2023年3月23日木曜日

スティーブンスが通った日見峠

 スティーブンスが通った日見峠

1886年11月23日、自転車世界一周旅行で来日したトーマス・スティーブンスは、長崎から横浜への800マイル(約1200㎞、直線距離で950㎞)の道のりを例のダルマ自転車でスタートした。

長崎を出発して長崎街道(228Km)を小倉に向かって行く。途中には最初の難所である日見峠があり、スティーブンスはこれをダルマ自転車で越えなければならなかった。この日見峠の道は1882年に開通し、当時は建設費用を補填するための有料道路であった。峠には通行料金の徴収する小屋があり、通行料は、馬車5銭、荷車3銭、人力車2銭(地域の住民は無料)と云われ、当然ながらスティーブンスも人力車並みの2銭を払ったはずである。ところが、日本語が分からない彼は誤って往復料金を払ってしまい、帰りの通行切符の木札をもらっている。或いは一般的に往復料金が基本で片道だけの利用を伝えないと往復料金を徴収されることになるのであろう。

本「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵を見ると、料金徴収所に和服を着た年増の女性とスティーブンスがいるのがわかる。丁度通行料を払っているところで、ここで女性から通行手形のような木札をもらっている。

手前には珍しそうに男女がその光景を後方から眺めている。画の奥には人力車も見える。

峠の頂上付近は山を切り崩し、ちょうど切通しのような形状になっており、この山の尾根を通り抜けて行く。峠を越えると道はカーブが連続して下って行き、日見川沿いの道になる。この川に沿って行くと時々石や木でつくられた橋を渡る。夕刻近くには矢上という小さな宿場町に到着した。ここの茶屋で早めの夕食をとる。魚料理と日本酒で腹ごしらえ。給仕に出てきた女性は鉄漿をしていた。この日の宿泊場所は更にダルマ自転車で走り日没近くに長崎街道の宿場町である大村に泊まる。この日の走行距離は凡そ20㎞であった。

日見峠の料金所
「AROUND THE WORLD ON A BICYCLE」の挿絵

明治中期の日見峠
長崎大学付属図書館所蔵

現在の日見峠
何となく当時の面影を残している
Googleストリートビューより

トーマス・スティーブンス
「自転車世界一周」の挿絵より


註、日本の自転車文化の発祥の地は長崎とこの日見峠である。
ここから日本での自転車(二輪車)とサイクリングの歴史が始まったと云っても過言ではない。
どなたか企画してサイクリング発祥の地「日見峠」を喧伝したらいかがであろうか。
1886年11月23日は記念すべき好日である。また11月23日は「勤労感謝の日」でもある。

参考資料、
長崎市が日見峠に設置した案内板よると、

日見新道(明治新道)
明治時代になり、日見峠の道路改修が計画され、新たに設立された日見峠新道会社によって、 新道の建設が行われました。 約1年4か月の工期と、当時の金額で約4万7000円という莫大な工費をかけた新道の開通によって、天下の難所といわれた日見峠を、人力車や馬車などが通行できるようになりました。
なかでも最大の工事が、峠を33メートル切り下げた切通しで、 約1年をかけて明治15年(1882) に開通しました。
会社は工事費を償還するために、一人5厘、人力車2銭、 馬車5銭の通行料をとることにしました。 これが、わが国の有料道路の始まりといわれており、明治17年(1884)から22年(1889) まで徴収が行われました。 長崎市

日見峠
日見峠では、江戸時代から昭和初期まで、毎年旧暦の八月一日、すなわち八朔に日拝みをする習慣があり、多くの人で賑わったそうです。 
 日を見る峠ということで、日見という地名がつけられたと伝えられています。
 また、 天正6年(1578) 長崎甚左衛門と深堀純賛が当地で戦った際、 深堀氏側は大軍勢で押し寄せていることを装って、さかんに火を焚いてみせたといわれており、火を見る峠で火見と称し、後に日見と改められたという説もあります。 
 長崎奉行の送迎の際は、 地役人は立山奉行所からこの峠まで出迎え、見送りをするのが慣例でした。
  なお、 明治時代に日見新道(明治新道) の切通しを開削したことに伴って、「新茶屋」が一時的にここに移されました。 長崎市