スティーブンスの日本旅行記-⑤
支点には長い梁があり、片端に杵、もう一端に桶が付いている。杵は、外側の桶に水を満たし、自動的に水を抜くことで、臼の中の米の上に落ちる。水を満たした桶は、自重で落下し、水を抜くと、反対側の端が落下する。この動作は、一日を通して約2秒ごとに繰り返される。
嬉野周辺の丘陵地帯は茶の栽培に利用され、岩肌へと続く斜面には、うねりのある均一なお茶の木が並び 緑豊かな茶園が美しく広がっている。 嬉野とその温泉街は下関への幹線道路から少し離れたところにある。特にそこへ行く気はなかったので、武雄村へと向かった。武雄では雨のため、数時間足止めをさせられた。中国と比べて、すべてが素晴らしく優れているため、日本の村の宿屋は、私が初めて訪れた数日間は、まさに楽園のようであった。中国の村の宿屋で一 週間暮らしたら、平均的なアングロサクソン人の理性は打ち砕かれるだろう。 しかし、日本の田舎の宿屋なら、同じ時間をとても快適に過ごすことができる。武雄の周囲の地域は、自然の美しさだけではなく、小さな人工湖、島、洞窟、そしてさまざまな珍しい景観で飾られている。
武雄から牛津まで、8本の電信線が街路を縫うようにあり、数多くの村々を通り抜け、町から町へとほぼ一続きの街路をなしている。こうした街路の整備は、ヨーロッパ風の制服を着た警察官や電信官が事務所に座り、壁には必ずアメリカ風の時計が掛けられている。そして 人々の温かさに目を向けると、30年前には中国よりも危険だったとは想像しがたい。
牛津のメインストリートを通り過ぎ、一番良い宿屋を探していたら、中年の女性が 「もしもし!ワンチの部屋?ワンチのチャウチャウ?」と声をかけてきた。彼女の母親が宿屋を経営しているそうで、片言の英語で陽気におしゃべりしながら案内してくれた。彼女は片言の英語を披露する機会にとても満足しているようで、上海でイギリス人の家庭に2 年間住んでいた時に英語を学んだそうだ。彼女の名前はオハンナ(お花?)だが、友人たちは彼女をハンナと呼んでいて 接頭辞はつけなかった。私が夕食に何を一番喜んでくれるかを知っている彼女 は、手際よく手を動かし、美味しい魚、たっぷりの嬉野茶、砂糖、菓子パン、薄切りのポモロ(柑橘類)を用意してくれた。これとご飯 が牛津での美食の限界だった。
オハンナは誇らしげに本物のアメリカ製灯油ランプを見せ、アメリカ製のストーブがないことを詫びた。私が食事をしていると、 彼女は可愛らしい小さな日本のプードルを連れてきた。ライオンのような形にトリミングされ、大きなフリルの首輪をつけている。「ヨモト」と呼ぶと、すぐに数々の面白い芸を披露し始めた。ヨモトは非常に賢く、才能のある犬である。ケーキを少し分けてもらうと、 前足と頭で立ち上がり、くるくると素早く回転し、闊歩し、「チンチン」と声をかけると足で蹴り上げる。その他にも犬らしい 芸をいくつか披露した。この日本のプードルたちは、驚くほどハンサムで賢い小さな友達のようである。
翌朝は白い霜が降り、道は平坦で状態も良く、宿屋の人たちは、この季節にふさわしい、ボリュームたっぷりの朝食が用意されているのを見て喜んでいる。ブーツまでもが、きれいに磨かれていた。オハンナは「ブラシがないのよ」と、ピジン・イングリッシュ(中国訛りの英語)で靴ブラシと靴墨がないことを詫びていた。
中国とは対照的に、ここでは「道路工夫」と呼ばれる人々が道路の整備にあたる。大きな白い「ブルズアイ」のついた青い制服を着た男たちで、天上の友であるヤメニ・ランナーのような面々だ。学校へ向かう子供たちの集団 が、本やソロバンを脇に抱えて道路を行き交う。彼らは時折、道路脇に列をなして並んでいる。私が 自転車で通り過ぎると、彼らは一斉に膝の高さまで頭を下げ、「オハヨー」と丁寧に挨拶してくれる。
この辺りの土地は豊かで人口も多く、人々は裕福そうに見える。茶室、農家、そして小さな米俵でさえ、芸術的な効果を狙っているようだ。西洋の機械技術の進歩が徐々に浸透してきたことが、この地でも見て取れる。 今朝、ヨーロッパを出て以来、初めて両手持ちの鋤を目にした。しかし、その横には、先祖伝来のような日本の耕作農具を使う男たちや、上半身裸の男女が籾殻を取り除いている。