出宮順一関連
下は、出宮順一関連の資料、
寫眞は丁抹(デンマーク)オルドラップ議技場に於げる編者とわが自練車競技界のホープ出宮順一君(岡山縣)
「自転車運動綱要」日本自転車聯盟 編
目黒書店 昭和13年発行
国会図書館所蔵資料
註、 出宮順一(でみや じゅんいち)
1917年 – 1945年6月
岡山県の旧玉島町(現・倉敷市)出身
出宮順一は世界情勢が閉塞感を強める中、1930年代初頭から主にロードレースで台頭した選手で、実家の自転車店を手伝いながら競技を続けていた。1935年には当時のアマチュア日本選手権においてロードレースと1万メートルのスプリントで優勝し、その実力が認められる。翌1936年、ベルリンオリンピック日本代表選手に選出され、開会式には参加したものの、役員の登録ミスでレースには出場できなかった。
オリンピック出場が叶わなかった約3ヵ月後、結果的に日本人選手として、オリンピックも含めて初めて自転車競技の世界大会出場となった、スイスのチューリッヒとベルンで開催された世界選手権自転車競技大会に、石塚隆春、村上二三九、困見辰夫の3人とともに参加した。スクラッチおよび145kmロードレース(いずれもアマチュア部門)に出場し、ロードレースにおいて7位に入る健闘を見せた。この結果について、世界選手権のロードレースにおいて、プロ・アマ通じて現在でも日本人選手の最高順位である。
その後、第二次世界大戦が始まると陸軍に召集されて出征。1937年の日中戦争勃発を機に「オリンピックはやめるべき」との声が高まり、1938年には日本がオリンピックを返上、東京大会(1940年)は中止となる。スポーツは兵士を育成するための軍事訓練の場となり、出宮は獲得したトロフィーを兵器転用のために徴収されてしまったと云われる。
1941年に太平洋戦争が始まると、出宮は1943年に召集され南方の戦地へ赴いた。自動車などが進めない密林や山岳地帯で物資を自転車で運び、偵察や伝令を行う「銀輪部隊」に配属され、旧ビルマ(現ミャンマー)に送り込まれた。そして1945年6月、旧ビルマにて戦死した。
