2025年8月7日木曜日

「自轉車瓦版」 第15号

 「自轉車瓦版」 第15号  

昭和60年5月7日発行

☆にせ物注意!会報「自轉車」第16号の「情報あれこれ」で磐城市内の骨董屋で売られているダルマ自転車の話しがあったが、先日、福島の真船氏からの情報によると、どうやらこのダルマ自転車は模造品ではないか、とのこと。と言うのは月刊のサイクルスポーツ誌、昭和51年4月号に「いま買える珍車」として、オーディナリーが出ている記事を見つけたからである。この複製のダルマ自転車はなんでもイギリスの小さな工場で作ったものを大阪のサイクルショップ「トモダ」が当時輸入販売していたもの。オール鉄製で、ちょっとみたところ、いかにも本物と言った感じである。前輪の直径は1280ミリ、総重量は25~26キロ、この時の値段は28万円であった。このダルマ自転車と磐城の骨董屋で売られていたものとがうりふたつとのことだ。磐城のダルマは確か48万円で売られていた。当時トモダが「何台輸入したか分からないが、そのうちの一台ではないだろうか。いまにこのような模造品がオリジナルとして売られることになるだろう。そうなると我々自転車史を研究するものにとって、このことは今後重要な意味をもつことになる。ニセ物と本物を見きわめる目を持たなければならない。

サイクルスポーツ誌
昭和51年4月号の記事

同上

2025年8月6日水曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-31

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-31

谷の斜面は、通り抜けられないほどの竹藪に縁取られている。ここから見る富士山は、壮大で不思議な光景である。風が強まり、円錐形の山頂は吹雪の雲にほとんど隠れており、遠くから見ると、まるで火山の噴煙と見間違えるようである。すぐ近くでは、風の精霊が竹の茂みを通り抜け、無数の霜で乾いた竹をこすり合わせ、独特のざわめき音を立てている。山の精霊のささやきである。

峠の頂上に到達すると、東海道は見事な松林の中を通り、酒匂川の谷へと続く急なジグザグの道を下って行く。この地域は極めて絵のように美しく、左手には小さな渓流が深い渓谷を流れ、反対側には山々がそびえ立ち、ところどころに数百フィートの高さから流れ落ちる滝が点在している。

午後1時までに湯本に到着し、人力車道が再開した。昼食には焼き魚と地元ビールを1本飲み、駕籠人足たちを解雇した。湯本からの道は、海岸沿いの人口約1万3000人の町、小田原まで4マイルにわたって緩やかな下り坂とる。道は平坦になり、これまでよりも広い。馬車が人力車や歩行者の群れに混じる。馬も馬車の御者も、まるで場違いな意識に圧倒されているかのようだった。

男たちが頑丈な手押し車を曳いており、東海道鉄道の建設資材を積んでいる。鉄道は急速に延長している。道のいたるところに活気が溢れている。日本の興味深い光景だ。湯本から30マイル、戸塚には居心地の良い宿屋があり、そこでは外国人の要求をすぐに理解してくれ、玉葱入りのビーフステーキを調理し、朝には東海道で初めて法外な料金を請求してきた。

戸塚は横浜の条約圏内にある。朝、横浜に向かって1マイルほど行ったところで、「ホワイトホース・タバーン」を通り過ぎる。そこは、横浜、あるいは東京から人力車でやって来る外国人のための宿屋として、ヨーロッパ風に建てられている。

南から吹く激しい風が、戸塚から横浜までの東海道の最後の11マイルを、私を吹き飛ばすように吹いていた。


471

東海道小田原宿 幕末期
フェリーチェ・ベアト撮影

戸塚 幕末期
フェリーチェ・ベアト撮影

2025年8月5日火曜日

サンライト

 サンライト

先日、片野自転車店からサンライトのガラス製灰皿の写真が届く。

おそらくこの灰皿は景品かなにかで、小売店に販売店の三輝工業から送られてきたものである。

サンライトの景品用灰皿
写真提供:片野自転車店

註、サンライトについて
三輝工業は1950年代にあった日本の二輪車販売会社で、特に「サンライト」ブランドで知られていた。製造は群馬県伊勢崎市の板垣株式会社で、三輝工業はその販売を担当。
1960年代初頭、板垣株式会社の経営悪化により、三輝工業も整理され、サンライトブランドは消滅した。富士重工業による再建も試みられましたが、最終的には1963年に廃業した。

 主な製品、
「サンライト」ブランドで販売された製品は多岐にわたっているが、特に有名なのは以下の通り。
サンライトSMR22型
サンライト キングモーペッドC1型
サンライト クインモーペット
サンライト ロイヤル

創業者の板垣清平について
明治35年3月5日生まれ
群馬県伊勢崎市、前橋中学校卒、(株)板垣清平商店取締役社長、板垣株式会社取締役社長、三輝工業株式会社取締役社長、趣味は絵画、家族は、妻と三男二女。
(群馬年鑑 昭和35年版)


「日本小型自動車変遷史」
 オートバイ・スクーター・モペット・軽三、四輪車編
1960年発行
国会図書館所蔵資料

2025年8月4日月曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-30

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-30

彼は自分が非常に重要な人物であると感じているかのように振る舞い、観客に勝者の名前を告げる。

この東海道に於いてダルマ自転車で走行できない唯一の区間は、有名な箱根峠であり、この三島から始まる。そこは16マイルにわたって、険しい岩だらけの道が続く。三島の駕籠かき人足は、箱根峠を越えて物資や乗客を運ぶことで生計を立てている。ダルマ自転車を運ぶ男を数人雇い、肌寒い天候は、駕籠に乗るよりも彼らの後を歩いて行くことである。この道は荷馬車が通れるほど広く、間違いなく軍事輸送を目的として建設されたものである。長く急な坂道は、人や馬のすり減った草鞋で文字通り敷き詰められている。

箱根峠の高台から眺める景色は実に美しく、雄大な富士山の白い頂きが、まるで支配するように、すべてを見下ろしている。山中集落の近くには、「富士見平」(富士を眺める台地)と呼ばれる有名な場所がある。箱根の村と湖へと続く南斜面の広い石畳の道には、大きな杉並木が日陰を作っている。

箱根は非常に美しく興味深い地域で、現在では東京と横浜に住むヨーロッパ人のお気に入りの夏のリゾート地となっている。横浜から芦ノ湖まではわずか80キロほどで、人力車と駕籠を使えば1日で行くことができる。湖は実に魅力的な小さな水域で、まるで山の宝石のようである。澄み切った水晶のような深みに、周囲の松に覆われた斜面が映り、まるで鏡のようである。日本神話は、国の歴史が始まった頃、辺り一面が茂みや道のない森で、この地域を超自然的な存在で満たしていた。

1868年の明治維新でこれらの古い封建的な慣習がすべて廃止されるまで、ここの東海道は「関所」の一つで遮断されており、通行手形なしでは誰もそこを通り抜けることができなかった。これらの関所は封建領地の境界に設置されており、通常、旅人が他に選択肢のない地点にある。

箱根村から少し離れた東海道には、見事な杉並木が日陰を作っている。左手には大きな政府の保養所がある。それは、現在の天皇の進歩的で啓蒙的な政策を雄弁に物語る壮麗で近代的な建物の一つである。道はその後、急な山を登って行く。


471

箱根宿 明治期 
箱根町立郷土資料館 

箱根杉並木と籠 
国際日本文化研究センター

箱根離宮 
神奈川県立恩賜箱根公園

2025年8月3日日曜日

ルジュンのカタログ

 ルジュンのカタログ

以下はルジュンのカタログの一部、

1975年10月号

このカタログは子供車、女性用、タンデムなど全車種が掲載されている。

1950年代から1980年代にかけて、ツール・ド・フランスなどのレースでも活躍した名門ブランド。

ルジュン(Lejeune)サイクルは、プジョーやモトベカン、ジタン、メルシェなどと並ぶフランスの自転車黄金期を支えた。


表紙

10頁

11頁


☆以前に所有していた3級品のルジュン・ロードレーサー

1974年8月27日に金沢文庫の
木下サイクルスポーツで購入したルジュン

リアデイレーラー、カンパレコード 鉄


構成パーツは以下の通り、
●タイヤ、WOLBER "SPECIAL COURSES"
●リム、Super Champion Competition 36穴 27×1/8
●スポーク、不明
●ハブ、カンパ・レコード L-36H
●ブレーキ、MAFAC "RACER" 
●ハンドルバー、PIVO
●ステム、PIVO 外径22ミリ、突き出し90ミリ
●フロント及びリアデイレーラー、カンパレコード 鉄
●フレーム、3角のみ、REYNOLDS 531 プレーン菅
●インフレーター、REG
●インフレーター・ホルダー 不明
●シートピラー、不明、鉄製の安物 26.2ミリ
●サドル、不明、安物、イタリア製?
●チェーンホイール、TA 52-42
●ペダル、レオタード
●トゥークリップ、PATURVD
●ストラップ、Lejeune
●チェーン、SEDIS
●フリー、シクロ 72 14-22
以上 

2025年8月2日土曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-29

スティーブンスの日本旅行記 パート2-29

 私の宿の近くの板張りの囲いの中で、12人の力士が入場料2銭を払った群衆を前に相撲の興行を行っている。日本の力士は、長年の慣習によって一般社会から隔離された独自の階級、あるいは身分を形成しており、同業者の娘以外との結婚には偏見を持っている。力士の階級には常に最も勇ましい筋肉質な男が居るため、この排他性と身体的に劣る者との混血がないので、まるで別の人種であるかのように区別された人々が形成されている。日本の力士は、同胞の平均よりも頭一つ分背が高く、体重は2倍ほど重い。彼らは、時折提唱されてきたマルサスの計画によって人類の身体的改良において何が達成されるかを示す興味深い例となっている。

12フィートの土俵で、屈強なアスリートたちが制覇を目指し、持てる力と技のすべてを注ぎ込む。裸一貫で、褐色の体の筋肉が不規則に隆起し、彼らは互いに投げ合う。侍の紋章が入った完璧な灰色の衣装をまとった威厳のある行司が傍らに立ち、漆塗り軍配を振りかざし、威厳のある声で勝敗を決する。

力士たちは土俵の周りにしゃがみ込み、寒さに震えながら、行司に呼ばれるまでじっと座っている。呼ばれた二人は、柱に吊るされた塩の入った籠から塩を一つかみ取り、互いに撒く。そして土俵に進み出て、さらに素足で地面を踏み鳴らし、優れた筋力を見せつけるように相手に挑戦する。軍配を持った行司からの指示で、力士たちは激しく突進し、相撲を始める。これは通常、30秒も経たないうちに、どちらかが決定的な勝利を収める。行司は二人を土俵から下がらせ、姿勢を正し、傲慢な表情を浮かべている。


469頁

力士

2025年8月1日金曜日

ピアスのカタログ

 ピアスのカタログ

以下はピアスのカタログ、1898年( 明治31年)

ジョージ・N・ピアース社

はじめに
1897年の記録は終了。1898年への期待は高まっている。
1897年は、現代の自転車をアメリカ国民の公認の乗り物にした。
1898年は何をもたらすのか?
ジョージ・N・ピアース社を代表して、1897年の教訓を心に留め、今年は以下の明確な前進を提案する。
第一に、信頼性が高く、頑丈で、速く、美しい自転車を誰もが入手できる価格設定とする。
第二に、構造は最高水準で、最高の素材のみを使用。
第三に、メカニズムは、当社とライダーの経験によってテストされ、最高であると判明したすべての重要なポイントを組み合わせる。
第四に、外観は、すでに獲得した羨望の的となる評判を踏襲し、さらにいくつかの重要な美しさを加える。
これらの4つの基本方針を達成するために、以下の変更を行う。
第一に、当社の価格は以下のとおり
レギュラーサイクル:50ドル
エアクッションフレームサイクル:65ドル
スペシャルサイクル:75ドル
オールラウンドレーサー:75ドル
トラックレーサー:100ドル
タンデム:100ドル
女性用
第二に、当社のフレームはすべてフラッシュジョイントで作られている。この構造は、過去1年間で剛性、強度、そして信頼性の高さが実証されている。
当社のエアクッションフレームは、自転車構造の完璧さへの明確な進歩を示している。
第三に、当社のクランクとシャフトは2つの部品で構成されており、ベアリングはシンプルでしっかりと保護されており、コーンは調整が簡単で、特に走行のしやすさが向上している。
当社のモデルでは、自転車の用途に合わせて、安全な走行範囲内で、クランクを様々な高さに調整している。スプロケットはより大きく、より少ない労力でより大きなパワーを得ることができ、摩擦を最小限に抑えている。
当社のブレーキはヘッド内に配置されているため、構造的に強固で、外観もすっきりしている。
第四に、当社の自転車のラインは、最高の実用性と最も美しい結果を兼ね備えるように設備されている。仕上げはエナメルとニッケルである。当社が提供する機器は、偶然の、手間のかかる装飾を使わずに得られる最高水準を代表するものとして、すべての人にアピールする。
当社の自転車は、昔ながらの「実績のある」ものである。
1897年、ピアスサイクルは「飛躍的に」人気を博した。
当社のレーサーは多くの歴史的なイベントで先頭を走り、2つの全国選手権(14マイルと1マイル)で優勝した。・・・・

ピアス・カタログ 1898年( 明治31年)
日本自転車史研究会コピー所蔵
以下同じ

2 、3頁

4、5頁

6、7頁

8、9頁

10、11頁

12、13頁

14、15頁

16頁

註、石川商会とピアス自転車、
石川商会は、1900年(明治33年)頃にピアス号を取り扱っており、当時の宣伝ポスターなども残されている。このピアス号は、アメリカ製の高級自転車で、石川商会が日本に紹介したことで注目を集めた。
ピアス号は日本の自転車産業の発展に一役買っていたと云える。

石川商会の略歴、
創業者の石川賢治は、1859年(安政6)に山形県西村山郡河北町に生まれる。
明治14年に慶応義塾に入学し福沢精神を学ぶ。
明治19年、単身アメリカへ渡り、貿易実務を精力的に研鑽して帰国。
明治27年、石川商会を設立。横浜とカナダのトロント市に店舗を構える。
明治33年、米国とカナダから自転車や写真機などを輸入販売。自転車の主な銘柄はピアス、アイバンホー、スネルなど。その後、順調に会社は成長発展し、営業拠点も神戸など5店舗になる。
明治41年、石川賢治社主が病気となり、更に営業の不振が続いたため解散。
明治42年3月、石川商会の元社員らと山口佐助が事業を継承し、合資会社丸石商会を設立させる。