スティーブンスの日本旅行記-⑳
数世紀前に起きた地震が原因とされている。伝説によると、富士山は駿河平野から、湖が形成されたと同時に雄大な姿を現したと言われている。
数多くの社寺があり、遠方から多くの巡礼者が参拝し、その美しさを目にする。観光客にとって特に興味深いものの一つは、見事な松の木である。枝は垂直の支柱に水平に伸び、数百平方ヤードの広い庇を形成している。東海道側には、この巨木を模した小さな松の木も、広がっている。
雪が湖を見下ろす山々の斜面に降り積もり、小さな汽船や無数の帆船が穏やかな水面を行き交い、雁が飛んでいる。左手に美しい景色、右手に茶園を望みながら、東海道は立派な松並木を抜け、湖岸沿いの多くの集落を通り過ぎて行く。
中山道は、乗馬の鞭の製造(竹根鞭細工)で名高い草津の村で左に分岐する。石部を過ぎ、横田川を渡るまでは、東海道は平坦で美しい道が続く。この川の交差点の近くには、三匹の猿が目と口と耳を覆っている彫刻が施された興味深い石碑(庚申塔)がある。これは「悪いことを見ず、聞かず、言わず」という意味である。この地域一帯は主に茶の栽培に力を入れており、起伏のある尾根や丘陵の斜面には、濃く光沢のある茶の木が茂り、整然とした列や群落が広がっていて、実に美しい景観を呈している。
東海道は急峻な斜面をジグザグに下り、八十瀬川(やそせがわ)の小さな谷へと入っていく。丘の麓には奇妙な祠のような洞窟があり、粗雑な偶像がいくつかある。金魚の入った水槽、そして私が今まで見た中で最も粗雑な仏像が一つ安置されている。野心的な仏像彫刻家の狙いは、「大いなる静寂」の擬人化を創造することにある。八十瀬川の谷にあるこの像は、まさにこの方面における傑作と言えるだろう。かすかに口と鼻が彫られた長方形の巨石が、人間の形を朧げに削り取った直立した石板に鎮座している。これほど静謐なものはないだろう。
46マイルの道は坂下村で終わる。ここには快適な宿屋が待っている。とはいえ、日本のほとんどの村と変わらない。東海道の宿屋の主人たちは、神戸以西の宿屋よりもヨーロッパ人の客に慣れている。毎年夏になると、多くの欧米人観光客が人力車で横浜と神戸の間を行き来する。
この宿屋で、私は初めて日本独特の制度、盲目の按摩師に出会った。小さな部屋に座っていると、四つん這いで近づいてきた男が私の注意を引いた。男は剃った頭を偶然、ドアになっている開いた羽目板の角に押し付けた。男は入り口で立ち止まり、自分の体をつねったり揉んだりするパントマイムにふける。彼の狙いは、私が彼のサービスを望んでいるかどうかを知ることだった。少額の心付けで、日本の盲目の按摩師は、頭から足まで、心地よい感触になるまでさすったり、揉んだり、押し付けたりしてくれる。この仕事は目の見えない人か老婆だけが行うもので、多くの日本人は温かいお風呂に入った後にこのサービスを受ける。彼らは、この施術がとても心地よく、有益だと感じているからだと言う。
日本人の模倣癖を最も面白く示す例の一つは、ほとんどすべての村の宿屋の壁を飾るアメリカ製の時計の数だ。面白いのは、これらの時計の持ち主たちが、それが何のためにあるのかを全く理解していないように見えることだ。私の宿屋の壁の時計の一つは11時を指し、もう一つは9時半、そして朝私が出発した時には7時15分を指していた。村の通りにある他の時計も同じように誤差がある。村々を自転車で走りながらこれらの時計を探すのは、今日のサイクリングの楽しみの一つとなっている。
坂下から美しい渓谷や松に覆われた山々を抜け、四日市まで続く道は、所々に起伏があるものの、概ね良好な状態である。四日市は小さな港町で、東海道沿いの旅人の多くは、ここから往復する蒸気船で宮(熱田宿) へ向かう。街道はさらに10マイルほど先の桑名まで良好に続いているが、そこから宮へは、水田、堤防、運河、沼地といった平坦な区間を通る狭い道を進まなければらない。ここでは農民が田舟で米を収穫している様子が見られる。