2025年6月4日水曜日

スティーブンスの日本旅行記 最終回

 スティーブンスの日本旅行記 最終回

壮麗な松林を抜け、酒匂川へと続く急なジグザグ道を下っていく。この辺りは絵のように美しく、左手には深い渓谷を小さな渓流が流れ、対岸には山々がそびえ立ち、ところどころに数百フィートの高さから流れ落ちる滝が点在している。

午後1時までに、湯元に到着し、人力車道が再開した。昼食には焼き魚と地元ビール一本を飲み、三島からの人足を解雇した。湯元からの道は、海岸沿いの人口約1万3千人の町、小田原まで4マイルで、緩やかな下り坂となっている。道は平坦になり、これまでよりも広くなった。馬車が人力車や歩行者の群れに混じって走っている。馬も馬車の御者も、眠たげで、不注意な様子であった。

男たちが、現在急速に進んでいる東海道鉄道建設用の資材を積んだ頑丈な手押し車を曳いている。道の至る所に活気が溢れている。湯元から30マイルほどのところに、居心地の良い宿屋があった。そこの人々は、外国人の要望をすぐに理解している様子で、玉ねぎ入りのビーフステーキを調理してくれた。しかし朝には、東海道沿いで初めて法外な金額を請求してきた。戸塚町は横浜の条約圏内にある。横浜方面に1マイルほど行ったところで、「ホワイトホース・タバーン」 の店を通り過ぎる。そこは、横浜市、あるいは東京から車でやってくる外国人のための一種の「ロードハウス」として、ヨーロッパ風に改装されている。

南から吹き付ける強風が、戸塚から横浜までの東海道最後の11マイルを、私を吹き飛ばすように運んでくれる。確かに、岡部の暴風雨以来、風は概ね順調だったが、今朝はヒューヒューと音を立てている。そしてカンザスの自転車乗りを思い出させる。彼はかつてコートの裾を風に広げ、ローレンスからカンザスシティまで3時間で走破したと主張していた。残念ながら私はコートを着ているが、それを帆として使うことはできない。もしそうでなければ世界一周旅行の最終段階で、最もユニークな出来事の一つが起こったかもしれない。

神奈川の街路で、ドイツを離れて以来最も精鋭な野砲の砲台(神奈川台場)に遭遇した。そこは横浜への道が東海道から分岐する地点だった。京都から東京までの東海道は、さらに17マイル先の新都心まで続いていた。東京と神奈川を結ぶ鉄道が開通して以来、東京から東海道を通って神奈川へ向かう旅人は、通常、汽車で神奈川まで行くため、人力車の旅は神奈川から始まる。

神奈川は事実上、横浜の郊外と言えるだろう。ここにある日本人所有の時計は8時、11時、そして3つ目の時計は9時半を指していたが、横浜堤防沿いのクラブホテルにある時計はイギリス人所有のもので、まさに10時を告げようとしている。それは、私がこれまで幾多の国を旅してきたダルマ自転車のサドルから最後に下車する時である。自転車世界一周旅行は、1884年4月22日にカリフォルニア州サンフランシスコで始まり、1886年12月17日に横浜で終わる。

この港で太平洋郵便汽船「シティ・オブ・ペキン」に乗船し、17日後にサンフランシスコに到着する。サンフランシスコやその他の場所で船員の方々からいただいた熱烈な歓迎について、今ここで長々と語るのは控えたい。

3年間にわたり、「自転車世界一周」の物語がこのアウティング誌に掲載されてきた。多くの読者にとって、毎月、これほど長く、定期的に掲載されてきたこの記事は、この雑誌の見慣れた特集となっている。どんなに長い道にも曲がり角があり、どんなに長い旅と物語にも終わりは訪れる。この旅の物語を締めくくるにあたり、著者は、OUTINGの読者に楽しいひとときを提供するというこの旅の目的が、無駄にならなかったことを切望している。


243頁

小田原
国際日本文化研究センターDB

東海道 戸塚
国際日本文化研究センターDB

神奈川台場
横浜開港資料館

シティ・オブ・ペキン
ウィキペディア

同上