梶野自転車製造所
日本で最初の自転車メーカー、横浜・梶野自転車製造所の沿革を更新。
追加資料、
①・・・自轉車部分品たる「ボール」、「スポ ー ク」、「チェーン」の如きは未だ之が製作に従事するものなく外國品の供給を仰ぐは頗る遺憾とする所なり其の「ボール」は横濱梶野仁之助専ら精苦を積み稍々成功の曙光を認むるに至れりと謂うわ大に多とすべく・・・参考資料、「明治前期産業発達史資料」勧業博覧会資料 235 明治文献資料刊行会
梶野自転車製造所 沿革
明治12年創業
明治22年2月3日、 毎日新聞 梶野の広告 オーディナリーの挿絵入り 、三輪車 金35円、二輪車 金25円 横浜高島町 自転車製造所 (アメリカ製のオーディナリー、コロンビアかゴマリー&ジェフリーを販売したと思われる)
明治22年8月15日 東京朝日新聞 自転車鉄道製造会社設立のこと、 梶野仁之助
明治22年8月24日 東京朝日新聞 自転車鉄道製造会社設立の相談会 (この自転車鉄道製造会社は、計画倒れで終わったようである) 明治23年の第3回内国勧業博覧会・東京 自転車 出品者 山崎治兵衛(製造者・梶野仁之助)
明治23年9月14日 「自転車利用論」巻末に 各種自転車定価表広告
明治26年2月26日 毎日新聞 梶野の広告 ビクター号の挿絵(ビクターは、アメリカのオバーマン・ホイール・カンパニー社製造の自転車、1885-1900)
明治26年2月27日 東京朝日新聞 自転車練習場及び販売所広告 横浜 梶野自転車製造所
明治26年7月14日 毎日新聞 自転車予約製造広告、梶野仁之助
明治26年9月1日 毎日新聞 自転車予約製造第三回広告、梶野自転車製造所
明治28年1月10日 東京朝日新聞 自転車広告 梶野製作所 横浜高島町五丁目(社名を変更)
明治28年4月1日~7月31日 第4回内国勧業博覧会・京都 出品者 梶野仁之助 銘柄車「金日本号」、「銀日本号」を完成させる
明治29年 「自転車術」渡辺修二郎著 少年園発行の巻末に広告
明治30年1月27日 東京朝日新聞 広告・発起認可に付来二月十五日を 限り株主を募集す 横浜市高島町五丁目 大日本自転車製造株式会社創立事務所
明治30年1月30日 東京朝日新聞 大日本自転車製造株式会社、株主を募集(梶野自転車製造所、株式会社化して社名変更)
明治40年 東京勧業博覧会に自転車部品であるボール(鋼球)を出品
梶野仁之助関係略年譜
1856年(安政3)3月25日、神奈川県津久井郡太井村に生まれる。
1864年(元治元)、八歳の時、父の逝去に遭い、親戚の梶野敬三氏方へ引取られ、丁稚見習として同家の家業たる醤油醸造業に従事する。
1871年(明治4) 、15歳の時、醤油墫の木片を利用して木製の自転車を作る。(伝記のこの記事は伝説めいていて信じがたい)
1877年(明治10)、横浜の燈台局に入職。
1879年(明治12)、 横浜市蓬萊町四丁目八番に工場を設け、自転車製造を始める。
1886年(明治19)、事業拡張のため横浜市高島町5-10に工場を移転する。(明治43年刊の「横浜成功名誉鑑」では、高島町への移転は明治21年としている)
1889年(明治22)、2月3日付け毎日新聞に広告を載せる。三輪車35円、二輪車25年、ダルマ自転車のイラスト入り、横浜高島町 自転車製造所。
8月15日付け東京朝日新聞 自転車鉄道製造会社設立のこと、 梶野仁之助。
8月24日付け東京朝日新聞 自転車鉄道製造会社設立の相談会。 (この自転車鉄道製造会社は、その後進展なく終わったようである)
1890年(明治23)第3回内国勧業博覧会・東京 自転車 出品者 山崎治兵衛(製造者・梶野仁之助)
1891年(明治24)、国産梶野自転車が初めて外国(中国)に輸出される。
1892年(明治25)3月、 東京中央電信局へ木製車5台、鉄製硬質タイヤ車5台計10台を納入する。これらの自転車は初めて電信用に採用された。
1893年(明治26)、2月26日付け毎日新聞に自転車練習場及び販売所の広告、東京神田橋筋錦町一丁目二番地、横浜梶野自転車製造所東京支店、米国製ビクター号のイラスト入り。(ビクターは、アメリカのオバーマン・ホイール・カンパニー社製造の自転車、1885-1900)
2月27日付け東京朝日新聞 自転車練習場及び販売所広告 横浜 梶野自転車製造所とある。
7月14日付け毎日新聞 自転車予約製造広告、梶野仁之助
9月1日付け毎日新聞 自転車予約製造第三回広告、梶野自転車製造所
1895年(明治28)、第四回内国勧業博覧会において有功三等賞を授賞した。陸軍省・軍用自転車一台献納した功績により、明治28年5月6日、神奈川県知事から木杯を下賜される。銘柄車「金日本号」、「銀日本号」を完成させる。
1月10日付け東京朝日新聞に広告、空気入護謨安全型自転車のイラスト入り、25円~70円。
1月10日付け東京朝日新聞 自転車広告 梶野製作所 横浜高島町五丁目(社名を変更)
4月1日~7月31日 第4回内国勧業博覧会・京都で開催 出品者 梶野仁之助
1896年(明治29)、外国商社より自転車の発注をうけ、ロシア、シンガポール等へ輸出する。
1897年(明治30)、1月27日付け東京朝日新聞 広告・発起認可に付来二月十五日を 限り株主を募集す 横浜市高島町五丁目 大日本自転車製造株式会社創立事務所。
1月30日付け東京朝日新聞 大日本自転車製造株式会社、株主を募集(梶野自転車製造所、株式会社化して社名変更)
5月12日付け東京朝日新聞 横浜高島町の大日本自転車製造株式会社は以前一個人の営業たりし頃より米独、支那、豪州等へ輸出し居たりしが其後朝鮮及び印度地方よりも注文あるに至りしを以て今度之を会社組織となし昨十一日其設立認可を農商務大臣へ申請。
(「以前一個人の営業」とあるは梶野仁之助のこと)
1898年(明治31)、大日本自転車製造株式会社 社長、渡辺幸之助 専務取締役、村松武一郎 高島町六丁目12(高島町五丁目10から六丁目12に移転している 社長も梶野仁之助ではない、業務の拡張であろうか)明治31年12月発行の『横浜姓名録』(加藤大三郎編刊 1898年)より。
1899年(明治32)8月24日付け中外商業新報 商業登記広告
合名会社登記簿第一册第五号
一、商号 梶野自転車合名会社 神奈川県高島町五丁目十番地
一、本店 東京市京橋区采女町二十三番地
一、目的 自転車製造並ニ販売
一、設立年月日 明治三十一年十月二十六日
一、代表社員ノ氏名 近藤常治
一、社員ノ氏名住所出資額ノ種類及ヒ価格 神奈川県横浜市高島町五丁目十番地
金一千六百六十六円六十八銭 近藤常治
同上、金一千六百六十六円六十六銭 梶野仁之助
同上、金一千六百六十六円六十六銭 梶野トメ
(また新たに社名を梶野と冠し、合名会社になる。ただし代表は近藤常治に変わっている。梶野トメは仁之助の妻、近藤常治は銀行関係者或は投資家か)
1902年(明治35)、同業者を代表して米国ワシントンに渡り、米国自転車発明銀婚式に参列、その間、幾多の製造工場を視察。
1903年(明治36)、「実業世界 太平洋」(1巻10号 178頁)博文館発行に自転車の銘柄 金日本、銀日本 城邊河岸 梶野合名会社とある
1904 年(明治37)、日露戦争が始まり、従軍して酒保を命ぜられる その後、韓国城津で雑貨店を開く。
1905年(明治38)、高島町の工場の管理を総て甥の松本次郎吉に任せる。仁之助自身は多角的経営にのり出す。
1907年(明治40)、このころが梶野自転車の最盛期であり、職工も40人程いた。東京勧業博覧会に自転車部品であるボール(鋼球)を出品する。
1911年(明治44)、「帝國輪商案内」に高島町五に松本友次郎とある。(松本次郎吉との関係は未調査)
1913年(大正2)、支配人である甥の松本次郎吉、高島町の工場を飛び出す (仁之助の後妻との間の感情的もつれから)他の使用人も次々に辞めて行く。
1916年(大正5)、 自転車製造を中止する。高島町の工場は閉鎖し売却される。
「日本輪界名鑑」に横浜市新明町229、松本次郎吉の自転車店あり。
1921年(大正10)、梶野式特許傘を考案し、実用新案特許の登録を得る。
1923年(大正12)、 ボール箱製造業 横浜市高島町4-8
関東大震災にあい、娘婿の梶野徳二郎を失う。これを機に総ての商業活動から身を引く。
1927年(昭和2)、横浜の地をはなれ、東京都大田区千鳥町76番地に新居を構え、隠居生活に入る。
1942年(昭和17)8月9日、千鳥町76番地の自宅で逝去。行年87歳であった。戒名は寶亀院仁徳清照居士、菩提寺は光明山東福寺(通称赤門)横浜市西区。