車は作られなくなります。柳のバスケットもサイズが1947~のWW2直後型だと思います。サドルがブルックスではないので、Budget Modelのクラブ・スポーツでしょう。

2025年5月23日金曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑯

 スティーブンスの日本旅行記-⑯

おそらく、表面的な知識を少しだけ得たある日本人が、ここで宿を構え、去っていったのだろう。そして、さまざまな目に見える証拠や具体的な印象を残した。孤独な旅行者は、自分の欲求を理解し、満たしてくれる誰かを見つけたと勘違いするだろう。

ともかく、三脚の椅子、大きなティーカップと砂糖、そして小さな甘いビスケットの入った皿が用意されていた。これら全てが、夕食時に何かサプライズが待っていることを暗示しており、結局ビーフステーキが出てくるかもしれないという期待をしていた。

やがて誰かが、私の部屋の障子を開ける。「どうしたんだ!お松さん 、新しい素敵な箸と、君の料理の腕前でできたものを持ってきてくれ。今日は涼しい日だし、山をいくつも上ってきたし、腹が減ってるんだから」すると、お松さん が登場する。片腕には、欠かせない木製のお櫃を抱え、もう片方の手には、漆塗りの蓋をした様々な椀がある小さな盆を持っている。ちなみに、これらもお櫃と同じくらい欠かせないものだ。料理を置くと、お松さんはきちんとひざまずき、額を優雅に床につけ、それから様々な器の蓋を開け始める。三脚の椅子と大きなティーカップと砂糖が、少し期待していた改良点、あるいは少なくとも変更点を探す。一つの椀には巨大なエビが二匹、もう一つには煮魚が一匹、もう一つにはかまぼこの一切れが入っていた。「これは何ですか?」とお松さんに二つのエビを指差して尋ねた。「魚よ」と彼女は額を床につけながら答えた。「そしてこれは?」「魚よ」「そしてこれは?」「魚よ」しかし、この宿屋ではすべてが虚栄心と煩わしさというわけではない。

寝る時間になると、お松さんは寝巻を持ってきてくれた。青と白の縞模様が交互に入った不思議な服で、袖には大きなポケットがついている。こんなにも私のことを気にかけてくれた宿屋は初めてだ。きっと、以前の夫が残したヨーロッパ人の習慣の漠然とした印象に敬意を表して用意されたのだろう。

翌朝は霜が降り、低く流れる雲が不安定な天気を告げている。私はまた「魚、魚、魚」の食事を済ませ、縞模様の寝巻といった並外れた心遣いにいつものようにささやかなお礼を言うことで、お松さんをこれまで以上に喜ばせ、旅を再開した。道は大抵の場合、海岸沿いを走るだけだった。

砂利の浜辺は曲がりくねり、湾曲している。海岸近くの低地のほとんどは海を埋め立てたような低く平坦に見える泥原で、何マイルにも及ぶ頑丈な堤防と岩でできた壁によって荒波から守られている。海岸沿いには漁村が点在し、最近の台風は広範囲にわたって海水を内陸に押し寄せ、道路を流した。数千人の男女が、花崗岩と頁岩の丘陵地帯にある豊富な資材を利用し、被害の復旧に取り組んでいる。

この地域は明らかに昔ほど繁栄していない。当然ながら豊かで生産的でもない。さらに、人々は以前ほど魅力的ではなく、習慣もそれほど清潔ではないようだ。下関では、膝紐が緩んで部屋の床に砂粒が散らばっているのを見て、女将は丁寧に私をベランダに連れ出し、力一杯に埃を払ってから、また丁寧に部屋に戻してくれた。いつも清潔な木の床に足を踏み入れる前に靴を脱ぎ、自転車はどこか別の部屋に置いていた。ところが、今晩泊めてくれる小さな漁村では、女将は泥だらけの自転車を部屋まで入れるように言い、私が靴を脱ごうとすると、抵抗した。この部屋には、真鍮で縁取りされた見事な仏壇があり、魂を満たす偶像と、礼拝を連想させる。夕方、私はその仏壇の中身について、好奇心を満たすために、思い切って開けて覗いてみた。私の目には、安っぽいキラキラ光る装飾品や文字が刻まれた紙切れに囲まれた、小さな蝋人形が鎮座していた。その前には、小さな磁器の皿に入った米、酒、干し魚が供えられていた。

ここでは魚が他のどの場所よりも安くて豊富で、いつもの助手なしでほとんど何でもこなす老婦人が夕食に大きなステーキを焼いてくれた。料理にたっぷり使う黒くて臭いソース(醤油)にもかかわらず、一流の食事になる。

翌朝は晴れて霜が降り、道路は良好で、景色も徐々に良くなり、9時までには人口の多い広島市に駐屯する部隊の軍事演習を見学することになった。演習は低い土手と溝で囲まれた広い広場で行われていた。


235頁

2025年5月22日木曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑮

 スティーブンスの日本旅行記-⑮

ほとんどの農家は茅葺き屋根や藁葺き屋根だ。美しく丁寧に葺かれ、様々な独特な工夫が施されていることは言うまでもない。いくつかの家は、濃い緑の低木でできた生垣に囲まれているのに気づいた。生垣は、上部が茶色の藁葺き屋根の延長のように見えるように刈り込まれており、茶色の藁葺き屋根は単に色を変え、地面に向かって同じ急勾配で傾斜している。この工夫は非常に魅力的な効果を生み出し、特に、きれいに刈り込まれた数本の若い松が、まるで住居の周りの緑の番兵のように生垣の上にそびえ立っているとき、その効果は際立っている。今日見られる比類のない「木造建築」の一つは、山を模して刈り込まれた密集の低木、斜面の樹木、そして林の中に建つ寺院である。多くの家の前には、山から何マイルも下って運ばれてきた奇妙な木の根や岩が見られ、鳥や爬虫類、動物に似ているという空想上の理由で保存されている。人工の湖、島、滝、橋、寺院、森が数多くあり、時折、大きな仏像が台座の上に座り、周りのすべてのもの、すべての人々の平和、幸福、繁栄、美しさを見つめて微笑んでいる。幸せな人々!幸せな国!日本人は賢明な行動をとっているのか、それともヨーロッパの人生観が忍び寄り、すべてを変革する愚かな行動をとっているのか、誰にもわからない。時が経てばわかるだろう。彼らは、時代の変化に対応するために自ら目覚める必要があるため、より裕福になり、より力強く、より進取的になるであろう。しかし、富と権力、機械と商業の喧騒は、必ずしも幸福を意味するわけではない。

午後になると、狭い車道は、世界中で見てきた中でも最も素晴らしい、新しく舗装された広い砂利の道路へと繋がる。低い水田から、緩やかで均一な勾配で、ずっと上へと、見事な整備が行われている。そして、はるか先の高い岩山の間に途切れているように見える。ここの山々の最上部にまで、趣のある家々と美しい段々畑が連なる光景は、言葉では言い表せないほど美しい。かつて中国で見てきた段々畑にも、もはや驚嘆することはない。

平坦な大通りの上部に到達すると、新たな驚きが私を待ち受けていた。そして、長さ約500ヤード、幅約30フィートのトンネルの入り口に立っていることに気づいた。トンネルは中央に設置された大きな反射板によって照らされており、トンネルに入ると機関車のヘッドライトのように薄暗い中を照らし出す。日本人が人力車と歩行者のためにこれほどの苦労と費用を費やすとは想像しがたいが、実際はそうである。なぜなら、この国には他に交通車両がないからだ。私が一般道路用に建設されたトンネルを見つけたのは、この国だけである。他にも、私が気づかなかった同様の改良点があるかもしれない。このような場所には、特に照明のメンテナンスのために人を雇わなければならないので、少なくとも料金所の係員がいるはずだが、そのような人はいない。

トンネルを数マイル進むと、広い道は大きな港町に突き当たる。そこからジグザグの農道を北へ向かう正しい道を見つけるのに少々苦労した。一日中雨が降っていたが、道路の状態は概ね良好だった。約80キロ走り、夕暮れ時、村の宿屋に到着した。いつものように少し落ち着く前に、何か面白いものはないかと村を散策した。宿屋からそう遠くないところに、イタリック体で「欧風料理 かめや」と書かれた目立つ看板が目をひいた。夕食にビーフステーキとビールを楽しもうという幸せな空想を思い浮かべながら、この店に入り、店主の若い男性にここはホテルかと尋ねた。彼は微笑んで頭を下げ、私が何を言っているのか全く分かっていないことを仄めかした。「宿屋ですか?」と日本語で尋ねてみた。「ええ、宿屋です」と彼は言った。乏しい語彙を頼りに、肉、ビール、野菜、パン、その他ヨーロッパの食材はあるかと、ぶっきらぼうに、しかし親切に尋ねた。若い男性は、空虚な英語で私の期待を裏切らざるを得ないのを残念そうに言ったが、宿屋の料理は魚と飯以外には何もないことを認めざるを得なかった。

誰かがこの村の人々にヨーロッパの習慣に関する些細な考えを残したようだ。おそらく、表面的な知識を少しだけ身につけた日本人がここで宿を経営していたのだろうが、その後、目に見える様々なものを残して去っていったのだろう。旅人は、自分のニーズを理解し、満たしてくれる人を見つけたと思うだろう。


234頁

2025年5月21日水曜日

ガンスモークのダルマ自転車

 ガンスモークのダルマ自転車

以下の映像はガンスモーク (テレビドラマ)のあるシーンである。

映像の中でダルマ自転車が登場している。

「ガンスモーク」(原題:Gunsmoke)は、1955年のアメリカ・CBS制作のテレビドラマ。

1955年から1975年までの20年間にわたって放送され、西部劇ドラマ最長ロングランを記録した。全20シーズン、635回。

内容は、1880年代のカンザス州ドッジシティで、保安官マット・ディロンは、酒場の女主人キティ・ラッセルや医師のドクなどと共に、法と秩序を守るため協力して悪と闘うストーリー。

1880年代と云えばアメリカでもダルマ自転車が流行した時代であり、ドラマに登場しても不自然でない時代背景である。

あのトーマス・スティ-ブンスがダルマ自転車で世界一周の旅に出たのは1884年であった。


CBS制作のテレビドラマ
「ガンスモーク」

同上


2025年5月20日火曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑭

 スティーブンスの日本旅行記-⑭

都会育ちの日本人の急速なヨーロッパ化、政府の進歩主義政策、青い制服を着た憲兵隊、そして国全体の革命化にもかかわらず、これらの山間の人たちが祖先のやり方や方法、そして古風な衣装を捨て去るまでには、長い時間がかかるだろう。今後数十年にわたり、日本は山間の人の保守主義と超自由主義的な都市生活の興味深い研究対象となるだろう。一方は外国の衣服を着て、外国の習慣を真似し、あらゆる物事を外国のやり方で取り入れるだろう。他方は、藤色の野良着、菅笠、草履、そして「古き良き日本」の伝統に執着するだろう。


233頁

上の図、日本の連絡船(門司から下関までの渡し舟)
下の図、午後の催事(三島で相撲の興行を見る)

2025年5月19日月曜日

ヴェロシペード関連

 ヴェロシペード関連

「ダス・ヴェロシペデ」グスタフ・スタインマン著 1870年発行より

ブラウン社の四輪車

ステアリングは後車軸を回転させることによって可能。ドライバーはレバーとプルロッドを使用してこれを制御できる。後車軸の上にも荷物ラックが付いている。・・・


10頁
図2. ブラウン社の四輪車
「ダス・ヴェロシペデ」グスタフ・スタインマン著
1870年発行


2025年5月18日日曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑬

 スティーブンスの日本旅行記-⑬

同じような人生を送るうちに、彼はロンドン・グラフィック紙を研究してこのスタイルの洋服に夢中になり、横浜からその服を仕入れるために多大な苦労と費用を費やし、今や故郷の田舎町の人々の前で、自分を最も上品な人物として印象づけている。彼はダルマ 自転車に強い関心を示し―平均的な日本人よりもはるかに―西洋のスポーツ観念を吸収し、未熟で理解力のない同胞の前で、陸上競技の達人として振る舞いたがっているのだろうと推測する。全体として、この馬好きの若い紳士は、私がこれまで出会った「新日本人」の最も驚くべき代表例である。

冷たい霧雨が降り、次の日の旅の始まりである。あまりにも快適だった旅は終わり、雨と泥濘、そしてそれに伴う遅れがあったにもかかわらず、中国での経験の後では、日本での最初の数日はまさに楽園のようであった。中国に嫌悪感を抱く私の感覚に、太陽が輝き、天候と道路状況が好調だった日本での目新しさを初めて見た時、日本と人々からどんな印象を受けただろうか。

馬に乗った若い紳士が友人と別れを告げ、出発を見届けに来た。お茶係の女性は、私が到着した時から変わらぬ、とても楽しそうな表情で私に挨拶をし、他の客数人が私がサドルにまたがる間、自転車を支えると申し出てくれた。

下関より北の地域は山岳地帯で、いくつかの峰の頂上には雪が積もっている。道路は時折丘陵地帯で、曲がりくねった道を走る。

すべてがとても清潔で心地よい10ヤード四方ほどの小さな庭園には、小さな湖、洞窟、趣のある石灯籠、ブロンズのコウノトリ、花、そして矮小な木々が点在していた。しかしながら、長崎から続く不愉快な天候は、まるで復讐するかのように、私の旅の完遂を阻もうとしていた。

小さな谷から谷へと、それほど長い丘もなく、ゆっくりと進んでいく。薪と米を積んで、小馬を曳いた山間の農民たちが出迎える。蓑、菅笠、粗末な草鞋という彼らの古風な日本の衣装は、ダービーハットや騎手服を着た「新日本人」の同胞とは際立った対照をなしている。


232頁
図の説明:みんなに別れを告げる

2025年5月17日土曜日

書籍案内

 書籍案内

「ダス・ヴェロシペデ」グスタフ・スタインマン 1870年発行

書籍名 Das Velocipede: seine Geschichte, Construction, Gebrauch und Verbreitung

著者 Gustav Steinmann

出版社 Weber, 1870

ページ数 91 ページ


18頁
図7、初期のドライジーネ
足で地面をけりスケートのようなステップで

表題

2025年5月16日金曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑫

 スティーブンスの日本旅行記-⑫

彼女たちが楽しそうに運動をしている様子を見れば、ただ「お遊び」をしているだけだと明らかに分かる。野菜や果物を売る女性たちは、ノルマンディーの乳搾り娘のようにきちんとし、おしゃべりをしたり、微笑んだり、お辞儀をしたりしながら歩き回り、「野菜売り」をしている。私が骨董品商の品物をじっくりと眺めている間、炭火のついた火鉢に腰掛け、煙草をくゆらせている店主は、丁寧にお辞儀をし、甲冑を身につけた武者像を、笑いながら指さした。彼の行動には、金目当ての考えなど微塵も感じられない。明らかに何かを売る気持ちはない。ただ、この鎧に私の注意を向けさせたいだけなのだ。何も売ろうとはしないが、頼まれればきっと温厚な性格で商売をするだろう。市庁舎の脇に、古風な小さな消防車(竜吐水)が2台、何気なく停まっている。消火遊びに飽きて、おもちゃを放り投げてしまったような感じである。

私は水辺まで歩き、そこからホテルを探そうとした。水夫たちが蓑を着てくつろいでいる。彼らの態度から見て、私にボートに乗って目的地まで連れて行きたいと願っているのは明らかだ。皆、笑顔だが、誰も深刻な表情をしていない。疲れた顔も、貧困も見られない。素晴らしい人々だ!彼らは他のどの国民よりも、幸せに生きるという感じである。職業的な乞食でさえ、自分たちの貧困を面白がっているかのようだ。まるで彼らにとって人生は単なる滑稽な体験であり、真剣な思考にはほとんど役立たないかのようである。

昼頃から天気が回復し、強い北風が吹き付ける中、下関に別れを告げる。道は海岸沿いに数マイル続く。滑らかで平坦な道は、有名な瀬戸内海の荒波にさらされる丘陵の麓を縫うように続く。おおむね海岸沿いを進む道だが、時折1、2マイルほど内陸へ入り、丘陵間の小さな谷あいに点在する数多くの町や村を繋いでいる。大きな村を通り過ぎると、書店の上に掲げられた「English Books」の看板が目に留まった。この街のガイドブックのようなものを買おうと思い、神戸へ向かう道中、少なくとも英語がわかる人がいるだろうと期待して店に入った。店長の若い男性は英語を一言も話せず、置いてある「英語の本」は小学生向けの入門書やスペルブックばかりだった。

下関北部の村々の建築は、驚くほど芸術的だ。趣のある切妻屋根の家々は雪のように白く塗られ、奇妙な模様の茶色の瓦が屋根に葺かれ、これも白く縁取られている。家々の周りには、コウノトリや動物、魚などを模して刈り込まれた生垣、小さなミカンや柿の木、美しい花壇、そして日本特有の小さな庭園装飾が施されている。小さな谷を抜け、岬を越え、海岸沿いの平坦な砂利道を30マイルほど進むと、やや大きな村に着き、ここで一夜を明かす。ここの宿屋で私の世話をする若い女性は、とても面白がっているような表情で私を見る。その理由を探ろうとするが、無駄だった。もしかしたら、それは彼女の生まれ持った性格なのかもしれない。この国の一般的な習慣に従って、火鉢を囲んで小さな真鍮製の煙管を吸い、小さな茶碗の緑茶で互いの健康を祝う。しかし、愛らしい人形のような女給は、その間ずっと愉快な表情を崩さない。彼女は私を、外見が滑稽すぎて笑いを抑えることができない奇妙な人間の標本として見ているのではないかと、半ば疑っている。もっとも、礼儀上、彼女はあからさまに笑うことは禁じられているが、彼女が聞こえるほどクスクス笑ったのは一度だけだった。その時私は、多くの清教徒的観念に従って、彼女に浴場から遠ざかるように注意した。このような状況下では、もちろん、日本人の観点からも、笑うことは全く許されない。

今晩の客人の中に、光沢のあるブーツ、ぴったりとしたコーデュロイのズボン、そしてジョッキーキャップを身につけた若い紳士がいた。彼の全体的な容姿は、ここ何日か見た中で一番「馬好き」な人である。プロの騎手だと容易に想像できる。しかし、おそらく彼は生涯一度も馬に乗ったことがないが、いまは馬に夢中になっているのだろう。


231頁

2025年5月15日木曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑪

 スティーブンスの日本旅行記-⑪

朝、窓の外に、年老いた日本人漁師の姿が映る。彼は祈りを捧げているのだ。人間として考えられる限りの真剣さである。しかし、日本人は祈りを捧げている時でさえ滑稽に見える。時折、両手をぴしゃりと叩き、頭髪はほぼ垂直に立っている。彼の考えが多かれ少なかれ劇的であることは誰の目にも明らかだ。

近くの小さな丘の頂上には大きな神社があり、石段が続いている。石段の入り口に、そして斜面を登る途中にも、独特の鳥居、いわゆる「鳥の止まり木」が立ち並び、神社の象徴となっている。境内には数多くの社が鎮座している。神社は主に木造で、それぞれに祀られている様々な神々が安置されている。それぞれの神社の前には、金銭を入れるための賽銭箱がある。日本の信者は神社の前で一分間、頭を下げて両手を合わせる。それから小銭を一、二枚、賽銭箱に投げ入れ、次にまた参拝したい神社へと向かう。本殿には、数多くの絵画、弓矢、刀剣、そして明らかに奉納物と思われる様々な品々が置かれている。漁師の運命を司る神の神社は、巨大な銀紙の魚と、多数の三叉の魚槍が際立っている。日本の神話に通じていない旅行者には意味が理解できない奇妙な物の中には、少なくとも3フィート(約90センチ)の鼻を持つ怪物のような人間の顔(天狗)がある。

散歩の途中、私は店や通りの迷路の中で一時的に迷子になったが、それでも、日本の街の斬新で興味深い光景と、どこもかしこも礼儀正しく感じの良い人々に囲まれて、しばしの時間を過ごした。商店街の南端の方にある仏教寺院の庭に、朝の礼拝に訪れる一団の後をついていくと、入り口に立って、黄色い袈裟をまとった僧侶たちが、お経を唱え、銅鑼を鳴らしながら、ぐるぐると回りながら、俗世を忘れようと努めているのを目にした。寺院の中を興味深く覗いてみると、金箔と豪華な装飾が輝いている。外には経蔵庫があり、中には経典を収めた蔵書がある。別の建物には木の格子の後ろに仏像がある。入口には通常、賽銭を入れる箱があるが、仏像は外界との接触を遮断する格子の内側にある。茣蓙の上に、捧げられた供物が置かれている。畳の上に小さな二厘硬貨(中国の貨幣)があったが、その表情を特徴づける愉快な笑みは、寄付されたお金の少なさにあるようだ。厨子に入れられた赤い仏像をしばし眺めた後、振り返ると、百人もの女性の笑顔が目に飛び込んできた。近所の女性たちが、私が寺の門をくぐるのを見て、噂話を広め始めた。その結果、周囲には女性が大勢集まり、私の訪問の目的を聞き出そうと躍起になっている。彼女たちは、ここにいる皆と同じ、都会的な笑みと楽しそうな表情を浮かべている。私が寺に興味を持つことが、彼女たちにとってとても面白いことのように思えるのだ。

自分の現在位置を確認しようとぶらぶら歩いていると、大きな校舎を通り過ぎた。校舎では子供たちが朗読に励んでいた。下駄と和傘は、入り口に設置された専用のラックに収納されていた。


230頁

2025年5月14日水曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑩

 スティーブンスの日本旅行記-⑩

小倉からは人力車道を数里ほど進むと大里に至り、そこから小道が丘陵地帯やハゼノキ林を横切り、さらに2マイル(1里はイギリスの2マイル強)進むと門司村に着く。ここで小さな渡し船に乗り、下関に渡る。午後2時頃に到着した。

雨天に備えて下関で24時間宿泊する。宿屋の女将はヨーロッパ料理に通じていて、とても美味しいビーフステーキとコーヒーを用意してくれた。下関にはヨーロッパの品々が溢れ、その巧妙な模倣品もたくさんある。

街を一時間ほど散歩すると、日本人が外国の品物にどれほど魅了されているかがよく分かる。ほとんどすべての店が、外国から輸入した商品或いはその模造品を専門に扱っているようだ。輸入品を単にコピーするだけでは飽き足らず、日本の職人はオリジナルに何らかの改良を加えようと努めるのが通例だ。例えば、石油ランプの正確な模造品を作った後、日本人の職人はそれを使わない時のために、小さくてこじんまりとした漆塗りの棚を作る。宿屋でコーヒーを入れるコーヒーポットは、精巧な仕掛けで、明らかにアメリカ人の創意工夫を再現したものだろう。


153頁

図の説明、「スティーブンスは日本の娘たちと憩う」

446頁
下関フェリー
自転車世界一周
トーマス・スティーブンス著
1888年発行

2025年5月13日火曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑨

 スティーブンスの日本旅行記-⑨

芦屋から、小さな運河に沿って道を進み、田圃の低地を横切る。何十隻もの石炭運搬船が運河に漂い、潮の流れに頼って進んでいる。潮が満ちるまで漂い、その後は係留され、再び満潮になるまで辛抱強く待つ。長年の経験から、彼らはきっと、状況に応じて一度、二度、あるいは三度の潮の干満​​を計算し、運搬船を特定の船着場や村へと運んでいるのだろう。

隣町の重要な町、若松へは、大勢の人が行き交っている。何かの祭りの行事が人々の注目を集めているようだ。誰もが華やかな装いで、帰る人々は柳の枝や紙の魚などを持ち帰っている。

提灯、花、神名が書かれた紙切れなどが飾られ、多くの者が様々な仮面を被っている。男性陣の中には、白い日よけ帽、ダービーハット、赤、青、緑の毛布、そして時折カジュアルなコートやズボンといった奇妙な組み合わせが見られる。日本の女性の祝祭衣装については、ほとんど言及する必要はないだろう。

おそらく世界で最も美しいドレス(和服)だろう。日本の女性に最も似合うドレスであることは間違いない。もし彼女がこのドレスを捨てて他のドレスを選ぶとしたら、それは大きな間違いである。

若松の通りは活気に満ち、絵のように美しい。華やかな衣装をまとった田舎の人々で賑わい、屋台は食欲をそそる食べ物、おもちゃ、衣類、提灯、紙の花、そして想像し得るあらゆる日本の品々の山の中で、かなり賑わっている。路上の人々は珍品を並べることで、小さな群衆を惹きつけている。私がしばらく立ち止まって眺めていた老人は、小さな色紙のロールを売っていた。それを水を入れたボウルに入れると、花、船、家、鳥、動物に展開するのだ。

祝日の説明で、税関の制服を着た若い男性は、英語を少し話せるが、「日本の神」は宗教的なものだと言う。祭りでは、笑顔で話したり、お辞儀をしたり、滑稽な表情の群衆が楽しんでいる。

若松から小倉にかけては起伏に富んだ地形が続いている。小倉からは狭い海峡を挟んで下関、本土の島々が見える。これまで私は、本土から隔てられた九州を横断してきた。


152頁
図の説明「素晴らしい松並木」

2025年5月12日月曜日

ジロ・デ・イタリア 1909

 ジロ・デ・イタリア 1909

下の写真は最近メタにアップされた動画の一部。

極めて不鮮明だが、第1回のジロ・デ・イタリアの貴重な映像である。


ジロ・デ・イタリア 1909

ジロ・デ・イタリア 1909
自転車競技のロードレース大会であるジロ・デ・イタリアの記念すべき第1回目のレース。1909年5月13日~30日。全8区間。全行程2447.9km。

総合成績
1 ルイジ・ガンナ  イタリア(89時間48分14秒)
2 カルロ・ガレッティ イタリア
3 ジョヴァンニ・ロッシニョーリ イタリア

2025年5月11日日曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑧

 スティーブンスの日本旅行記-⑧

日本の宿屋経営者がどうやって商売をし、これほど清潔な部屋を維持しているのか、日々不思議で仕方がない。

宿屋の決まり事は、到着した客が温かいお風呂に入り、その後、小さな火鉢の横にしゃがんで、夕食の時間までタバコを吸いながらおしゃべりすることである。日本人は他のどの国の人々よりも温泉入浴に夢中だ。彼らは摂氏50度(華氏140 度とあるが?)に熱せられたお湯に浸かる。この温度は「英国人」や「米国人」にとってはまったく耐えられないものだが、徐々に慣れてきて、耐えられるのである。男性も女性も、毎晩定期的に入浴する。日本人は、ヨーロッパ人との付き合いからまだ「恥じらい」をあまり意識していないので、男女が区別なく浴槽に頻繁に入り、まるで皆が小さな子供のようにお互いを気に留めない。風呂の「波間に遊ぶビーナス」は、日本の旅館の定番の光景である。また、ヨーロッパ人観光客が、オーナーやその妻や子供、メイド、お茶係、客、訪問者たちが、服を脱いで浴槽に入っていくのを見ようと群がっていることに、なぜ反対するのか、彼らには全く理解できない。彼らの無邪気な日本の魂に祝福を!なぜ彼は反対しなければならないか?彼らは、肌の白さを見たいという好奇心、独特な脱ぎ方に注目したいという好奇心、そして肉体的な可能性に関する一般的な探究心を満たしたいという好奇心から引き寄せられるだけである。彼らは、監視されることに対して、何ら嫌悪感を抱いていない。ではなぜ心の中で萎縮し、彼らを追い払わなければならないのか?

旅館の通常の食事は、米、さまざまな魚、小さく切ったパリパリの生のカブ、漬物、ケチャップのようなソースで構成されている。肉は、特別に注文しない限り、めったに提供されない。もちろん、その場合は追加料金がかかる。 酒も別途注文する必要がある。夕食後には、お茶の入ったティーポットと炭の入った火鉢が提供される。

福間では女将さんが牛肉の細切りと玉ねぎを少し取ってきてくれて、それを使って美味しいシチューを作ってくれた。料理の味付けに使う、ある臭いのする黒い液体に対する私の嫌悪に対し理解できていない。そして、玉葱、赤ピーマン、塩で作った私のシチューへの欲求は村中に広がり、それを自分で見て味わいたいと望む多くの好奇心旺盛な主婦たちを魅了した。頭を素晴らしく上下させ、真っ黒な歯を見せながら集まる。

私の部屋のドアの周りで、ご飯と一緒にシチューを食べるのを見ている。しかし、試食を頼んできた人たちは首を横に振って不承認とし、自分たちの黒い液体の方が優れていると主張する。もちろん、ダルマ自転車には限りなく興味が寄せるが、日本では好奇心が礼儀の範囲を超えることを決して許さない。だから、彼らは私が笑うのをとても望んでいるかもしれないが、しつこく私に迷惑をかけることは決してしない。

福間の宿屋の人々は素晴らしく社交的である。女将さんは夕方の間中ずっと私と一緒に座って三味線を弾いていて、その間彼女の夫とお茶係の娘たちは柔らかなメロディーを歌い、小さな磁器のお猪口で温かいお酒をすすっていた。これらは、ほんの数日前に私が中国で経験したこととはまったく違っている。しかし、私たちの多くは、日本人と中国人はほとんど同じだという幻想を抱いている。これほど大きな民族学的失望はかつてなかった!日本人自身もこの点には非常に敏感である。彼らは中国人とはまったく異なる起源を主張し、自分たちがはるかに優れていると考えている。

多くの旅行者は、日本人は表面的で、中国人が備えているある種の優れた資質が欠けていると言う。中国人は抜け目がなく、無節操で、陰険であるので、疑いなくよいビジネスマンになるだろう。一方、前述のように、日本人は生計を立てることに熱中しているようで、真剣に考えるべきではない。

昨晩のシチューの残りを朝食に食べ、翌朝下関に向けて出発する。松林に覆われた丘陵地帯を数マイル横断すると、道は小さな河口に位置する芦屋に着いた。芦屋では、にわか雨を避けながら村の床屋で、初めて純日本式髭剃りを楽しんだ。日本の髭剃り職人は石鹸を使わず、温かいお湯の入ったボウルに指を浸して顔を濡らすだけで髭を剃る。髭を剃る作業の間、彼は油砥石で頻繁に剃刀を研ぐ。顔全体と首を剃り、耳たぶ、額、鼻は剃らない。もしヨーロッパの旅行者が日本の村の床屋の椅子に座っている間、冷静さを保っていなかったら、彼は自分の顔と首から、口ひげやひげ以外のすべての産毛が削ぎ落とされ、眉毛もかなり短くなっていることに気づくだろう。


151頁

「アウティング」誌 
第12巻 4月~9月 1888年(合本版)
自転車世界一周 トーマス・スティーブンス著
(アウティング誌特派員)

2025年5月10日土曜日

スティーブンス関連

 スティーブンス関連

最近気づいたのだが、下の2枚の図の説明書きが相違している。場所も違っている。

上の図は、福岡の海岸沿いの松並木の挿絵であるが、下の図では琵琶湖の湖畔になっている。

どちらが正解なのか今となっては分からないが、アウティング誌から単行本の発行において、編集者が取り違えたか、或いはスティーブンスの意向なのか?よくわからない。

何れにしても両方に使用できるような構図であることは間違いない。


152頁
素晴らしい針葉樹の並木道

「アウティング」誌 
第12巻 4月~9月 1888年(合本版)
自転車世界一周 トーマス・スティーブンス著
(アウティング誌特派員)

462頁
琵琶湖を一周

「自転車世界一周」1888年発行
「Around the World on a Bicycle」

2025年5月9日金曜日

スティーブンスの日本旅行記-⑦

 スティーブンスの日本旅行記-⑦

日本の道路は大体3メートルから4メートルほどの幅で、人力車が2台通行できるほどの余裕がある。人力車は道路を走る唯一の車輪付き車両だ。素朴な橋がせせらぎの美しい小川に頻繁に架かり、夕方の早い時間に鳥栖(Futshishiとあるが?)に近づくと、滝がいくつも見えた。

鳥栖の宿屋には、英語を学びたいという立派な熱意にあふれた、主人の若い息子が入居している。そのため、彼には初歩的な綴りの本が与えられている。夕方のかなりの時間は、三文字単語の説明と発音の矯正という啓発的な課題に費やされる。日本の若者が勉強するときの姿勢は、開いた本を床に置き、膝と足を組んで座り、手をコートの袖に突っ込み、頭が地面にほとんど触れるほど前かがみになる。

雨のため、鳥栖で一日休まざるを得ないが、我慢できないほどではない。店主は盲人で、三味線を弾き、娘たちに芸者ごっこをさせて私を楽しませる。鳥栖では牛肉も鶏肉も美味しく、日本のほとんどの町と同じように、魚料理も非常に美味しい。

雨上がりの天気は晴れ渡り、霜が降り、福岡への道はまさに快晴だった。田舎は相変わらず魅力的で、人々は日々礼儀正しく、感じ良くなっていく。今朝の珍妙な光景は、道路で作業する大勢の囚人たちだった。彼らは軽い鎖で繋がれ、きちんとした茶色の制服を着ており、自分たちの仲間ではない、罪のない人間の世界を、まるで申し訳なさそうに見つめている。彼らの真剣さと滑稽さが交錯する顔を見ると、彼らが何か悪いことをしているとは想像しがたい。実際、鎖で繋がれ、警備員に厳重に監視されていること自体が、冗談めかして言う以外、彼らは何も悪いことをしているようには見えない。

福岡は人口2万人を超える港町で、ヨーロッパの品物はほとんど何でも手に入る。福岡で道を間違え、20マイル近くも迂回することになった。その道は松林を抜け、時折浜辺に出る寂しい道だ。何百人もの漁師や浜辺の人々が行き交っている。

海岸沿いでそれぞれの仕事を営む人々が、裸足でダルマ自転車を見ようと道路まで駆け寄ってくる。この手入れの行き届いた土地では、松林さえもが行き届き「文明化」されている。至る所で、男も女も子供たちも、落ちた松葉や松ぼっくりをかき集め、袋や籠に詰めている。

福岡には、小柄でスマートな軍人風の騎兵隊員が黄色い紐の制服を着て現れ、学校や警官、電信技師と同じようにアジア人らしくない様子だ。人力車との衝突で頭を殴られたこと、小柄な日本人との衝突でピンポン玉のようにひっくり返されたこと、そして尾の短い猫との衝突し猫の尊厳を傷つけたことなどが、福岡の思い出に刻み込まれた。人力車の数と人々の独特な習慣を考えると、一日中、衝突を起こさないように注意深く見張っていなければならない。平均的な日本人は、家のドアを後ろ向きに出て、会っていた友人や、ひいきにしていた店主にさえ別れを告げるために、お辞儀をして足を引きずりながら道の真ん中に出る。村を通過するとすぐに、誰かがドアから後ろ向きに出て、ダルマ自転車のすぐ前を通り過ぎる。

道沿いでよく見かける奇妙な光景は、1、2エーカーの土地に敷き詰められた紙製のパラソルである。糊付けされ、色付けされた後、市場に出す準備として天日干しされている。傘と提灯は、衣服と同様に、日本の旅行者の装いの一部となっている。最近の衣服は、時に民族衣装とヨーロッパの衣装が奇妙に混ざり合ったものとなっている。外国の発明熱は社会のあらゆる階層に浸透しており、村の粋な人々は皆、ヨーロッパの衣服に憧れている。その結果、ダービー帽をかぶり、赤い毛布をかぶり、体にぴったり合う白いズボンとわらじを履いた男たちに、道中で頻繁に出会う。ヨーロッパ風の帽子やコートを羽織った村人は、私の宿屋にやって来るが、まるで私がそれを気に入っていることを内心意識しているかのように、愉快な自己満足の表情を浮かべている。一方、ヨーロッパの旅行者は皆、自分たちの民族衣装を私たちの衣装に変えることを嫌がる。

大きな運河沿いにしばらく進むと、今夜泊まる福間村(Hakamaとあるが?)に到着した。


150頁

152頁
素晴らしい松並木

百道松原
福岡市郷土写真帳
昭和13年6月15日発行
国会図書館所蔵資料





2025年5月8日木曜日

自転車関連資料

 自転車関連資料

下の資料は二葉屋から菊池自転車店に宛てた手紙。

日付は昭和2年10月20日

文面には「生憎大阪の自転車競争会には間に合わない」などと書いてある。

菊池自転車店は明治元年に煙草屋から始めたようである。

店は善光寺に近い西之門町にあったが、その後廃業。

二葉屋は当時有名な会社で特にアメリカのインデアン自動自転車などを販売していた。


文面

2枚目

封筒
消印は昭和2年10月26日


「信越商工便覧」 小山岩五郎 編
 明治44年11月発行
国会図書館所蔵資料
以下同じ

「帝国信興名鑑」 長野県之部
明治37年12月発行
以下同じ

同上