2025年1月12日日曜日

ニューサイ- 3

 ニューサイ- 3

月刊雑誌「ニューサイクリング」第3号 1963年2月1日発行

より、

表紙

目次

96頁

87頁

宇都宮付近を走る自転車大尉

自転車百科事典 久留梅士 より
自転車大尉 だるま型のオーディナリー車の時代に軍人にも無類の愛輪家が現われた。中島康直歩兵大尉がそれで、海外留学中、自転車を伝令に用いているのを見て、帰朝後、自宅の中に工作場を設けて自ら組立に当ったというから余ほどのマニアに違いない。 明治二五年秋宇都宮附近で大演習があったので大尉は愛車三両を携えて参加した。当時の新聞(時事新報)記事によると「単二輪車(目下欧米諸国にて行はるる式)、片鎖安全車(同中尉の発明せしもの)、単安全車(仏国軍用式)以上の三車中、単二輪車の中径は四尺六寸、片鎖安全車は三尺七寸、 単安全車は二尺六寸」の三種で「片鎖二輪車は専本邦の如き凹凸多き地形に適用する為めに構造せるものにて、安全車の如きは安全の点に於ては殆ど完全なるが如しと雖も、多くは平坦地に限り、斜形の地に臨んで与ふる力は、単に我が体量の二分の一に過ぎず二輪車は一時の速力前両車に及ばずして多少危険のありと雖も、稍や熟錬せば最も疲労少うして愉快亦た三割方低廉なりといふ」とある。大尉はこの演習中、明治天皇御所望によって走行ぶりをお目にかけその後も陸地測量部に勤務しつつ、軍用化に腐心して「自転車大尉」の異名をとったのであったが、明治二八年日清戦役の折、台湾で病死された。陸軍では車型がセーフティ車に移った明治三〇年代には自転車車事取調委員会を組織した。 その委員長は陸軍戸山学校の梅津元晴歩兵大尉で、大尉は明治三五年の春、川越附近で行なわれた慶応義塾の機動演習には、わが国ではじめて軍事演習に参加した自転車隊の指導に当るなど当時の権威者として推重されていたので「自転車十傑」にも博識家の部に選ばれ第二の自転車大尉である。

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