2020年11月7日土曜日

老舗さんぽ ⑧

 本日、山北町にある井山サイクルを訪ねた。

井山サイクルの創業も古く、昭和3年頃である。
創業者は井山茂夫さんで、現在の店主は三代目にあたる。
全国輪界興信名鑑、昭和4年発行にも掲載されている。
この日は、店の奥に置いてあった山口のスマートレディーと渥美の標準車号を店頭の前にわざわざ出してくれた。おかげでゆっくり眺めることができた。
山口自転車(1914年~1963年)より発売されたスマートレディーは1956年に発売された銘柄で、当時はヒット商品になった。この時期が山口の最盛期であったかもしれず、その後、オートバイに手を出したが、本田、鈴木、山羽、川崎などの強豪メーカーに押され、1963年には倒産してしました。

ヘッド部のマーク



チェーンケースにはパテントの刻印

後泥除けのマーク

風切り

標準車号
昭和30年代、渥美商店のマルエーは、特選車、
経済車、標準車があった

今でも金線やマークが輝いている

全国輪界興信名鑑 昭和12年発行


2020年11月6日金曜日

自転車の教材

 昭和18年発行の初等教育の教科書に、教材として自転車が登場している。それもただの外面的な内容ではなく、整備分解など、写真と図入りで丁寧に解説されている。

コッタードクランクやペダルの分解まで及び、これを学習すると近所にある自転車屋さんの手伝いもできるほどである。
この時代、それだけ自転車が身近で重要視され、適切な教材として採用されている。
自転車の最低限の知識として当時誰もがこの教科書で学習したのである。
裏表紙には、生徒の名前も複数記入され、兄弟で使いまわしして学習したことも分かる。ものを大切にした時代の一端も伺える。
男子用の教科書とあるが、とし子さんの名前も見える。

下は教師用の教科書に書かれている要旨で、次のようにある。

要旨
自転車の分解、組立及び手入れをさせ、交通機関としての自転車について、その構造及び機能の大要を理会し、その操作に習熟させると共に、一般機械の取扱ひの基礎を養ふ。
本教材は初等科工作一の13「自動車」初等科工作二の13「自動車」等の車輛に関する教材の発展として取扱い、日常生活上、産業上、国防上欠くことのできない交通機関としての自転車を整備し操作し得る知識、技能を修得させる。また初等科工作二の12 「機械ノアツカヒ方」初等科工作三の「ベルトノ組立」「バリカント糸鋸機」等の発展として、ねじ、ばね、てこ、鎖歯車、弁、ピン、軸受等機械の諸要素について、その機能を理会させ、その取扱ひに習熟させるのである。
理数科理科の「自転車」(五時限)と一体とし合計九時限を以て授業を実施する。

とある、
「日常生活上、産業上、国防上欠くことのできない交通機関としての自転車を整備し操作し得る知識、技能を修得させる。」
「国防上」など、この時代を反映した字句が散見され興味深い。

昭和18年3月4日発行







教師用の教材
初等科工作. 教師用 第4 文部省 編
昭和18年4月7日発行
国会図書館所蔵



2020年11月5日木曜日

桑折町

 先日、書類を整理していたら鈴木三元のふるさと桑折町(こおりまち)の資料が出てきた。
この資料は昭和31年10月20日発行の「桑折町のすがた」編集兼発行人は桑折町教育委員会である。そういえば、5代目三元氏(1925年ー2014年)も桑折町教育委員会に奉職していたと聞いている。

町の名士であった初代三元と半田銀山の記載があり、その部分は以下の通り。

10、郷土の発展につくした人々 95頁、
◎鈴木三元
文化4年半田村谷地の農家に生れ、小さい時の名を藤右衛門といいました。小さい時から非常に頭がよく、いろいろ考えて製作することがすきでした。あまり本気であったために気違いとまでいわれました。早くから人々の生活上交通機関の重要であることを考え、自走車の発明に着手しました。10数年間寝食を忘れて研究を重ね、とうとう二人乗りと四人乗りを作製して三元車と名づけました。
明治12年高辻待從が東北巡視の際に御閲覧あらせられ、又14年4月東京上野に開かれた勧業博覧会に出品して4月25日照憲皇大后の天覧を受け、おほめのことばをいただきました。
又宮城県と福島県の境界の問題で長年争っておりましたが、単身宮城控訴院に出かけて解決し、現在に及ぶといわれています。明治18年78歳でなくなりました。(一部不適切な言葉が使われていますが、そのままにした)

半田銀山 28頁~30頁
現在は昔のおもかけはなくなりましたが、その昔日本の三大鉱山の一つとして我が国のためにつくしました。
そのために江戸時代には非常な大事な土地であるとして、幕府が代官をおいて直接に治めたのです。今は2万にもならない人口ですが、200年前の銀山が最もさかんであった頃には8万人もいたという記録があります。この銀山がどのような歴史をもっているのかをふりかえってみたいと思います。

●今から一千年も前に発見れ、その間慶長(1596年頃)から万治年間(1658年頃)の約60年間ぐらいはさかんな時もあったようですが、誰がどんな仕事をしたのか、よい記録がみつかりません。
●今から約三〇〇年前、この土地を治めていた上杉綱勝の命によって、家来伊達半十郎が銀を堀り出す仕事をしましたが、よい場所がみつかりませんでした。
1704年(宝水) 松平宮内少輔の領地になりました。その頃1723年(享保八年)北半田の野村勘右衛門が鉱石のたくさんある場所をほりあてました。
●1747年(延享四年)半田銀山の仕事を幕府が直接行うようになりましたー代官がおかれた。
●1750年頃から非常にさかんになりました――1756年の例。
人足三千人、かじや二千六百人、堀大工二万二千人、堀子四万人、岡勤め(坑外で働くもの)七千人、一年間に米三七万五千俵、みそ六千〆、坑木六万本、鉱石をやくために使う塩一日に百俵以上。
これだけの人と物とで仕事をしていたので、福島以上のにぎやかさと大きさとをもっていました。
●名代官寺西重次郎1820年(文政三年)頃さかんに新しい場所をさがしたが、見つかりませんでした。
●1830年(天保年間)頃、代官島田帯刀がよい場所を掘りあてる。
日本三大鉱山となる。(佐渡の金山、但馬生野の銀山)
●1864年(元治元年)銀の出かたが少なくなり、幕府はやめた。
●1867年、早田伝之助幕府のゆるしをうけて始めたが四年にしてやめる。
●1874年(明治七年)五代友厚政府の許可で堀り始める。仏人技師コアテ来て教える。友厚の子竜作(工学博士)機械を使用して生産高まる。
●1876年(明治九年)明治天皇行幸、坑内まで御覧になる。
●1901年(明治34年)及び1910年(明治四十三年)山崩れが起こり、そのために銀山の穴もうまり、やめるようになった。
●終戦後一時銅等を採掘しましたが、昭和二十六年に全くやめた。

表紙

奥付


補足説明、
鈴木三元は、ものの本等によると半田銀山の経営で資産をなしたとあるが、この記事を見るかぎり三元車の記載はあるものの、半田銀山とのかかわりは一切触れていない。
半田銀山の年史をみても、五代友厚と五代竜作は出ているが、鈴木三元の名はない。
おそらく初代三元は、半田銀山の経営といっても、五代友厚の経営する会社関連の現場業者或は下請けであったと考えられる。実際に銀山に関係した仕事はしたのであろうが、誇大に銀山採掘の経営をしていたとは言い難い。
三元車について、二人乗りと四人乗りを製作したとあるが、いまだ二人乗りの三元車の写真や図面などは見つかっていない。
現在のところ一人乗りと四人乗りの三元車の写真は残されている。
四人乗りの三元車の写真は、交通史研究家である齊藤俊彦氏が調査し、その論文に載っている。一人乗りは、昭和59年に自転車文化センターで開催された「明治自転車文化展」において写真が展示されていた。

関連資料、
〇「明治十年代前半における自転車事情 ー貨客運送用大型自転車開発の動きー」齊藤俊彦著 西南地域の史的展開(近代編)1988年1月5日発行

〇「明治自転車文化展」(解説書)、自転車文化センター 昭和59年3月9日発行

〇主な新聞記事
『東京日日新聞』 明治14年1月21日   「三元車の新発明」の記事
『東京日日新聞』 明治14年11月30日  「自走車」の記事
『東京日日新聞』 明治13年12月1日 4面 「鈴木三元の略歴」
『朝野新聞』(復刻版) 明治8年12月17日 「海内新報」の中の記事

2020年11月4日水曜日

銀輪のわだち その12

 「知られざる銀輪のわだち」その12 

中村春吉の自転車世界旅行
明治19年7月19日の時事新報に「二輪車で世界一周の米人、露国で喰い止めらる」という見出しの記事が載っている。
アメリカの雑誌記者トーマス・スティブンスがその前年、ニューヨークから出帆しイギリスに上陸して自転車で同国を横断、さらにフランスに渡ってベルギー、オーストリア、トルコ、ペルシアを走破してロシアに入ったのだが、この報道はロシア官憲から旅行禁止を言い渡されたと伝えている。
スティブンスはこのあとトルコへ逆戻りして船でインドへ渡り、中国の広東に達する。
その年の11月には日本へやってくるが、長崎に上陸してからは神戸、横浜と走りつづけて帰国している。これが自転車世界旅行のはじめだが、用いた自転車はオーディナリー型(ダルマ型自転車)、この壮挙に彼はたちまち英雄となる。ときにスティブンスは22歳。
この話はアメリカの自転車史では特筆されているが、わが日本での最初の自転車世界旅行を敢行した人物はあまり知られていない。
だが自転車に関する古書や資料の目録などに目を通す人なら『中村春吉、自転車世界無銭旅行』という題名の本が明治期に刊行されていることはご存じだろう。それは知ってはいても読んだ方は現在は少ないのではないかと思われる。
というのは著者が押川春浪である。春浪は『海底軍艦』、『空中飛行艇』など、明治期において空想科学物語や冒険小説をつぎつぎに発表した作家だから、なまじ押川春浪を知っている人は、この自転車世界無銭旅行をも空想冒険小説のように思い込んでしまっているからだ。この誤解をとき、日本最初の自転車冒険野郎の存在を知っていただきたいものである。

中村春吉と米国製ランブラー号

押川春浪のドキュメント
型破りの冒険野郎・春吉
押川春浪は自転車世界旅行を終えたあとの中村春吉に会い、その紀行談を記録して物語にまとめている。少年向きに書いたため、多少の筆のおどりすぎや、春浪自身が自転車知識が不十分なため、ところどころにおかしなところはあるが、大筋はドキュメントである。そのことは当時の自転車専門誌である「輪友」、「自転車」などでの報道で裏づけができる。
まず走行のルートだが、居住地の下関を明治34年12月11日に自転車で出発、東海道五十三次を走って横浜へ、そこから翌年2月25日に船で中国へ渡り、シンガポール、マレーシア、ビルマ、インド、イタリア、フランス、イギリス、アメリカ大陸を横断して明治36年5月10日に帰国している。
使用した自転車はスティブンスのときとはちがってセーフティ型のランブラー車、中村春吉は帰国時に31歳であった。この旅行は日本人で初めての試みということもあるが、中村春吉その人の個性が強烈で、体力や走行技術というよりも、無銭旅行に徹したり、「道路が通じていない」と教えられた道を「自分でためしてみないとわからぬ」と突走って高山に突当り、自転車を背負ってそこを登り、万策つきると引返す、という天衣無縫ぶりが痛快である。
彼がニューヨークに到着したとき、現地の雑誌がそれを報じた記事を見てみよう。

「日本の旅行者中村氏は土曜日にニューヨークに現われた。発熱のため友人のすすめでボストンから当市へは船できた。彼は背は低く、色は褐色、口ひげがある。英語はやや乱調なので身ぶりを加えて話をする。
彼の自転車は荷物が山のように積まれ、フレームもハンドルも隠れてしまう。その上、走るときに二つもの荷を背に負う。
彼がロンドンに達したときは八銭を持つだけで宿泊もできなかったが、果物を小刀で面白い型に工作し、それを街頭で売って生活したようだ。そこで稼いだいくばくかの金は孤児院に寄付をしてしまい、イギリスからボストンへの船旅は船運賃なしの労働船員として働きながらやってきている。
彼は当地に来るまで各所で労働したといい、雇傭先のその証明書を示してくれた”われは少しも金を要せず”と大きく手を振った。
彼の旅行目的はヨーロッパ人のようには観光や金儲けではない。彼は故郷の山口県で600人の生徒を有する慈善学校の教師であり、その生徒に学間とともに英語を教え、将来は生徒をインドなどに送り出し商業を営ませたいのだ、といっている。そのための知識を広げるのが旅行目的のようだ。
彼は火曜日にニューヨークを発って自転車でワシントンに向った」。

計画は大胆、準備は周到
猛獣よけに高野豆腐の工夫
前記の記事は中村春吉のいろいろな側面を要領よくまとめている。春浪が書くところによると、中村の生国は広島県豊田郡御手洗町、明治5年生。少年時に下関へ移ったが当時の下関や門司は貿易がさかんなこともあって外国語をおぼえたり、外国への関心をさそわれることが多かったようだ。
12歳のときに二銭銅貨を一枚にぎって漁船に乗って朝鮮へ渡り、危い目にあったことがあるという。彼は外国商館を渡り歩いて働いたり、自分が校長になって外語研究会という私塾のような学校をつくったりするが、やがて「日本を富ませるには貿易をさかんにすること」と考えるようになる。
それには外国を見聞するのが先決というわけだが資金がない。それが自転車旅行につながるのだが、その無銭旅行の決断が面白い。
「田地を売れば多少の金はできるだろうが、少しばかりの金を持っていても外国人どもがいばっている中でケチケチした使い方しかできないから、かえってしゃくにさわる。拙者は無銭だ、貧乏旅行だ、と居直って旅をするほうが気が楽だ」というのである。
豪放とも楽観的とも思えるが、彼の性格はそうした一面だけでははかれない。外国へ行くのだから向うで日本のことを問われたら何でも答えられないと恥をかくと、国内各地の産物や製法の調査にまず手をつける。それも現地へ自転車で出かけている。
またインドなどの広野での野宿に猛獣の襲撃をどう防ぐか、などの研究や工夫を重ねている。火でおどすのがいいことはわかるが、ブリキ缶に海綿を入れてそこへ石油を浸して火を点ずると、火持ちは少し長くなるが、油がなくなると海綿も燃えて灰になってしまう。
このため海綿のかわりに高野豆腐を使ってみるとこれがいい。火持ちもいいし、油気がなくなっても高野豆腐は灰にならない。
高野豆腐を細く切って使うと、危急の場合に缶をふりまわすと炎が八方に飛び散り、地上に落ちても火が消えず、猛獣よけには最適だ、などかなり周到な装備を重ねている。

災厄つづきのアジアの旅
ヨーロッパでは大歓迎
事実、この高野豆腐浸しの火炎は、あとでインドのアサンソールの高原で中村を狼の大群から救うことになる。
深夜、テントを狼群にとりまかれ、火炎缶を5缶も使い、テントにまで火をつけて夜が明けるまで対決する場面を春浪は中村の聞き書きとして記している。

ヒマラヤ山麓の厄難
渡邊審也の画

上に掲げた絵はヒマラヤ山麓を狼の追跡を逃れながら走る中村春吉だ。絵の中の円部の中は水牛と闘っている場面である。
ちょっとつくり話のように感じられるかもしれないが、放し飼の水牛がテントへ入ってきたり、ジャッカル、ハイエナ、黒豹などと遭遇して闘ったのは事実のようだ。彼は怪力の持ち主で、捕えたジャッカル、ハイエナをボンベイの日本領事館経由で上野動物園に送ってもいる。短刀をふるって狼を仕留めたともいう。
ただ、この絵の中で中村がラッパを吹き鳴らして走っているのは間違いのようだ。
中村は、自転車で旗をなびかせたり、ベルやラッパを鳴らすと狼を防げる、と春浪に話したのだろうが、そのラッパとは口で吹鳴するものではなく、手で押すサイクルホーンなのだ(これは携行品一覧図『輪友』にある)。春浪はこれを知らず「ラッパを鳴らす」を「ラッパを吹く」と受けとったのだと思われる。
中村春吉が世界旅行中にもっとも冒険を強いられるのはインドを中心とするアジアで、猛獣だけでなく宗教上のタブーから食物を供給してもらえなかったり、宿泊を断わられたりする。働かせてもらうところも少ない。道路も未発達、地図も不備である。
だから、現地へ仕事できている日本人の申し出る好意を受け、世話になることも多いが、中村は最低限のものしか受取っていない(これは世界中、どこでも同じで、船賃などは労働船員で賃にするが、現地の有力日本人が疲労している中村に船賃援助を申し出た場合でも最下等の料金しか受けとっていない)。
しかし、ヨーロッパ、アメリカでは様子が変わってくる。紳士、淑女が目を見はって歓迎する、パーティを開いてくれる、新聞記者が集まる。日本の大使館も手厚くもてなすようになる。面白いのは当時の時代背景もあるわけだが、中村は「同胞の援助は最低限受けるが、外国人の世話になるのは恥だ」という態度をとりつづけていることである。

国内では冷たい反応も
その後の生涯はまだ不明
では当時、わが国の輪界人は中村のこの旅行をどう見たか?もちろん壮挙として賞賛されたことはいうまでもないが、非難の声があったのも事実である。「輪友」誌にはいくつかの投書が載っている。今日流の表現でいえば「意味のない”目立とう精神”の持ち主」、「社会はこんなことを必要としていない。そこここでもの貰いのような乞食旅行は世間が迷惑、なぜカネをつくってから出かけないのか。普通の常識のあるもののやるべき行為ではない」等々。
いま読むと隔世の感がある。
中村春吉は、押川春浪がまだ空想していた冒険を当時実際におこなってしまったのである。
この旅行は日本の自転車史だけでなく旅行史にとどめておいてよいものと思われる。
だが、中村春吉の生涯は? となるとこれがまだわからないのである。この旅行のあと中国に渡ったり、朝鮮に渡ったりして狩猟をしたときの記念写真などがあるが、それより先の消息は公けにされたものではまだ見つからない。読者の中でご存じの方があればご教示いただきたい。

押川春浪の『中村春吉、自転車世界無銭旅行』は、明治37年に博文館から『中学世界』という雑誌の臨時増刊号として刊行され、その5年後の42年に同社から単行本として再刊され、かなり版を重ねている。
自転車旅行を離れて、当時の日本人像を知るのに興味ある一冊である。

季刊「サイクルビジネス」№24 新春号、1986年1月20日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年11月3日火曜日

自転車専用工具

 雑誌、「サイクル」第9巻第3号、(株)サイクル時報社 1961年(昭和36)3月1日発行で自転車専用工具についての記事を見つけたので紹介する。同書の83頁~87頁

読者からの質問に鳥山新一氏が回答している。(外国製工具の部分を抜粋)

Q、どのような自転車専用工具があるか?

A、日本で容易に入手できる外国製工具

第2図 外国製の携行用の工具

(B)外国製工具 
第2図は現在入手しやすい外国製工具の一例です。
外国製であるからといつて無条件に良いというものでは決してないので、内には日本製の二級品以下というひどい品もあります。
しかし世界的に名の通っているものは流石に良くて、使っていても具合が良い許りでなく、耐久力もすぐれています。
工具類は長く使うものですし、肝心の車やパーツ、ネジを傷めては何にもなりませんから、外国品と限らず、とにかく手の及ぶ範囲で良いもの(良否の判定は後で説明します)を購入する方が賢明といえます。

第2図のものの価格を例示してみますと次の通りです。
◎スエーデン、「バーコ」
・モンキーレンチ150ミリ 750円、100ミリ 550円
・プライヤー 200m  800円
◎アメリカ、ダイヤモンド
・モンキーレンチ4吋 400円
・貫通ドライバー4吋 130円
・ラチェットドライバー(十一)200円
・ヘッド廻し 270円
・ドライバー6吋 250円

第3図 フランスMAFACの携行工具キット

外国の自転車には完成車に附属工具として、板スパナー類とタイヤレバーなどのセットが附属しているものが多いのですが、日本の商習慣としては、今はそういうやり方の車は見当りません。
外国特にフランスでは携行用工具のセットの良いものが(品質と組み合せの両方の意味で)沢山ありますが、第3図はその一例で、
フランスのMAFAC(プレーキと同じ)のセットの一つです。
このMAFACの工具セットは極く簡単なものからオートバイ用の大型携行用セット迄いろいろの種類のものを出しております。
この第3図のものは小さい方から二番目のものですが、実によく考えてあるセットで、まずこれだけあれば十分に用がたります。
MAFACのフッデッドブレーキのレバーのブラケットの奥にある締付ボルトのナット用のソケットレンチ迄入っているので便利この上なしです。
ペダルスパナー、ニップル廻しも入っています。
こういうセットはとかく役に立たない寸法のものがあつても、肝心のよく使う寸法のものが欠けているものですが、その点このセットはよく考えて揃えてあります。
 しかし一番大切なことはやはりや 肝心の車や部品がしっかりしていることで、そういう車なら、工具を持って出ても使う機会はまずないものです。
私の愛用しているRENE HERSE の車は29年からずっと使っていて33年正月に画鋲を踏んでパンクをする迄、一度も工具をあてたはことがありません。
話が一寸よこにそれますが、こりのRENE HERSE の車の親切なところは、全てのボルト、ナットのこの頭のサイズをすべて9ミリスパナーに合わせて統一してあることです。
泥除けステー止め、ダイナモブラケット、パニヤー台の足止めナット、カンティレバー取付けナット、フロントディレイラー取付けナット、シートピラーボルト・ナット、ハンドルバーステムのバーのクランプボルトのナット、等々
すべて9ミリサイズですから、9ミリのボックススパナー1本で全部の用が足りるのです。
あとのコッターレスクランクやステムは特殊工具です。
こういう点は流石に世界の第一級のオーダーメイドの車としての貫録十分といえる点で、これだけの配慮はやはり大したものです。
日本でもせめてオーダーメイドの車位はこのような神経の細いところをみせて欲しいものです。

その他の工具写真

第1図 国産工具

第4図 日曜自転車用工具

第5図 フランスの自転車用工具セット

第6図 三光社フリーはずし

第7図 取り外し金具を装着

第8図 三光社フリーはずしセット

「サイクル」第9巻第3号 表紙
1961年(昭和36)3月1日発行

裏表紙

2020年11月2日月曜日

更生車

 これも戦時中の写真である。

昭和17年7月8日発行の「寫眞週報」第228号より

写真の説明
①本文には次のようにある。(一部抜粋)
セレベス島の首都マカッサルの市街を歩いていると、一頃の東京のタクシー のやうに、 ティガ・ロダが小さな日の丸の旗をはためかしながら群ってくる。
ティガはマレー語で三人、ロダは車輪のことで、ティガ・ロダは文字通りに客を前へ乗せて運轉手がペタルを踏む三輪車、日本のリャカーを乘客用にしたもので、革張りの客席には肘を置くところも付いてる、乗り心地のよいものだ。
そのティガ・ロダの運轉手は黒いトルコ帽や中折帽子をかぶつたインドネシアの青年ばかりで、ベタルを跣で踏みながら寄ってきて、
『 乗るか、乗るか』
『これか、これか』
と片言の日本語で叫んで、眼をクリクリさせて微笑んでいるが、黒い顔には敵意はもとより不安、陰険などといふ翳はなくて、好意に満ちた瞳であり、顔である。

現在でもインドネシアでは庶民の足として、三輪車(三輪タクシー)が利用されている。
「バジャイ(bajaj)」と呼ばれているが、最近ではバイクや自動三輪を利用した車が多い。

④農家のお手伝いに銀輪乙女部隊
栃木県 阿部由二
猫の手も借りたいほど忙しい農村へ勤労を捧げようと今年も学徒が総動員されました。宿泊部隊もあれば徒歩部隊もある中に、今年は特に農村から沢山な自転車が学校に提供され、
これにうち跨った女学生たちは颯爽と農村へ進軍しています。

と、この写真のキャプションにある。
戦時中のことなので、総動員とか部隊、進軍などの言葉がちりばめられ、時代を感じさせる。


①セレベス生まれの更生車に乗る兵隊さんたち

②マカッサルの更生車

③掲載ページ 10頁から11頁

④22頁の写真
銀輪乙女部隊

⑤表紙


2020年11月1日日曜日

戦時中の写真

 下の2枚の写真は「寫眞文化」昭和17年5月1日発行からである。

写真の説明、

①バリンタワーク市街はマニラ近郊の街である。バリンタワック(Balintawak)のことである。この破壊された鋼鉄の橋は、パッシグ川にかかっていた橋であろうか。
銀輪部隊の勇士の姿が写し出されている。 

②昭和16年にまだ人力車が利用されている。大正期に入り、自転車が大衆の乗り物となり、人力車は徐々に姿を消していったのだが、まだ地方においてはこの様に活用されていたことが分かる。
写真の後方にはふんどし姿の少年と2台の大人用自転車が見える。
人力車夫と乗客の顔の表情を見ると、何となく違和感を覚える。
このようなところに格差社会をイメージするのは僻みだろうか。
戦時中とはいえ、その全体の情景はのどかで平和に見える。
①と②の写真を見ていると、これが同じ時代の写真なのかと疑いたくなる。

①破壊された橋を渡る銀輪部隊
バリンタワーク市街に向かう
鵜殿東日特派員撮影

②柳の道 荒井秀太朗 撮影
昭和16年9月

「寫眞文化」昭和17年5月1日発行