埴 亀齢の三輪車
昨日、以前に撮影した写真を整理していたら、埴 亀齢(はに かめとし)の三輪車の写真が出てきた。この写真は上田城址へ旅行に行った際に資料館で撮影したものである。館内は薄暗くどうしてもフラッシュをたかないと撮影できない。そしてどの写真もフラッシュの光がパネル写真に反射して肝心な駆動部分などが分からない。
この埴 亀齢の三輪車のことを知ったのは1967年3月号のニューサイクリング誌に掲載された記事である。下がその号。
ところでこの三輪車の製作年代について調べてみたが、どうやら明治20年代ではなく、明治30年代であることが分かってきた。
以前、私は「自転車の歴史探訪」で次のように書いた。
信州の上田城にある資料館に1枚の古い写真パネルが飾られている。この写真は大きな三輪車に男性が乗っている。この男性の名は埴 亀齢(1858年~1929年)である。この土地で医者をしていた人物である。若い頃、緒方洪庵が創設した適塾で医学を学んでいる。その後、信州に帰り、生まれ故郷で開業した。
当時は往診に人力車を利用していたが、経費節減のため自分で乗り物を作ることを思いついたのである。そして、村の鍛冶屋と協力して一台の三輪車を製作した。残念ながら現物はすでに処分されていて無い。
この三輪車、写真が不鮮明でよく分からないが、どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである。ただし、前輪1の後輪2で、車輪構成は八幡浜から出た三輪車に似ている。
製作年代も分からないが、彼の生年月日から推論して、1888年(明治20年)前後ではなかったかと思う。
私は、以前この写真を見に上田城へ行ったことがある。薄暗くて写真がうまく撮れなかった。フラッシュをたくと反射して、光ってしまったことを思い出す。
今回の調査でこの記事の疑問点を整理すると、
一、製作年、「彼の生年月日から推論して、1888年(明治20年)前後ではなかったかと思う」
一、駆動方式、「どうやらシンガーと同様足踏み式のクランク・シャフト駆動のようである」
の部分である。
この辺について、これから何回かに分けてこのブログで説明したい。