スティーブンスの日本旅行記-⑦
日本の道路は大体3メートルから4メートルほどの幅で、人力車が2台通行できるほどの余裕がある。人力車は道路を走る唯一の車輪付き車両だ。素朴な橋がせせらぎの美しい小川に頻繁に架かり、夕方の早い時間に鳥栖(Futshishiとあるが?)に近づくと、滝がいくつも見えた。
鳥栖の宿屋には、英語を学びたいという立派な熱意にあふれた、主人の若い息子が入居している。そのため、彼には初歩的な綴りの本が与えられている。夕方のかなりの時間は、三文字単語の説明と発音の矯正という啓発的な課題に費やされる。日本の若者が勉強するときの姿勢は、開いた本を床に置き、膝と足を組んで座り、手をコートの袖に突っ込み、頭が地面にほとんど触れるほど前かがみになる。
雨のため、鳥栖で一日休まざるを得ないが、我慢できないほどではない。店主は盲人で、三味線を弾き、娘たちに芸者ごっこをさせて私を楽しませる。鳥栖では牛肉も鶏肉も美味しく、日本のほとんどの町と同じように、魚料理も非常に美味しい。
雨上がりの天気は晴れ渡り、霜が降り、福岡への道はまさに快晴だった。田舎は相変わらず魅力的で、人々は日々礼儀正しく、感じ良くなっていく。今朝の珍妙な光景は、道路で作業する大勢の囚人たちだった。彼らは軽い鎖で繋がれ、きちんとした茶色の制服を着ており、自分たちの仲間ではない、罪のない人間の世界を、まるで申し訳なさそうに見つめている。彼らの真剣さと滑稽さが交錯する顔を見ると、彼らが何か悪いことをしているとは想像しがたい。実際、鎖で繋がれ、警備員に厳重に監視されていること自体が、冗談めかして言う以外、彼らは何も悪いことをしているようには見えない。
福岡は人口2万人を超える港町で、ヨーロッパの品物はほとんど何でも手に入る。福岡で道を間違え、20マイル近くも迂回することになった。その道は松林を抜け、時折浜辺に出る寂しい道だ。何百人もの漁師や浜辺の人々が行き交っている。
海岸沿いでそれぞれの仕事を営む人々が、裸足でダルマ自転車を見ようと道路まで駆け寄ってくる。この手入れの行き届いた土地では、松林さえもが行き届き「文明化」されている。至る所で、男も女も子供たちも、落ちた松葉や松ぼっくりをかき集め、袋や籠に詰めている。
福岡には、小柄でスマートな軍人風の騎兵隊員が黄色い紐の制服を着て現れ、学校や警官、電信技師と同じようにアジア人らしくない様子だ。人力車との衝突で頭を殴られたこと、小柄な日本人との衝突でピンポン玉のようにひっくり返されたこと、そして尾の短い猫との衝突し猫の尊厳を傷つけたことなどが、福岡の思い出に刻み込まれた。人力車の数と人々の独特な習慣を考えると、一日中、衝突を起こさないように注意深く見張っていなければならない。平均的な日本人は、家のドアを後ろ向きに出て、会っていた友人や、ひいきにしていた店主にさえ別れを告げるために、お辞儀をして足を引きずりながら道の真ん中に出る。村を通過するとすぐに、誰かがドアから後ろ向きに出て、ダルマ自転車のすぐ前を通り過ぎる。
道沿いでよく見かける奇妙な光景は、1、2エーカーの土地に敷き詰められた紙製のパラソルである。糊付けされ、色付けされた後、市場に出す準備として天日干しされている。傘と提灯は、衣服と同様に、日本の旅行者の装いの一部となっている。最近の衣服は、時に民族衣装とヨーロッパの衣装が奇妙に混ざり合ったものとなっている。外国の発明熱は社会のあらゆる階層に浸透しており、村の粋な人々は皆、ヨーロッパの衣服に憧れている。その結果、ダービー帽をかぶり、赤い毛布をかぶり、体にぴったり合う白いズボンとわらじを履いた男たちに、道中で頻繁に出会う。ヨーロッパ風の帽子やコートを羽織った村人は、私の宿屋にやって来るが、まるで私がそれを気に入っていることを内心意識しているかのように、愉快な自己満足の表情を浮かべている。一方、ヨーロッパの旅行者は皆、自分たちの民族衣装を私たちの衣装に変えることを嫌がる。
大きな運河沿いにしばらく進むと、今夜泊まる福間村(Hakamaとあるが?)に到着した。