正田門弥の「千里行車」
はじめに
門弥の「陸舩車」 については本庄市を中心に日本最古の自転車として注目され、模型まで製作している。いまでは地域の町おこしに一役買っている。
以前、久平次の「陸奔舟車」とこの「陸舩車」とどちらが日本最古の自転車なのかと一部の研究者によって議論されたこともあった。
私は以前からどちらが最古でも日本最初でもそのようなことはあまり関心がなかった。このような事は日本に限らず世界でもまた新たな資料が発見されれば、これが最古の自転車であるという一過性のニュースが出るからである。
今回の論旨はこの模型にあるような構造の乗り物が「陸舩車」 なのかという疑問からはじまっている。
なぜならこれから紹介する資料で少し具体的な構造が垣間見えるからである。たしかに完全にこの構造であるという確証はないが、現在ある模型の再考は必要になると思っている。
ここではその構造を含め一切推測による解釈はしないことにした。
ただ客観的にこのような当時の資料があるというだけでとどめたいと思っている。
しかし、それではあまり話が面白くないので、ある程度の推論は述べてみたい。
名前について
すでに気づかれた人もいるかと思うが、正田門弥の苗字が違っている「庄田門弥」だ、と云われるだろう。
名称は大事なことなのでなるべく資料の年代の古いものから確定したいと思っている。最近では確かに「庄田門弥」が一般的であり、本庄市もこの名前を使っている。
だが大正以前の資料を見るとどれもが「正田門弥」である。
門弥は農民であったため苗字帯刀が許されていたかは調べていないが、恐らく〇〇村の門弥であったはずである。ただし、千里行車を製作するような環境にあったと云う事は唯の百姓ではなかったはずで、鍛冶屋のような職人と思われる。或いは資産家なのかも知れない。何れにしてもただの農民ではない。
「正田門弥」の名前にこだわるのは「陸奔舟車」がいつのまにか「陸舟奔車」にかわっているからで、いまではこの名称が定説になってしまっている。やはり平石久平次時光が命名した「陸奔舟車」にすべきである。
ここではなるべく古い資料を尊重して「正田門弥」とした。
それと「陸舩車」という名称は他にもあり紛らわしいので、ここでは「千里行車」とする。
これも当時の資料があり、「千里行車」とも書いている。
資料で探る千里行車
まず紹介したいのは明治34年10月20日発行の雑誌「考古界」第1編第5号に投稿した山縣昌蔵氏の記事である。
「千里行車の話」山縣昌蔵 「考古界」36頁~39頁
既に山縣氏は明治期に「千里行車」を研究していた。
「・・・・人類巧智の極度、殆ど思料なしがたし、されど自動車とはいひ、自轉車といふも、その構造を比較窮究したらむには、既往百七十三年前、
乃ち享保十四年、 我邦人が工夫せる。千里行車と相類す・・・・或は自働自轉車の先例遺物として、今日外人に誇示するに足りしなるべし。」
と云っている。
ここではなるべく当時の原書に当たることにした。
そこで当時の「月堂見聞集」と「世説海談」をそれぞれ見ていく。
「月堂見聞集」の原書を国立公文書館で探したが、門弥について書かれている巻二十一が抜けていて見ることが出来なかった。従って以下の書籍を参考にした。
「月堂見聞集」、(近世風俗見聞集
苐二 (国書刊行会刊行書) 1912年を参照)では、
〇千里行車、一名舟車図あり、武州兒玉郡若泉庄小堀村正田門彌、當酉の年六十一歳の由、子供三人あり、
但し車輪四つ七尺廻り、ぜんまい仕かけ、両足にてふみ出し候へば丈四尺程行也、曲祿の如くにして、是は乗りかづの上に仕かけ有之候、川抔は此車を首にかけて渡る、凡そ一日に二百里程行申候、但し山川は参り不申平地也、右五六年の間工夫練磨して出来仕候、今度御城へ上り申候よし、巳上。
註、小堀村とは北堀村のことか?
〇江戸より参候舟車の図、
一・船桐木、惣黒塗、長さ九尺程高さ三尺、取木有、惣板ばり、眞中箱あり、此内に仕かけ有、乗木二所にあり、前の車の輸二つ共に、廻り五尺程厚さ八分、しん木ともにまわる、後の輪二つともにしん木廻らず、廻り四尺程厚さ八分、幕晒木綿紺白打交、船の下の方左右にかじとり有、
◎図は下の如し
西九新御番野呂市郎右衛門知行所、武州兒玉郡小堀村門彌と申百姓、舟車を工み出し候段、密達上聞、御内々にて御小姓山本秋右衛門を以被仰付、致出来、當四月三日倅善兵衞致持参候、近日乗り申を見分在之筈にて、右善兵衛當分神田鍛冶町に罷在候、右陸舟車、一時に七里程づつ走り申候、坂は荷ひ上り申候、
すこし分かりにくいので、以下に簡単に箇条書きする。
一、この名前は、千里行車、一名舟車。
一、製作者は、武州兒玉郡若泉庄小堀村の正田門彌(61歳)、子供が3人いる。
一、千里行車は四輪車で長さ9尺(2.7m)まわりの大きさ。ゼンマイ仕掛けである。両足で踏み込むと4尺(約1m)ほど進む。形状は大きな椅子のようで上に仕掛けがある。
川を渡る時は車を首にかけて渡る。(綱を使い首にかけて曳く?)
凡そ一日に二百里(約800㎞?、誇張と思われる)走る。但しこれは山や川を除く平地での移動距離である。
これを製作するのに5,6年かかった。
今度は江戸城へ行きこの千里行車をお披露目する。
「世説海談」にも図面と同様の内容で書かれている。
下の原書資料を参照。
これらの資料を読むと、かなり具体的に書いてあるが側面図がないのと、箱の中は依然ブラックボックスである。
少し推論をはさむと形は小型ボートで横から見ると椅子がおいてあるように見える。この椅子の足元にある踏板を交互に踏み込む。この踏板と箱の中にある歯車が連動していて車輪を回転させる仕組みと思われる。ゼンマイ仕掛けは、踏板を元の位置に戻す際に使われたバネ(或いはラチェット方式か)であろう。
しかし、相変らず箱の中の肝心な駆動構造は分からない。
この千里行車の核心部分が隠されている。
あえて門弥は秘してこの駆動装置を公開しないようにしたはずである。
後は興味ある人がさらに詳しく調べ、具体的な構造を追求していただければと思う。
あわりに
現在、本庄市にある模型の再構築が必要であり、安易とは云わないまでに竹田興行師のカラクリ「陸舩車」 と合体したような構造ではないことは確かである。ゼンマイ仕掛けであったと云う事も忘れられている。足元の二つの踏板(乗木)を交互に踏むことによって駆動したはずである。運転者は立った状態で横の左右にある二つの梶取りを両手で持って操縦したと思われる。駆動装置の入った箱は疲れた時の椅子代わりになったかも知れない。
この正田門弥の千里行車(陸舩車)の特徴を挙げると、
一、形状は桐材を使用した木製のボート型で4輪車。一人乗り。本体のサイズは長さ2.8mで、高さは50㎝程、梶棒の高さまでは90㎝)、車体の色は墨色。
二、駆動方式は足踏み式(戻りバネ付き)で箱の中の歯車を回し、車輪を回転させる前輪駆動である。後輪は操舵輪。(詳細は不明)
三、方向転換は車体の下部左右に梶取ステーがあり、後輪車軸が少し前後に動く。後輪は遊び車であり、車軸は回転しない。(梶棒から鉄のステーか紐で後輪車軸に繋がつている)
四、さらに幕晒木綿紺白打交とあるが、用途は不明。或いは幌に利用か。
五、名称は、千里行車(一般的には舟車或いは陸舩車)、欧米風に云えば「門弥のヴェロシペード」。
六、製作者は、武州兒玉郡若泉庄小堀村の正田門彌(61歳)。
七、製作年代は、1729年(享保14年)。
以上である
あとは皆さんの卓越した推論にお任せしたい。
参考資料
参考文献
月堂見聞集 29巻 本島知辰 著 元禄10年-享保19年
近世風俗見聞集
苐二 (国書刊行会刊行書) 1912年
考古界 1(5) 考古学会 1901-10
彦根藩士「人力自走車」創製の記録 大須賀和美 1983年
資料館研究紀要 第4号 平成20年3月 埼玉県本庄市歴史民俗資料館
2023年6月24日 日本自転車史研究会 編集