2009年8月20日木曜日

中村春吉(11)

 日本を出発した中村春吉の自転車世界無銭旅行の行程は、次のとおりです。
 日付が若干資料により2,3日ずれていますが、これは彼の記憶違いか印刷ミス等ではないでしょうか。
 例えば先にも書きましたが押川春浪の冒険小説では、横浜港の出発日は明治35年2月25日ですが、雑誌「輪友」第5号では明治35年2月22日になっています。 
 なお目的の都市への到着日と出発日の日付が書かれていない箇所が多々あり、詳細な行程はわかりません。

1902年(明治35)02月25日 横浜港を汽船”丹波丸”にて出発
1902年(明治35)02月27日 下関に寄港
1902年(明治35)02月28日 下関港を出発して上海に向かう
1902年(明治35)03月03日 上海到着、一時上陸して市街地を見学する  
1902年(明治35)03月08日 香港到着、東洋館に宿泊、豪州行きを考えていたが諦めて再び丹波丸に乗船してシンガポールへ向かう、シンガポール到着後陸路自転車でラングーンに向かうが急峻な山稜に阻まれ断念、またシンガポールに引き返す
1902年(明治35)03月18日 英国汽船ツー・バンド・ファナー号でシンガポールを出発し、ラングーンへ向かう、ラングーンからは陸路自転車でカルカッタに向かう、
1902年(明治35)04月01日 カルカッタ到着、ブッダガヤへ向かう
1902年(明治35)04月02日 ボードワン到着、翌日ラジャバンドへ向かう
1902年(明治35)04月04日 カツラガハー到着
1902年(明治35)04月16日 ブッダンガヤ(ブッダガヤ)に到着し二日滞在する、その後ガンジス河の支流クドロー河の岸に達し、水牛の背に跨り渡河する、砂漠を横断しマンキポールという町へ、その後ミルザポール~アロハバッド~ジャバポール~ボンベイ~アグラー~タヂ~デレー~ボンベイへ
1902年(明治35)10月10日 イタリアの汽船に乗船しボンベイ(ムンバイ)を出発~アデンへ
1902年(明治35)10月16日 アデン到着
1902年(明治35)10月17日 アデン出発
1902年(明治35)10月20日 スエズ到着
1902年(明治35)10月28日 ポーセット(ポートサイド)出発
1902年(明治35)10月30日 イタリアのナープル(ナポリ?)到着
1902年(明治35)11月01日 ローマ村到着~ローマへ
1902年(明治35)11月09日 ローマを出発しゼノア(ジェノヴァ)へ、途中スペンヂャからアルプス越え~キャプレー
1902年(明治35)11月15日 ジェノヴァ到着~マルセイユからリヨンまでは汽車に乗る~パリへ
1903年(明治36)01月07日 ロンドン到着~リヴァプールへ
1903年(明治36)01月22日 汽船ブレーデン号でリヴァプール出発しボストンに向かう~時化に遭い1ヶ月間大西洋を漂流
1903年(明治36)02月21日 無事ボストン到着~ニューヨーク~フィラデルフィア~ワシントン~シカゴ~北米大陸を横断しサンフランシスコへ
1903年(明治36)04月10日 サンフランシスコ到着~汽船香港丸で日本へ
1903年(明治36)04月30日 ハワイ寄航
1903年(明治36)05月10日 横浜港到着

2009年5月30日土曜日

中村春吉(10)

 明治35年2月22日、汽船丹波丸にて横浜を出向した中村春吉は、同年の3月15日に香港に到着しています。 
 香港在住の日本人である梅谷正人氏の世話になり、領事館などを訪ねています。領事館での話によるとオーストラリア政府は規則を変更して東洋人の上陸を禁じることになった由で、彼はオーストラリア行を諦めシンガポールへ向かうことになりました。

その後の消息は、明治35年5月16日頃にカルカッタに到着しています。

以上の記録は、雑誌「輪友」第6号及び第8号に載っています。

 押川春浪編述「中村春吉自転車世界無銭旅行」(明治42年8月14日博文館発行)には、明治35年2月27日下関着、3月3日上海着、3月8日香港着などとありますが、小説ゆえかそれとも記憶違いか、実際とは若干のずれがあるようです。
 自転車での走行の記録も極めて不鮮明です。印度まだは殆んど船での移動のように思われます。当時の治安や道路状況を考えれば、当然の結果なのでしょう。

2009年5月21日木曜日

東亜護謨会社

 東亜護謨会社は、明治32年創業で社長は小林六三郎という人でした。工場は、東京府下南葛飾郡亀戸村字柳島四百十九番地にありました。彼は元薬剤師で、ある薬問屋に勤めていました。ある日、雑誌読んでいた小林はゴム製造に興味を持ち、自分でもやってみようという気になりました。明治32年12月から本や雑誌などを見ながら、実験を繰り返していました。おそらく薬を調合するような具合で実験を重ねたと思います。そして、明治33年8月にようやくゴムというものが概ねどういうものか分かってきたようです。この時期まだ日本で自転車用のタイヤを製造する会社はありませんでしたので、彼はこれを専門にやってみようと思い、手始めに廃物になったタイヤを安く買い入れ、この古タイヤに上からゴムをかけて造ったようですが、この方法はうかくいかなかったようです。その後も試行錯誤を続けながら研究を続け、明治34年10月になって、初めて実用になりそうなタイヤを製造することができるようになりました。 
 その後、この会社がどうなったかは分かりません。この会社は自転車用タイヤの他に足袋底、草履裏、ゴムマリ、消しゴム、医療器械用のゴムなども製造したようです。

2009年5月19日火曜日

タイヤ

 自転車の部品の中で国産化が遅れたものの一つにタイヤをあげることができます。
 明治後期に自転車用タイヤを製造していた企業は、次の4社です。

東亜護謨会社 
 東京府下南葛飾郡亀戸村字柳島四百十九番地 明治32年創業

合資会社明治護謨製造所
 東京府豊多摩郡大久保村大字西大久保 明治33年創業

ダンロップ護謨(極東)株式会社 
 神戸市 明治42年創業

三田土ゴム製造合名会社
 東京 明治19年創業

ただし、この4社にしても自転車用タイヤの製造は遅く、明治42年頃からです。

梶野

 梶野が日本で最初にセーフティー型自転車を製造したのはほぼ間違いないと思われますが、その詳細については殆んど分かっていません。断片的な資料があるのみです。

次の記事もその一つです。

日本で自転車を一番初めに造ったのは横浜高島町の梶野自転車合名会社であるが、空気入りの自転車を製造しはじめたのは確か明治二十五、六年の頃だと考える。私もその頃同社に特に一台を注文して試乗した事もあるが併し遂に好結果を得なかった。其後彼是れ四年程後にまたまた梶野自転車合名会社の手に於いて金日本、銀日本等の自転車が製造された。是は主に舶来の原料を以て唯だ其組立てを梶野でやったと云う位に止まって居ったが、之も矢張り余り思わしくない結果に終わったのである。(明治35年5月8日発行の雑誌「輪友」より)

 梶野といえども、国産自転車製造の当時の状況はこの程度のものであったようです。国産といっても殆んどの部品は外国製品が使用され、単に組み立てた所謂アッセンブル方式による製造だったのです。宮田の創業時(明治26年)もこのような状況でした。
 梶野の創業は明治12年と伝えられていますが、当初(明治21年~明治26年頃)はコロンビアやビクターなどのアメリカ車を輸入販売していました。創業期から明治20年までの状況は殆んど分かりませんが、恐らく木製のミショー型か三輪車を製造していたものと思われます。

2009年5月16日土曜日

ジェラール自転車(4)

 明治35年に日本陸軍はジェラール折畳自転車を50台程購入しています。

◎ジェラール式自転車
今回陸軍兵器監部にては曾て仏国海軍大尉ジェラール氏が発明されたる折畳自転車五十余台を購入し軍用として各師団に配布したる由なり其詳細なる説明は次号に詳記して読者の前に提供すべし(明治35年5月8日付けの雑誌「輪友」第7号より)

とあります。ジェラール自転車を日本陸軍が使用していたことは分かっていましたが、いったい何台ぐらい入っていたのかはよく分かりませんでした。この記事から凡その見当がつくかと思われます。

このブログでのジェラール自転車関係は、下記のとおりです。
2009年5月5日梅津大尉
2009年4月4日ジェラール自転車(3)
2009年4月1日ジェラール自転車 (2)
2009年3月16日ジェラール自転車

を参照願います。

2009年5月13日水曜日

愛輪号

 これは愛輪号の保証書です。愛輪という名前は3社ほどが採用していますが、この愛輪号は東京神田の愛輪自転車製作所が製造した自転車です。車体番号は2033で、保証書の日付は昭和11年1月11日とあります。良く見ますと透かしのようなトレードマークも中央に見えます。