2022年3月2日水曜日

自転車関係資料-88

 自転車関係資料-88

この資料は以前にも紹介した「旅とサイクリスト」1972年(昭和47年)5月号である。

当研究会の発足時(1981年6月1日)の顧問であった高橋 勇氏が投稿した記事があったので、その全文を以下に紹介する。

のっきり車 日本の自転車史

自転車100年を迎えて

明治32~39年期

堺と名古屋に自転車工場が

 堺市に、自転車工業が始まったのが明治三二年で、宮田製銃所のように、同じく鉄砲鍛冶の自転車修理所が、修理用部品への生産へと移行し、前田二郎という人が始めた。

 また名古屋にも、時を同じく、岡本松造(のちのノーリツ)が、自転車部品の製造を始めたのもこの明治三二年の一八九九年とされています。

 また堺市で、自転車の賃貸し(レンターサイクルの創り)を業としたのが始まり、北川清吉および斉木幸三の双輪商店だとの記録があり、当時一時間の料金は30銭~50銭と、かなり高額のようでした。

 明治33年(一九〇〇年)歌舞伎座に、日本最初のサーカスが出演され、シートブラックという外人による曲芸師が、自転車による曲乗りを行って大好評を博し、以来日本のサーカスには、自転車の曲乗りが常設される因をつくったと言われています。

UCI誕生

 一方海外ではこの年に、フランス・イギリス・アメリカ・ベルギー・ドイツ・イタリア・スイス・デンマークの8カ国によって、国際サイクリスト連合(UCI)が、パリに設立され、毎年加盟国の都市で、世界選手権大会が開催されることになりました。

 でも第一次および第二次世界大戦中は、やはり開催されていません。

日米商店とゼブラ号

 日米商店が竹河岸から銀座に進出した明治三十四年には、東京浅草聖天町で高橋長吉氏が英国製の自転車を検討した結果、英国製センター型の自転車の試作をした。

 高橋長吉氏は慶応三年十一月に千葉県湊町の鳥海家に生れたが、後に高橋家を継いで高橋姓を名乗り、明治二十五年浅草区聖天町に移り当時隆盛をきわめた人力車の製造を始めた人です。

 高橋氏は将来必ず自転車の需要が盛んになるとの確信をもたれ、明治三十五年”ゼブラ自転車製作所”を設立され、個人経営で自転車製造を開始し、”ゼブラ号”、”プライム号”のマークで発売した。

三田四国町でレンタ業

 高橋長吉氏が自転車の試作に成功したその年の明治三十四年、三田四国町で外国車による貸自転車業を営んでいた東洋商会が新たに工場を設けて自転車製造にのり出しこの東洋商会は明治三十年頃から貸自転車業を開業しており、松下常吉氏、幸作氏の父子が経営したいものです。

 この東洋商会の隣りに小林作太郎という人が住んでいたが、この人は芝浦機械(現在の東芝)に勤務する洋行帰りの技師で、この小林氏から松下氏が自転車製造についての技術の指導を受けたということです。

東洋商会の自転車のマークは”東洋号”、”ルビー号”、”ヒーロー号”の名称で、"ハジメ号”という車を販売したがこれはかなり後年になってからであった。

折畳車の試作

 一方………明治三十四年、宮田製銃所では、米式クリブランド103号。の設計に着手し、同年三月に三台を完成して、これまでの英式から米式に移行しています。

 そして翌年の三十五年に宮田製作所と社名を改め、三十六年には陸軍技術委員部自転車要綱調査委員会から、品質優秀の折紙をつけられ、この年、斥候用折畳車の依頼を受けて試作を行っているが、重量の点で残念ながら試作に止まったとの記録があります。

 しかし、別途に軍用としての自転車を四百台納入をし、一説によると日露戦争のときの常陸丸には宮田製の軍用自転車が積まれ、海戦の華として散ったということです。

有名ブランド「ラージ」

 明治二十八年、日米商店は、自転車を米国から輸入していたのですが、横浜の商館から、ラージ自転車を二十四台仕入れ、始めて販売しました。

 これは英国の自転車が多量生産時代に入って、米国を圧倒する勢いをみせ、一方ではすでに明治三十五年に日英同盟が成り、日英両国間の親善の色が次第に明るさを増していたことも理由の一つであったと思われます。

 そして試販してみたところ、評判がよいので、岡崎久次郎氏は、英車の直輸入を考え明治三十九年に英国に渡っています。

 日露戦争終結直後のシベリア鉄道経由で英国に着いた岡崎氏は、ラージ自転車本社と契約を結び、東洋の代理店の権利を獲得したのですが、当時の契約は、年間三千台を直取引するというものだった由です。銀座の店には、”直輸入日米商店”という看板を掲げ、人目を引きました。

 間もなく日米商店は銀座三丁目から二丁目に移り、次いで明治四十年の暮れには、三十間堀りに転じ、年間数千台を販売、数十万円の利益を収め、これが数年も続きました。

上野の地で全国レース

 日米商店の代理店でラージ号を販売していた弘前双輪商会の店員で佐藤彦吉氏が、全国自転車競争 (上野池の周囲で行われた)に優勝したのもこの頃であったといわれています。

 この佐藤彦吉氏は、後年選手をやめて、日米商会に入り、各地の支店を経て、最後に大日本自転車会社の創立を計り、やがて同社の取締役になった人です。

 もっともこの大日本自転車会社が、現在の大日本機械工業㈱の母体となったのですが、この大日本自転車会社は、大正三年に欧州戦乱が勃発し、このため英国における自転車製造が途絶したのを契機に国産振興運動に乗り出した岡崎久次郎氏が、大量生産による優良品の生産を企図して、大正五年本所業平橋に工場を設け創立したものです。

 初め資本金五十万円であったのですが、財界実業界の猛者を擁して、数千万円の大会社の陣容を張ったということです。

ピアス号・ラレー号が入荷

 日米商店がラージ号を取扱ったその翌年の明治三十九年、横浜の石川商会が営業満期を迎えましたので、これを機会に、山口佐助氏がその事業を継承して、資本金七万円の合資会社丸石商会を創立し、石川商会から、丸石商会への移籍が行われ、米国製のピアス号、英国製のトライアンフ号、ラレー号など舶来自転車の輸入と国内販売に積極的に攻勢に転じたのもこの頃であったといわれています。

 合資会社丸石商会が、改組して株式会社丸石商会となったのは、これより後年の第一次世界大戦が四年目を迎えた大正七年でこの時資本金を一躍二百万円としました。

 この頃、時代の変遷とともに、部分品の販売がいんしんを極わめましたが、同社がダイヤモンドチェンやフィッシャーボールの輸入買付けを開始したのもこの時期なのです。

 また山口佐助氏は二回にわたって海外に渡航し、一方第一次世界大戦を契機として国内自転車工業は従来の手工業技術に拠ったものから、次第に近代的産業としての発展の基礎を確立していったのですが、丸石商会が自転車の製造に乗り出したのもこの時期で、大正九年にダンロップ会社と合弁で、日英自転車製造株式会社を創設し、ここで売り出されたのが、”プリミヤ号”であったのです。

アラヤ・高木鉄工の創業

 明治三十七年、新家熊吉氏が木製リムを製作し、横浜の商会に売り込んだとの記録があり、今日のアラヤリムの創始でもあります。

 またこの二年後、堺市において、リムの生産が高木幸太郎氏、次いで田中恒次郎氏が創りはじめ、神戸のグリヤ商会が、初めてダンロップタイヤを輸入して、販売したのもこの明治三十九年の記録があります。

 そして同じく明治三十九年に九州日報の主催で、九州一周1000マイル競走の自転車競争が行われ、当時の実況写真が、画報近代百年史に掲載されています。

明治40年代

 一九〇七年(明治四〇年)に、自動車の取締令が公布され、郡部で10マイル、市街地で、8マイルという速度制限が定められたのですが、この年にやはり堺市で、山本伊太郎氏と福瀬富三郎氏がコースターを、和田繁造氏がハブというように、部品の国産化が進み、この年の四月上野公園で東京勧業博覧会が開催され、国産自転車が入賞し品質が相当に向上した記録が残っています。

自転車第一号の輸出

 そして自転車関係の輸入は増え、最高記録を明治四十一年に樹立。でもこの年に、上海の雑貨商の土井伊八氏によって、宮田自転車が3台、始めて船積みをされ、日本での輸出の実績をあげた、記念されるべき年でもありました。

 そして翌年の四十二年には、百貨店での配達サービスに、東京三越百貨店が白塗りのX型フレームの自転車を使用、また松屋も相次いで自転車による配達サービスを実施し、当時としてはかなりの人気を呼んだとのことです。

日本の自転車史100年

フェスティバル開催についてお願い!

 今年はご存知の通り、明治五年東京の諸税収納台帳に、自転車一両という文字があり、それまで、一人車とか、のっきり車などと呼ばれていたのが、このころ、自転車という名称になり、今日にいたっているようでございます。

 日本の自転車史100年といえるのですが、この機に、城東輪業社の寺島社長がフランスから、一八〇〇年代のいわゆる古代の自転車を、約五〇台ほど購入され、現在日本への船に積まれ、間もなく横浜港に到着いたします。

 この古代の自転車 (ダルマ型や、後輪が四角というものなど……)を一人でも多くの人々に見ていただくようにと、まず大阪の大丸百貨店で、六月一日より上記のフェスティバルに、そしてできれば、京都・神戸・東京の各大丸での公開とプランが進んでおりますが、この展示に、従来の鑑札がないでしょうか、との話が出ました。

 私達もこれほどに、古きものへの興味がと知っておれば、自転車の鑑札なども残しておいたのですが、つい粗末にしたようです。

 で、まことにご迷惑なお願いでございますが、お手許に鑑札または、古代自転車のパーツ写真や古文書などで、参考品的な品がございましたら、ぜひ貸与またはお譲りいただきたい。

 数量的には多くは要りませんが、各地の珍しい鑑札をと、よろしくお願い申しあげます。

 送料など、負担させていただきます。また、この展示会が終了いたしましても、堺市のマエダ工業の美原工場に、自転車の史料室を造っておられますので、お許しがあれば、展示させていただけますれば、幸いでございます。

 以上なにかと、よろしくご協力のほどお願い申しあげます。

大阪市南区上本町筋2-12

ナショナルサイクルセンター

高橋 勇

36頁、37頁

38頁

「旅とサイクリスト」1972年5月号
表紙

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