2022年5月28日土曜日

自転車関係資料-104

 自転車関係資料-104

この資料は、日本自転車史研究会が発足(1981年6月1日)して、間もない頃に大阪の高橋さんから送られてきたもの。高橋さんの店の広告(同封の切り抜き)にも当研究会発足のことが触れられている。

「アンチック自転車」高橋 勇著 全30頁(財)自転車産業振興協会 1978年3月発行

以下に解説部分を抜粋、

解説

自転車

だれが、自転車を考え、発明したのか?

 自転車は世界の中でだれが考え、そして原形をつくったのか、実はイギリス・ドイツ・フランス・ソ連と各国が、発明の本家争いをいまもなお続けていて、まだほんとうの決着がついていないのです。

 5000年以上の昔から”自分の力で、地上を自由に走り回りたい”という夢の上に、地球上で「人間のりものの第1号」として誕生をした自転車なのですが、どんな形になったのを”自転車”として認めるのか、という定義も必要かも知れませんし、自転車の愛好家にとってはロマンへの夢であるとも言えそうです。

 卓抜な才能・偉大な天才としての有名なレオナルド・ダビンチ(1452年~1519年)が、自転車と縁の深いチェーンの図を残していることは、早くから知られていましたが、1965年に発見された、アトランティコの遺稿の中に、自転車のそれもチェーンのついた図が発見され、大さわぎになりましたが、スケッチが幼稚なところから、真偽が疑われています。

 ともあれ、自転車の原形は1790年に、フランスの貴族ド・シヴラック伯爵が、前後輪を支え上に乗って、両脚で地面をけって走る全木製自転車を発明したという記録が、かなり有力でした。ところが1976年に発行されたCYCLISME MAGAZINE誌にJacques SARAYという人が発表した論文で、ド・シヴラック伯爵はこのころの実在しない人物であったという、ショッキングな証明がなされ、フランスの誇りとして、100年以上も信じられてきたものが、フランス人自身によって否定されることになったのです。

 でも、この両脚で、地面をける木馬は、人類の長年の夢と願いでもある、地上を自由に走り回る動物に、やっと追いつくことができた乗りものとして、直線しか走れないこの木馬が拍手かっさいを浴びたことは想像にかたくない事実でした。

 そして動物に追いついた喜びと感激は、木馬の頭にライオンとか馬・蛇・犬といった動物がマスコットになったことでも、おわかりいただけることでしょう。

 この直線しか走れない自転車の元祖に、ハンドルが考え出されました。この人がドイツ人のドライス男爵で1813年といわれています。そして発明者の名をとってドライジーネと名づけられました。

 写真術の父ニエプスは、ウォーターロー戦後の1816年にドライジーネと同じような自転車を発明したといわれていますが、はっきりしたことは分っていません。

地上から足の離れた自転車

 1839年イギリスの鍛冶屋マクミランが最初のペダル駆動式の自転車を発明し、運転する人の足が地面から離れて走れたという、まことに意味の深い発明でしたが、残念ながら目方が重いために、あまり使われませんでした。

 次に1861年、パリ市の馬車製造業ミショーが前輪の軸に、ロータリークランクをつけ、ペダルで駆動をする装置を発明しました(ミショー工場の機械工ランマンが本当の発明者だったのに認められなかったので、アメリカに渡って同国の特許をとったといわれています)

 このミショー型は、フランスではベロシペードと呼ばれ盛んな評判をとり、1861年には2台を試作したのが、翌年には142台そして65年には400台も作られた記録があります。

 このミショーの車は、英国ではボーンシェーカーと呼ばれ(骨のすり)名のとおり、余り乗り心地はよくなかったようです。でもこのミショーの発明によって、自転車量産のはじまりとなり、明治開国のころ、わが国にもこの型の自転車が入っていたようです。

 ボーンシェーカーはいろいろな改良がされ、1868年にはパリ市で世界最初の自転車競走も行われました。

1870年ごろ オーディナリー ペニー・ファージング(英国) ダルマ車(日本)

 地面をけって走っていたその足が離れ、やっと乗りものらしい姿になったとたんに、速く走りたいという人間の欲望は、クランクの付いた前輪を大きくするという、一回転でもより遠くに走る知恵が、30インチ、50インチと次第に大きく60インチのオーディナリーまで生れたという記録が残っています。

 木製のスポーク・リムに鉄のタイヤを巻いたこのオーディナリーは明治の初期に、日本にも持ち込まれ、人々を驚かしました。そしてイギリスでは、1872年に1ペニーと、1/4ペニー銅貨が発行され、この大きさの対比がよく似ていたことから、ペニー・ファージングと呼ばれました。そして日本ではダルマ車というニックネームがつけられました。オーディナリーは最も普及をした車でもあり、また改良車も数え切れませんし、当時の話題も豊富で、1886 年(明治19年)この車でアメリカのトーマス、スチーブンスという青年が、前輪50インチのダルマ車で世界一周自転車旅行を試み、12 月17日に横浜に到着したという、自転車旅行第一号の記録が残っています。

日本の自転車

 ガタクリ車、一人車、のっきり車、一輪半、自在車・ふんころばし、

 さて、日本での歴史的な一号は、いつ、どこで、誰が、どんな型の、どうしてという五つのHに答える資料が、残念ながらありません。

 これまでの編年辞典や年表などで、1870年(明治3年)に、佐藤アイザックという人が、アメリカから輸入をした自転車がさいしょ、と書かれているのですが、同じ年の大阪編年史の大阪府令に「八月五日自転車行人の妨害少なからざるにつき、途上運転を禁ず」という条文が残されていまして、自転車という文字もそのままで、雑誌や記録に出てくる方言的な名称の、のっきり車とか一人車、自在車といったものではなく、自転車と明確に記されていますので、もっとさかのぼるものと考えられるのです。

 ともあれ四民の斬髪脱刀勝手たるべしの法令が1871年(明治4年)ですし、廃刀令は1876年(明治9年)と考え合せてきますと、丁髷げに帯刀の武士のそばを、木の輪にタイヤを巻いた自転車が、ガラゴロと音を立て、すれちがう光景が見られたことでしょう。

 明治12年の法令に、ガラゴロガラゴロの騒音防止で、自転車乗用規制のご詮議中、というものや、夜分に走る自転車に、うしろにさげるちょうちんを、前に付けるよう要望……などの、まことにほほえましい記事に、当時の風俗姿を想い出させるものがありますし、同じ年に神田佐久間町の秋葉の原に、自転車屋が開業し、線香一本燃える時間を金二錢也として繁昌したとあり、今日で言うレンタサイクル第一号でもありましょう。

 江戸時代には、馬車を禁じられ、侍以外は馬に乗ることも許されなかったのですから、自転車の発明や、その発展の歴史が欧米諸国によってなされたのは、やむを得ないことでもあったようです。

 明治30年の”新聞資料明治話題辞典”によりますと、妙齢の娘に、どんな男性のところにお嫁に行きたいかとの問に、”将来、自転車と電話が持てる人”と答えたとあり、当時の自転車のあこがれを現す一文でありましょう。

自転車のテクノロジー

 「サイエンス」(1973年5月日本版・日本経済新聞社)に、S・ウイルソン氏は”自転車の発達とテクノロジー”と題し、次のように述べています。

 「自転車は、構造的・機械的に非常に効率のよいものであり、人間を運ぶために大量生産された最初の機械である。その発達の途上で採用されたボールベアリング、空気タイヤ、管構造などの技術は自動車や航空機に受け継がれており、近代技術への貢献は計り知れない。」

 わが国には約4500万台の自転車が保有されており、これは一世帯あたり1.35台と換算できます。これほど見慣れ、使い慣れ、身近な乗りものは他にないと思います。

 それだけに、われわれは、自転車が近代技術の発展において果してきた役割をほとんど忘れてしまっているのではないでしょうか。

 人間が一定距離をうごくときの消費量は1㎞、0.75カロリー/グラムといわれますが、自転車の助けがあれば五分の一に減少します。これは自転車が人間工学的に最適設計となるように発展してきたためです。

 ある意味では発達しすぎた世界に生きる現代人は、自転車という、材料も工ネルギー源も少なくてすみ、公害の発生も伴わない乗りものを見なおすためにも、まだ不完全な発展の足跡を仔細に研究してみたいものです。

註、最近の自転車史から見ると多少疑問な個所もあるが、これは1970年代の最新の情報と認識であったはずである。

表紙

表紙の裏に挟まれていた広告

目次

10頁

11頁

奥付に著者の略歴が貼付