2022年5月2日月曜日

自転車関係資料-98

 自転車関係資料-98

現、株式会社スギノエンジニアリング の二代目にあたる杉野貞雄氏が書いた資料が出てきたので参考までに紹介する。

この本の一部を抜粋、

「自転車の話」杉野貞雄 著 昭和2年6月20日発行 杉野鉄工所


杉野貞雄氏は本校機械科卒業以来自轉車製造にして約十年計り没頭せられて居ますが今回本
著の原稿を示されましたので直ちに筆を執って内容索引に代へ個條書きして序文といたしました。
一、自轉車の各部は此頃やかましい規格の統一上最も其の必要を痛感する適例であると云ふ事が出版の根源と思ひます。
一、今日迄内外を通じて自轉車に関する良い著書が極めて少ないと云ふ事も一つの動機であります。
一、 本書の内容は平易で且つ学理をも合せて親切に記述されて居る事は何より結構と思ひます。
一、 本書は氏の経験を骨子として書かれたもので極めて適切で其の要を得て居られます。尚ほ次篇には自轉車の「フレーム」の構造、回轉部分に及び終りに電気メッキの一般まで書かれる筈であると云ふ事が親切な仕方と思ひます。
一、 一般卸商人は申すに及ばず修繕に従事される人は進んで本書を熟読なされば便益が非常に多からうと存じます。

昭和弐年六月
大阪市立都島工業學校長 杉田  稔 識

はしがき
一定の規準なくして製作さる物は魂なき人間に等しく何等価値の存在を認めざるなり。故に予は我等の製作する自轉車にも魂ある規準正しきものを造られん事を望む。然るに未だ我国には統一せる規格なく偶々嘗て全国自轉車業組合聯合大会に於いて諸氏の批判を乞はんとせしも大阪案として提出を許されず廃案の悲境に遭ひ其の賛否を得る能はざりしは甚だ遺憾とする所なり。
併し来るべき日諸氏の賛同を得る自信を以て努力を重ね此処に其の一端を発表して「自轉車の話」を刊行す。 幸に諸氏の忌憚なき御批判を得ば幸甚なり。
尚終りに臨んで今回の愚挙に対し御多忙なる製造家諸氏の熱烈な御同情御指導を賜りたることを深く感謝す。
昭和貳年六月
著者 識

目次
一、自轉車の沿革・・・・・・・・1頁
二、自轉車の構造・・・・・・・・4頁

一、クランクシャフトに就いて・・4頁
二、クランクピンに就て・・・・・5頁
三、チェンに就て・・・・・・・・6頁
四、ギャクランクに就て・・・・・12頁
五、 ペタルに就て・・・・・・・・17頁
六、ネジ山角度に就て・・・・・・19頁

一、自轉車の沿革
自轉車と云ふ名称は千八百七十年頃よりの呼称であると推定されますが自轉車 (CYCLE) は希臘語の (KUKXOS) ククロス (輪) と云ふのが語源となって居ります、 そこで自轉車の類似のものとしては紀元前千五百年(即ち今より約三千五百年前) 古代文明の源であるエジプトのバビロンの時代に既にあったので、有名なポンペーの壁画に歴然と書かれてあります。故に尤も確實な証左とする事が出来ます。
紀元後は十六世紀迄記録がありませぬ、それは西暦一六九五年の仏国雑誌「カリッジ」に掲載されてありますが一六六六年仏国の医師でロッシエルのエリーリチャルト氏によつて発明されました、其れは第一図の様な今から考へると誠に児戯に等しい様な幼稚なもので、木製の輪に太い木を固く接合してその木に跨って足で地上を蹴って飛び廻ったもので名称はホッピーホース (HOPPY-HORSE) と云つて現在英国の博物館に保存されてあります。
次に西暦一七六六年仏国ダブリン学校教授が四輪車を発明しその改良したものを一七七九年路易十六世メリーアントネフトの面前で試乗して非常に賞賛を博したと云ふ記録があります、一八一六年同じく巴里の写真の元祖でニュピース氏がセレリーピースと称する二輪車を発明されました。

一八五五年巴里でエルンストミンショウと云ふ十三歳の少年がクランクとベタルを発明致しました、 元来此少年の父は鍛冶屋で父が常に使用する回轉砥石のハンドルから思付いたと云ふ事です、次で一八六五年改良を加へ第二図のベロシピード (VELOCIPEDE) と云ふ車が出来まして漸く実用に供せられる様になったのです、 此名称の訳は飛脚車と云ふのでありまして未だ此時代には自轉車の名称はありませんでした、千八百六十八年項英国コベントリ市の一ミシン会社の技師トーナー氏が仏国から此ペロンピードを取寄せまして製作にかかりましたが英国では非常に斬新で便利なものとして推奨されました、同市がそれ以来今日隆盛な基を為したものと云ふ事が出来ます。

この車の輪は木製で今のタイャーの代りに鋼鉄を巻き付けてサドルは木の上に薄い皮を張ってありました、車体はスプリングの長い平たいもので鋼鉄板と鉄棒とに依って作られてありまして迚も重いものであります、此時代に前後して米国に於ても旺に製作されまして一八七〇年には五十の自轉車学校が出来、 二ヶ月に三百人の卒業生を出して居ります。

一八六九年頃、巴里で前車輪六〇吋後輪十八吋と云ふ前車輪の突飛に大きい奇妙なものが出来ました、米国ではこれをスターマシン第三図 (Star Machin)と云ひましたがこれは日本に来てダルマと称しました、明治三十四五年頃名古屋では旺に小僧車として使用されましたが金輪で騒々しい事をいたら名古屋名物の一つでありました。

一八七五年に英国の牧師チャレス氏が発明されました手動式と云ふものがあります、三輪車で腰掛て両手でバーを動かしてスタンドの様なもので地上を蹴るので一時間二十二哩と云ふ快速力を出したのでありまして、足の不具な人等に賞賛されたとの事です。
それから一八七八年頃米国ボストン市及びハートフォート市で前導式の安全車が出来ました、その年に前後して英国サセックス州オスボン市の機械師ゼームススターレー氏が初めて後導チェン式の丸ゴム輪、股柱、球受の現代式のものが発明されました。 (第四図) 此人は尤も輪界に著名な人で一八八三年六月故人になりました、遺骸は生前因縁深きコベントリー市に埋葬され尚氏の銅像が同地に建てられて居ます。先年名古屋の岡本氏が渡英の際この銅像の写真を持ち帰られたとの事です。
一八八八年ブルファストの獣医ダンロップ氏が空気入のタイャーを発明した。
其の後一八九三年にダンロップ会社が設立されました。同氏は前記スターレー氏と共に輪界の二大恩人としても過賞でありますまい。

我国では明治十四年米国から矢野次郎、中村泰興、 市村市左衛門氏の清壮年諸氏が輸入せられまして旺にハイカラ宣伝をせられました、明治十九年にスチーブンス氏が初めて自轉車で世界一周を完成し日本へも来朝したとの事です。又その頃現今の著名の劇作家松居松翁氏が著作した自転車の一小冊子があります。俳優左団次は毎日明治座に自轉車を利用して出勤して居るとか人力車と自轉車とドチラガ早いか等と云ふ面白い奇問奇答がありました。その後明治廿九年には自轉車倶楽部が出来き競争会が各地に盛んになり東京も不忍池等に時々開催されまして三十年頃より内地で弗々製造も創り三十五年には東京、名古屋に於て稍大規模の製造会社が設立せられました。今日では全国至る所に製造工場があり有力な事業と認められる様に成りました。(青木氏稿より)

昭和貳年六月十五日印刷
昭和貳年六月二十日發行
杉野鐵工所發行

註、この記事を読むとかなり首をかしげたくなるような部分もあるが、これが当時の自転車の歴史認識であることを思えば致し方無い。
杉野鉄工所は、明治43年9月創業の老舗である。現在の会社所在地は奈良県奈良市東九条町であるが当時は大阪市東区清堀町にあった。

表紙

序とまえがき

目次

自転車の沿革


奥付