この新聞記事のことは、たびたび述べていますが、少し整理したいと思います。
記事の内容は次のとおりです。
1876年(明治9) 3月5日 花の都女新聞
下谷広小路の山本と云える水茶屋にて三輪の自転車を貸しますが広小路を一辺乗廻す賃は一銭五厘だと申します
下谷広小路は、現在の台東区上野3丁目で、いまは上野広小路と呼ばれています。松坂屋から上野公園入口あたりです。このあたりは江戸時代から寛永寺と不忍池を中心に栄えた場所で、料理茶屋、水茶屋、出会茶屋、芝居茶屋などの歓楽街を形成していました。水茶屋はいまでいう喫茶店のようなものです。貸し自転車業までやるほどですから、山本という水茶屋は大きな店を構えていたと思われます。
なぜ三輪車の自転車なのでしょうか。そして三輪車はどのような形なのでしょうか。この頃は、自転車とは一般的に三輪車のことでした。なぜなら明治10年以前にミショー型自転車は、日本に存在しなかったか、あったとしても横浜居留地に住む外国人が持ち込んでいた程度で、その数は数台だったと思います。しかし、今のところミショー型自転車が横浜に存在したという具体的資料はありません。水茶屋の貸し自転車は三輪車なのです。
それでは、この三輪車の形はどうなのでしょうか。当時の錦絵に描かれた三輪車を見ますとどれもラントン型です。現在見るような子供用の三輪車のタイプはありませんでした。このような三輪車が現れるのは、明治20年代に入ってからです。ですからここで言う三輪車は国産のラントン型の可能性があります。挿絵がないのが残念です。
賃料の一銭五厘が、現在の貨幣価値からしてどのくらいなのか分かりませんが、一般庶民大衆を相手の商売ですから、500円以下ではないでしょうか。米の値段から換算しますと、米1表(60キロ)が明治9年ごろですと1円18銭ですから10キロ20銭になります。現在のお米の値段が10キロ4,000円ぐらいですから1銭は200円になります。そうすると300円ぐらいでしょうか。