2023年8月28日月曜日

埴 亀齢 -2

 埴 亀齢の三輪車 -2

埴 亀齢(はに かめとし)の略歴、

埴 亀齢は安政5年(1858) 11月23日信州坂木(現在埴科郡坂城町) の町医・児玉正彦の二男として生まれた。 

父正彦は明治6年(1873) 1月28日 64歳で不慮の死を遂げた。

明治7年8月18日、 文部省から医制が東京・京都 大阪の3府に布達され、 医師になるためには西洋医学による開業試験を要することになった。これは世襲であった漢方医にとって青天の霹靂のことであった。 この布達に刺激された埴 亀齢は笈を負って16歳で上京。

信越線が全通したのは明治26年4月1日であるから、当時は軽井沢・倉ヶ根・熊谷・蕨などに途中4泊して入京した。 したがってこの上京は年若い亀齢にとって誠に心寂しい旅であった。

そして陸軍軍医監、緒方惟準(おがた これよし、洪庵の次男) の塾(神田駿河台南口賀17番地)に入り、明治7年10月1日より明治10年2月までに医科全科を修業した。 

卒業するや直ちに明治10年3月、 東京府庁へ医術開業試験の受験を出願し、 8月受験を結了。

明治11年11月2日、第1438号をもって開業医免状を下付される。

明治12年4月19日、「依願傭差免候 警視局」の辞令を受け帰郷。

明治12年5月、21歳で坂城町で開業。開業した翌年の明治13年に更級郡と埴科郡の医師十数名と協力して起百社なる会合を作り医学・衛生上に関する事理を研究することにした。 

明治15年1月19日、埴科郡郡医に長野県から任命された。

明治17年4月25日、 微兵検査御用のため徴兵医員を依嘱され、診療を中止して、 下伊那・飯田・東筑摩・松本に出張し、公務に尽力した.

明治19年6月12日、上田町の沓掛ハルを妻に迎える。亀齢28歳、ハル18歳。

起百社は明治21年7月に到り、起百社衛生会と起百舎医学会に二分。

明治25年3月信陽医学会を発足させた。

明治28年頃、坂城から妻の実家である上田町鎌原に転居し診療所を開設。

明治32年、自ら発案した医薬分業を実践する。

明治39年5月25日、妻ハルが肺結核で世を去る。また実施した医薬分業のため患者が減少し、失意の状態に陥る。このころから各種の発明に寝食を忘れ没頭する。最も苦心したのは三輪車の製作であった。

吉田 元 教授は次のように述べている。

「埴亀齢の研究はテコの原理を応用し、 テコで歯車を動かし、小歯車から大歯車に、 それからコースターをして二つの大車輪を廻すことにした前一輪、後二輪の三輪車であった。その型は人力車からヒントを得たもので、鉄輪であったが、外国からの知識でなく、純日本的で、 鍛治屋を相手に古物を利用し、自らヤスリを手にして製作したものである。」

大正2年、上田を引払い近隣の小県郡和村に転居。和村は山村のため愛用の三輪車は上田に置き去り、馬に乗って往診し、和歌と囲碁を趣味とした。和村に居住すること17年。

昭和4年5月、72歳で急性肺炎を患い、この世を去った。

参考資料、日本医師会雑誌、第79巻、第2号 昭和53年1月15日

「長野県における明治の医薬分業実践者埴 亀齢医師」柳沢文秋

216頁に例の三輪車の写真
日本医師会雑誌 昭和53年1月15日
国会図書館所蔵資料

註、この略歴を見ると三輪車を製作したのは明治39年頃とある。明治30年代後半と云えば既に安全型二輪車は数多く輸入され、この上田にも何台かは入っていたと思われる。
或いはいくら練習しても二輪車に乗れないために自分で三輪車を工夫し製作することになったのかどうか。明治39年であれば既に彼の年も48歳になっている。

小県上田歴史年表 第4輯(昭和38年-44年)の44頁に、
上田町の自転車
明治35~36年頃、上田町に津田という人が夫婦で自転車を乗りまわしていた。
これに刺激されて人力車の古輪で三輪車を工夫した埴 亀齢医師(鎌原住)の長男と次男から直接その話を聞く。

とあり、やはり三輪車の製作年は明治30年代後半ということになる。