陸奔車の中川 説(一部修正版)
「陸奔車」で思い出すのは、確か昭和初期に新聞に掲載され、話題を呼んだ中川泉三氏の陸奔車についての記事である。
その記事の概要は以下のとおりであるが、結論を先に云えば、この中川説の陸奔車は四輪車で前輪がステアリングホイール、後輪が駆動輪で直接地面に接していたことになる。左右の車輪は「遊行車」と云われ、いわゆる遊び車でバランスをとる役割であろう。要するに子供用自転車につける補助輪の役目と同じである。
この後輪を直接の駆動輪とすれば根本的に、より自転車に近い構造となる。
下にある平石時光の図をよく見ると、梶棒の後ろにある「奔車」が「遊行車」よりも大きいのが気になるところである。それに「奔車」と云う言葉も気になる。これが主体的な駆動輪を兼ねている可能性も高い。その逆に「遊行車」は補助輪のようにも見える。
この左右の「遊行車」を外せば正にそれは二輪車であり、ミショー型の後輪駆動方式と云えるかもしれない。伝動効率から云っても直接後輪を回した方が、走行性能は増すはずである。それに軽量化も期待できる。
以前に製作された模型の「陸奔舟車」と後輪が地面に接地する「陸奔車」の模型を製作して、どちらが効率よく走行できるかを比較すれば、判断できるのではないだろうか。クランクの踏み力が後輪に直に作用するのでそれだけ効率が良いはずである。それにハンドルとステアリングホイールの構造からして、少し練習すれば左右の「遊行車」が無くともバランスを取ることができるようになるであろう。
これらのことを踏まえて模型を製作すれば、あるいは証明できるのではないだろうか。現在ある模型と一緒に走らせ、比較するのも一興かもしれない。
陸奔車の特徴を箇条書きにすれば、
一、木製自動車
二、四輪車
三、奔車が駆動輪
四、遊行車は補助輪
五、名前は「陸奔舟車」ではなく「陸奔車」
ということになろうか。
以下は昭和10年4月23日(火)発行、大阪朝日新聞19210號所載。
二百年も前に自動車に似た“陸奔車”天文学者の彦根藩士が創製
天文学者の彦根藩士が創製、遺書中から原書発見
江州彦根藩士平石久平治時光は享保年間における天文学者として知られた人であるが彦根町史編纂史料蒐集中の史蹟研究家中川泉三氏はこのほど時光の子息彌右衛門重實が同町長松院境内の鉄塔中に埋めてゐた時光の遺書類中からはからずも陸奔車創製の原書を発見した。
陸奔車とは現在の自動車と同じ乗物で享保十八年に完成試乗に成功したもので、大正初期に舶来の自動車をわが国が輸入し騒いだがすでにそれよりも二百年前に邦人の発明した木製自動車のあることを知っては一驚せざるをえない愉快事で、当の中川氏は「全く今日まで隠れていた発明で邦人の誇りである」と雀躍して喜んでいる。
木製自動車の陸奔車は桐材を使って作られた小舟型の長さ九尺。外面は黒塗、中央に梶を立て、運転者が自らその梶を執って前進する。舟型の下には四輪車があり二輪は中央の左右に現はれ二輪は前後につけ車を隠してその前車。後車を奔車、左右二輪を遊行車と名づけ車は大小ある。速力は一刻に七里を走ると記されているからいまの時間で一時間三里半のスピードが出るわけで進止屈曲も梶によって自由でその原書の賛辞を訳読すると「手に舞し足にて踏む、実にこの器あり行かんと欲するものは足下にて住き、止まらんと欲せば直に止り、曲がらんと欲すれば掌中にて曲る鳴呼奇たる哉」と讃し、機関部は簡単なれど秘して図とせずと断って居るが。
この新考案発明品も当時の権勢者に容れられず「人間には足がある、危険の伴う乗物まかりならん」と叩き壊され文書によてのみその会心の創製を鉄塔下に埋め遺したものである。
新製船の矩(のり) 今、中の巧機(からくり)は、秘して図せず
図中、梶、奔車・遊行車左右・艣車
上の図と比較すると奔車と遊行車の軸の位置が直線上に無い。
奔車からのクランク軸と遊行車軸が明らかにつながっていない。
遊行車に比べ奔車がはるかに大きい。
これは別の駆動装置の考案図であろうか?「秘して図せず」と云う言葉も気になる。
資料編
中川泉三(なかがわ
せんぞう、 1869年 5月25日~ 1939年 12月27日)
について
日本の歴史家で、滋賀県内の多くの郡志や町志を編纂した人物である。1869年に近江国坂田郡大野木村で生まれ、父が早くに亡くなったため、母親に育てられた。独学で漢詩文や歴史を学び、文筆家としても活躍した。1905年から1939年までに、近江坂田郡志、近江蒲生郡志、近江栗太郡志、近江愛智郡志、近江日野町志などを完成させた。また、近江の聖蹟や曽我氏家記などの著作もある。彦根市史の編纂中に病没。
号は章斉で、徳富蘇峰や小野湖山などと交流があった。神社や寺院の由緒を明らかにし、条里制の研究などでも高い評価を得ている。
「陸奔舟車」の名称について
以前から気になっていることは「陸奔舟車」のことで、これもどこで変わったか「新製陸舟車(しんせいりくしゅうしゃ)」や「陸舟奔車(りくしゅうほんしゃ)」に変わっていて、この用語がいまでは主流になり、定着していることに違和感を覚える。
日本自転車史研究会のデジタルライブラリーにある大須賀和美氏の、”250年前、彦根藩士「人力自走車」創製の記録(1729年- 徳川将軍吉宗の代)”をもう一度よく読んで欲しい。
この資料の中に彦根藩士の平田時光が記録した「新製陸奔舟車之記」という資料があり、その中で「名は陸奔舟車の四字を以てす。(名以陸奔舟車四字)」とわざわざ書いている。
どこで変わったのか?その大須賀氏の資料の中に確かに「新製陸舟奔車之記」との表紙があり、先の「名は陸奔舟車の四字を以てす。(名以陸奔舟車四字)」と矛盾している。恐らくこの違いはこれらの当時の資料をまとめて綴じるときに誰かが「新製陸舟奔車之記」と表紙を書いたのであり、それが平田時光なのか、誰なのか判然としないが、わざわざ「名は陸奔舟車の四字を以てす。(名以陸奔舟車四字)」とした本人が表紙を書いたとはどうしても考えにくい。
やはり今後は、「新製陸舟車」や「陸舟奔車」ではなく「新製陸奔舟車」とすべきである。
現代はネット社会でもあり、オープンAIのChatGPTやAI「Bard」などがますます利用され、原典の名称がいつのまにか変化し、それがネット上で拡散していく可能性があり、非常に危惧するところである。
既にネット上では「陸舟奔車」が定着してしまっている。これを変えるのはほぼ不可能に近いが、これから自転車の歴史について、研究する人や記述する人は是非「新製陸奔舟車」または「陸奔舟車」にして欲しい。
関連図書
雑誌、憲友 軍警会 [編] (軍警会, 1935-06)
雑誌、時代文化記録集成 (4月分) 時代代文化研究会,
1935-05
雑誌、歴史地理 65日本歴史地理学会 編 (吉川弘文館,
1935-06)
中川泉三著作集 : 近江の史家 第6巻 中川泉三著作集刊行会 編
川瀬泰山堂, 1978
大分県警察史
2/2 大分県警察部, 昭和18年
雑誌、時代文化記録集成 (1月分) 時代文化研究会,
1935-02
彦根市史
中冊 臨川書店, 1987
彦根市史
中冊 彦根市, 1962
250年前,彦根藩士「人力自走車」創製の記録(1729年-徳川将軍吉宗の代) 大須賀和美 1983.03
2023年6月18日、日本自転車史研究会 編