2020年7月19日日曜日

国産クラッシック自転車

先般、サイクリングの途中、ある自転車店の前を通過しました。
店の奥の方に何やら古い自転車があるのを一瞬認めました。
自転車で行きすぎましたが、気になりその店に戻りました。
ちょうど店のご主人がいましたので、店の中を見せてもらいました。
思った通り、昭和30年代の自転車が数台ありました。
機関銃印の自転車をはじめ、日米富士自転車株式会社、山口自転車のスマートレディ、マルエー号、ヒドリ号など。
ちょっとした国産クラッシック自転車の資料館を連想しました。
この自転車店は昭和10年ごろに営業を開始したとのことです。

ヒドリ号
ヒドリ自転車製作所

山口自転車 スマートレディと マルエー号

天井に下げられたRYUKA CYCLE
のフレーム
平塚市早川商店

暁号
日本スヰフト株式会社の機関銃印自轉車

日米富士自転車株式会社の自転車

風切り

龍華のチェーンケースに変えられている
このケースはオリジナルではない


2020年7月18日土曜日

銀輪部隊

1941年(昭和16)7月28日
サイゴン(仏印南部)に進駐する銀輪部隊
出典:写真週報 昭和16年8月13日発行 第181号


2020年7月17日金曜日

フランク・レンツ、日本の文化を体感

1892年(明治25)11月18日、アメリカ人のフランク・レンツは自転車世界一周旅行で日本を訪れている。
横浜に着いたレンツは、日本の名所旧跡を観光。横浜の近郊では、鎌倉の大仏、長谷観音、江の島の岩屋などを見学している。
日本の文化にも触れ、畳の生活や驚愕的であった混浴なども体験する。
「おはよう」とか「さよなら」など簡単な日本語も覚える。
その後、彼は横浜を経ち東海道を西に向かって旅を続ける。箱根では、自身は歩き、自転車は駕籠舁きを雇い担がせて箱根路を越えている。

彼の自転車はビークター号でアメリカのオバーマン・ホイール株式会社製、独特なスプリング・フォーク(ロッキングビーム)を取り付けた自転車であつた。
ビクター号は、明治26年頃、福沢桃介や和田義睦も愛用していた自転車である。
梶野自転車店も当時の新聞広告を載せている。(明治26年2月26日、毎日新聞)


レンツは、その後も順調に旅を続け、富士山など美しい日本の風景を堪能しながら長崎に向かっている。
その後の足取りは、長崎→上海→ビルマ→印度と順調であったが、1894年5月にトルコのエルズルム県を旅行中、強盗に襲われ殺害されてしまう。
享年27歳の若さであった。

出典:The Lost Cyclist: The Untold Story of Frank Lenz's Ill-fated Around-the-world Journey  David V. Herlihy、114頁

明治25年11月19日付け、東京朝日新聞、自転車世界漫遊者の渡来


スキリル号

戦後間(昭和25年ごろ)もない時期に発売された東洋ハブのスキリル号、特徴はプレスフレーム。当時としては斬新なデザインであった。

スキリル号

出典:わが国自転車のデザインとその変遷、鳥山新一『工芸ニュース』23 巻 5 号(1955年5月発行)


2020年7月11日土曜日

大日本自転車株式会社

大日本自転車株式会社について、昨日照会があり、
少しまとめてみました。

大日本自転車株式会社の概略

1916年(大正5)12月に創業した大日本自転車株式会社は、日米商店の関連会社として主に国産ラーヂの生産を始めた。
第一次世界大戦でイギリスのラーヂ自転車の輸入が激減したことによる。

その後、大日本自転車株式会社は東京の業平工場を建設して操業を始めたが4か月足らずで工場、事務所が全焼。しかし2か月後には復旧させた。
自転車部品の中で一番工作が難しいといわれていたチェーンの製造を1917年に開始。そして同年には主力となるDNB製ケント号発売。さらにリムやタイヤの生産も始める。
1937年に会社名を大日本機械工業株式会社に改称。
戦時中の業平工場は軍需工場となり、戦後は松下電器産業(株)と共同で光自転車(株)を設立させた。
1972年には富士自動車と合併し、ゼノア(株)になり、大日本機械工業株式会社の名前は歴史の舞台から消えることになる。

大日本自転車株式会社の略年史は、下記のとおり。

1899年(明治32)11月 岡崎久次郎、日米商店を創業。
1901年(明治34)10月 米国製レロイ自転車を販売。
1906年(明治39)1月 店主渡英、ラーヂ自転車の直輸入契約を締結。
1916年(大正5)12月 大日本自転車株式会社創立。国産ラーヂ自転車の生産が目的。
1917年(大正6)2月  業平工場、試運転開始。
1917年(大正6)7月 工場・事務所を全焼。8月末同復旧。
1917年(大正6)11月 チェーンの製作開始。
1919年(大正8)5月  DNB製ケント号発売。
1919年(大正8)8月  リムを生産。日米リム発売。
1919年(大正8)12月  東洋護謨㈱を買収。鬼タイヤなどを生産。
1931年(昭和6)6月  低価格実用車「鬼号」を発売。
1937年(昭和12)9月  大日本機械工業株式会社に改称。
1938年(昭和13)12月  業平工場、軍需工場に指定。
1945年(昭和20)8月  終戦により関係会社運営停止。
1946年(昭和21)7月  商号を旧商号「株式会社日米商店」に変更。
1952年(昭和27)4月、ナショナル自転車工業(株)設立。
1961年(昭和36)11月、大日本機械工業(株)と松下電器産業(株)により光自転車(株)を共同設立。
1971年(昭和46)ナショナル自転車が旧光自転車(株)製造部門を継承。
1972年(昭和47)4月、富士自動車と大日本機械工業(株)合併。昭和48年1月ゼノア→昭和54年10月小松ゼノアと改称。 

銘柄、
大日本自転車(東京市京橋区)、愛日号、鬼号、ケント号、富士号、富士スポーツ号、富士宣傳号、富士覇王号、ラージ号、リーフ号
大日本機械工業(台東区)ダヌーブ号、光号、光日本号、鳳鳴号、DNB号、経済光号
大日本機械工業名古屋工場(名古屋市)、 光来号、DNB大日号、光風号

冨士自轉車(大日本自轉車株式會社)
の広告
1933年5月16日 官報
国会図書館所蔵

2020年7月5日日曜日

元町百段

明治後期から大正初期の横浜手彩色写真葉書の何枚かに自転車が映し出されている。
特に、この元町百段は当時の観光名所として人気があり数多くの絵葉書が残されている。
現在、この元町百段は無い。関東大震災で崩落し、消滅している。

中央にハイカラなサイクリストが見える

雑貨屋の前に少年と自転車

上と同じ写真葉書、彩色違い

雑貨屋の前に自転車の後輪らしきものが見える

前田橋から百段を望む
人力車、大八車、自転車が見える
自転車の男性は和服姿

元町百段のあった位置
Googleマップより


2020年7月3日金曜日

大正3年の日記より

先日、知人の山崎さんのFacebookに伯父さんの夏休日記が掲載された。
その日記は大正3年7月に書かれたもので、当時の文章としては読みやすい。
この日記は、師範学校に在籍していた山崎喜久丸さんが夏休みの課題の一つとして書いたもの。年齢は19歳、なかなかの達筆である。
この日記の中に自転車の記述がないか調べてもらったところ、すぐに返事が来て、その部分のコピーをFacebookにUPしてくれた。
この時代、自転車はまだ高価で、どこの家でも所有するほどに至っていない。
当時の統計を見るとおよそ全国で50万台ほどである。ようやく輸入車から宮田自転車などの国産化が軌道にのりはじめた時期である。
第一次世界大戦が始まり、輸入が激減したことも影響している。
自転車は、まだ一般家庭にそれほど普及していない時代であった。それに当時は自転車税も納めなければならない。納税すると、それを証明する木製鑑札がハンドル部等についていたはずである。
日記の内容は叔父の病気の急変を知らせるために山北から神縄の家に自転車で向かった様子が書かれいる。途中の酒匂川河畔の景色の描写も詩的に書かれていて、素晴らしい。
なお安戸隧道も大正2年に完成しているから、おそらく喜久丸さんは、この新しいトンネルを通行したに違いない。完成間もない近代的なトンネルであった。
当時、まだ山北には自転車店はなく、現在ある井山自転車店も昭和初期からの開業である。おそらく松田町の鍵和田自転車店が営業していたかと思われる。鍵和田自転車は大正5年発行の日本輪界名鑑に出ている。
自転車の価格は、1919年(大正8)で1台、45~60円であった。現在の価格だと概算で30万円ぐらいである。
まだ、自転車は高嶺の花の時代であった。


7月17日付けに自転車の記述あり

安戸隧道 大正2年完成

井山自転車店 昭和初期に開業