『随筆 志賀先生の台所』
註、福田蘭童の『随筆 志賀先生の台所』では、志賀直哉の日常生活が細やかに描かれている。その中でも、自転車は志賀の質素で合理的な生活ぶりを象徴するものの一つであった。
志賀直哉は自転車を若い頃から親しみ、奈良や東京でもよく乗っていた。
志賀直哉は自転車を若い頃から親しみ、奈良や東京でもよく乗っていた。
外出や散歩の代わりに自転車を利用し、近所への用事や知人宅への訪問にも乗って出かけた。
そして、自転車の曲乗りも得意としていた。
そして、自転車の曲乗りも得意としていた。
「志賀先生の台所」
福田蘭童 著
1977年発行
国会図書館所蔵資料
志賀先生は、自転車のハンドルをにぎってひらりとまたがり坂上へと前進した。見事な発進ぶりであった。青年のように颯爽たるうしろ姿であった。白ヒゲにあれだけのエネルギーがなぜあるのだろうか、と感心して拍手した。
・・・どうだい。この腕を、この脚力を・・・
と誇張したかったのか、先生はハンドルから両手をはなしてみせた。曲乗りのつもりなのだろう
・・・こんどは逆行だぞ、よく見ておけよ・・・
と、言わんばかりに、両足で自転車をとめて逆行の姿勢をとった。サーカスの曲乗りを夢見たにちがいない。
志賀先生は、しっかりとハンドルをにぎり、ペタルを逆に踏んだ。カラカラという音がした。空まわりの音だ。競輪や曲乗り専用の自転車のようにギヤーとペタルが固定していないから、後退の歯止めは役立たぬ。
坂道だったから、あれよあれよと思う間に、自転車はずるずると後退して小川へと近づいてゆくではないか。・・・
