2023年11月20日月曜日

地方輪界の歩み

 地方輪界の歩み

以下の資料は『地方輪界の歩み』日本輪界新聞社 昭和34年7月発行。


「地方輪界の歩み」
以下同じ


年表


自転車商案内図 東京

自転車商案内図 名古屋


以下に梶野関係の記事抜粋。

梶野氏、自転車製造す
●このような風潮を見て自転車の製造に志したのが津井郡太井村出身の梶野仁之助氏であった。
家業は質屋ならびに醤油業で発明意欲の非常に旺盛な人で、いわば巷間の発明家であった。自転車製造に志したのは明治十年頃のことで、当時外人が乗っていたダルマ型二輪車に興味をそそられ研究に乗り出し、明治十八年 横浜蓬萊町四ノ三六に 「梶野自転車工場」を設立したのであった。準備なり 翌十九年高島町五ノ一〇に工場を移し、本格的に自転車の製造を開始したのである。最初は米国より材料をセットで仕入れ、臘付するに過ぎない全くの組立工場であったが苦心の末、車輪、ハンドル等をはじめ自家生産ができるようになり、初の国産車「金日本号」「銀日本号」をつくるとともに米車の卸業をも行って輪界に貢献した。
明治二十五年三月東京 中央電信局で電信用に始めて自転車を採用したが、この時木製車五台、鉄製硬質タイヤ車五台を梶野工場より納入されたことが当時の文献に載っている。 まだ安全車はできず、アメリカ製部品の助けを借りて空気入タイヤの安全車をつくるようになったのはその後で、銘柄車 日本号(金日本号、銀日本号)を完成したのはその四、五年後であった。明治二十九年の横浜商工会議所々報には外国商社より自転車の発注をうけ輸出した自転車工場のあったことが記されているが、これは梶野工場のことであろう。当時は既に外国商館が自転車の輸出入に当っていた。二四二番館のアンドリユース、アン・ジョージ商会、 十一番館のエッチ・マツカーサー商会等がそれであった。地方の金持、名士など直接商館に来て自転車を買っていったものだった。