自轉車 第9号 - 6
快進社 明治34年4月1日発行
以下は拾い読み、
奥州轉輪記
那珂通世
今年二月下旬、文部省より栃木福島宮城三縣學校視察の爲出張を命ぜられ、三月三日を以て雙輪を轉じて、自宅を出發せり。
余は、奥州の生まれなれば、奥州街道は、明治の初に幾度も往返したれども、近年に至りては、汽車の便にのみ依れるが故に、都邑宿驛の盛衰、道路田野の變遷等、委しく観察すべき機會を得ざりしが、此度は、學校視察の序に、途上の風光を貪り見るも亦一興なりと思ひ、かくて轉輪旅行を擇びたるなり。 轉輪旅行の旅装と云へば、鳥打帽に半ヅボンと定まれる様なれども、余は諸學校臨視の命を受け居れば、かかる略装をなし難し。山高帽に、上下揃へる洋服を着て、鐡の足輸を以てヅボンの裾をくくりたるは、殆ど平日出校の装に異ならず。唯白シャツとカラーとは、いかにも疾走に便ならざれば、これは風呂敷に包みて手荷物とし、チョッキの下にフラネルのシャッ三枚、ヅボンの下に股引二枚をはき、外套を用いず、襟巻を巻かず、腰にピストルを帯び、 手に皮の手袋をはめて、これにて奥州山野の寒風氷雪にも畏れざる覺悟なり。先年岐蘇路播州路北陸道などを巡遊せし時は、手荷物の重さ一貫目に近く、・・・・
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