自轉車 第9号 - 1
快進社 明治34年4月1日発行
口絵 東西曲乗家、ピーアイ会員、石川商會米國支店員、同商店神戸支店
自転車百話(其7)
奥州轉輪記
女子嗜輪會に臨みて
自轉車乗として吾人の眼に映したる北米の道路と我道路の比較
遠乘會の午餐に就て
日本自転車史研究会のブログ Copyright © Yukio Ootsu
自轉車 第9号 - 1
快進社 明治34年4月1日発行
「ホイール」誌 - 8
サイクリング・トレード・レビュー
第2巻 第1号
ニューヨーク、1888年8月31日
キング・オブ・ザ・ロード・サイクルランプの広告(一部抜粋)
今はサイクリングに最も楽しい季節だ。しかし、夜は早く訪れ、9月の涼しい夜には、明るい光を放つ良質なランプがなければ、サイクリングを楽しむことはできない。
キング・オブ・ザ・ロードに匹敵するランプはない。
激しい競争にもかかわらず、有名なキング・オブ・ザ・ロード・サイクルランプは優位性を保ち、世界中のすべてのサイクリストから、最高のランプであると評されている。
その優秀さは、徹底した職人技による製造方法、最高級の錫のみの使用、すべての部品がしっかりとリベット留めされていること、ホイールへの取り付けやすさ、大きなオイル保持能力、揺らぎにくい輝きと安定性、そして以下の改良点。
米国総代理店 クラークサイクル社 メリーランド州ボルチモア
自轉車瓦版 第39号
昭和60年6月24日発行
☆(前号からのつづき) “BSA”
かくして自転車の生産計画はスタートした。当面200台の自転車の組立てが決まり、この評判を見て、更に生産計画は拡大されることになった。兵器メーカーの作った自転車と言えば、 ロイアル・エンフィールドがそうであるし、我国でも宮田製作所がその代表的な例である。製品の品質は街工場の自転車メーカーに比べて、格段の差があったと言われている。材料ひとつを取上げても、銃器の生産によって得たノウハウが大きくモノを言ったのである。BSAの自転車生産は、数年の内に1000台を記録していた。企業化は軌道に乗り自転車メーカーとしてのBSAの名は次第に知られるようになっていった。しかし、BSAの首脳陣は自転車生産に見切りをつけ、 1888年にはこの分野からの撤退を決定するのである。次にBSAが自転車を手がけるのは、5年後の1893年のことである。この時は完成車の組立てには手を出さず、部品の供給メーカーとしての再スタートであった。
(”クラッシックMCファンダム”第21号、1980.8.1 日本二輪史研究会より)
自轉車瓦版 第38号
昭和60年6月24日発行
★前号からのつづき "BSA"、
BSAはこの当時、バーミンガムのSmall Heathに大エ場を建設する準備を着々と進めていた。手始めに工場用地が確保され、実に10万平方メートル(101.170m²)にも及ぶ用地の買収を終えていたのである。兵器メーカーとしてスタートしたBSAは、国家の保護の元に生産設備を拡張し大規模兵器会社へと発展を続けていた。領土拡張を狙い、貪欲に利権をあさる当時のイギリス国家にとって、兵器の生産は目的達成への不可欠の要素だったのである。この時代のイギリスは、1882年11月のアフガニスタンへの侵略戦争。翌年1月に勃発したズール戦争(英軍のズールランドへの侵入)などに見られるように、世界各地で侵略戦争に明けくれており、大量の武器弾薬を必要としていた。BSAにとっては企業拡大のまたとないチャンスだったわけである。しかし、こうした状況もそれほど長くは続かなかった。1880年頃には戦争も一段落を見せ、兵器の需要は次第に頭打ちとなりはじめていた。この1880年という年は、BSAにとって、記憶せねばならない年とあった。同社のトレードマークであり、白転車のエンブレムともなった、“三丁の小銃”のマークが、この年正式に採用されることになったのである。
兵器生産の停滞に直面したBSAの首脳陣は、新しい分野への進出を計って、積極的に多角経営に乗り出す決意を固めていた。発明家のE.Otto氏は、自身の考案した自転車をたずさえてBSAに乗込み、首脳陣を前に、この自転車のデモンストレーションをして見せたのである。結果は大成功だった。もともと新い事業を模索していたBSAは、この自転車生産に多大の期 待をかけることになった。自転車が当時有望な商品であったのはもちろんであるが、兵器メーカーであるBSAにとって、従来の生産設備の流用が可能である点も、大きな魅力のひとつであった。(次号につづく)
「ホイール」誌 - 7
サイクリング・トレード・レビュー
第2巻 第1号
ニューヨーク、1888年8月31日
クアドラント三輪車の広告
三輪車にクアドラントという名前がつくと、確かに多くの意味がある。
それは、すぐに「他とは一線を画すだけでなく、明らかに優れた」マシンである。大きなハンドル、主軸上の延長されたブリッジ、この軸に2つ以上のベアリングの使用、そして継ぎ目のない完全に剛性の高いフレームといった重要な特徴で流行を先導した。それは長年にわたり、完璧な職人技と誠実な素材、つまり満足のいく三輪車の保証を伴った名前である。
クアドラント・タンデム No. 15
1888年6月19日、ボルチモアで開催されたL.A.W.ミートレースの2マイルオープンハンディキャップ優勝。史上最速かつ最高のヒルクライムタンデム。
クアドラント三輪車 No.8。紳士専用。
1888年6月19日、ボルチモアで開催されたL.A.W. 1マイル選手権優勝。2分38秒で1マイルを走破。
クアドラント三輪車 No.14。女性用
全体的に軽量設計で、特に女性の使用に適している。また、軽装の男性にも適している。
イギリスで最近行われた軍事演習では、すべての自転車メーカーが、自転車の軍事用途への適応性を証明するために、有能なライダーを乗せた自転車を派遣し、部隊を編成するよう招待された。90台の自転車が強行軍に参加しましたが、完走したのはわずか15台であった。
最初に到着したのは8番のクアドラント三輪車で、セーフティ三輪車とオーディナリー三輪車をすべて打ち負かした。他のメーカーの三輪車はどれも完走できなかった。
クラーク・サイクル・カンパニー
メリーランド州ボルチモア、ハノーバー通り2番地と4番地
ワシントン支店、ペンシルベニア通り908番地
自轉車瓦版 第37号
昭和60年6月24日発行
★メーカー事始シリーズ NO.2 "BSA”
BSAという名前を知ったのは1965年頃である。あるスーパーマーケットの自転車置場で婦人用のBSAを見たのに始まる。始めのうちはその自転車を見て、なんと汚らしい地味な自転車と思った。しかし、まわりに置いてある自転車と比べると、なにか趣きが感じられた。サドルバックは、既に弾力はなく、後のマッドガードにへばりついている状態でかなり使い古された自転車であった。それから数年後、忘れかけていたBSAの思いがまたまた現われたのである。 そこで、なんとかこの自転車を手に入れようと、あちこちの自転車店を尋ね歩いた。遠いところは、電話で問い合わせBSAがあるかどうか確認した。しかし、すべて 無いという返事ばかりであった。それも当然である。 BSAは既に過去の自転車であったからだ。 ところが、浜松のシクロサロン戸塚という自転店にBSAがあるという情報を得た。そこで、はるばる 同店を尋ねた。「BSAがあるということを聴いて来ました。 もしあれば譲って欲しい」すると店主は「あれは売る訳には行かない私が長年親しんできた自転車だから」結果はある程度、予想されていたが、むなしさだけが残った。
今はBSAを欲しいという気持ちは全くなくなった。それは、戦前の国産車に興味の対象が移ってしまったからである。
BSAは、1692年、ウィリアムⅢ世の時代のイギリス・バーミンガムで鉄砲鍛治により創設されたのが、B・S・A (Birmingham Small Arms Company)の始まりであった。もっとも創立当時の呼名は、BSAではなく、この名称が正式に使われるようになるのは、1861年からのことである。(次号につづく)
註、The Birmingham Small Arms Company Limited、1861年、バーミンガムのGun Quarterにて創業。
「ホイール」誌 - 6
サイクリング・トレード・レビュー
第2巻 第1号
ニューヨーク、1888年8月31日
ニューラピッド・ダルマ自転車の広告
最高級のマシンに不可欠なすべての改良部品を搭載。
折れないトゥルータンジェントスポーク、座屈しない厚底中空リム、緩まない中空取り外し可能ハンドルバー、最高級の溶接なしの鋼管製のバックボーンとフォーク、時計のような精度で作られたボールベアリング。
ロードスター重量、40ポンド(すべて込み):ハンドルとサドルは選択可能。
ライトロードスター重量、36ポンド(すべて込み):ハンドルとサドルは選択可能。
クラーク・サイクル・カンパニー
メリーランド州ボルチモア、ハノーバー通り2番地と4番地
ワシントン支店、ペンシルベニア通り908番地