2021年8月7日土曜日

自転車関係資料㉟

 自転車関係資料㉟

下の資料は1932年(昭和7年)1月13日発行の「アサヒグラフ」第18巻第3号である。

その6、7頁に歴史的自転車のパレードの写真を見つける。英国は文化を大切にするお国柄で、現在でもそうだが、当時からこのようなイベントを開催していたことがわかる。

そう云えば、英国のH・W・バートリート Horace Wilton  (Sammy) Bartleet が「バートリートの自転車ブック」Bartleet's Bicycle Book The Story of Cycles and Cycling – 1 Jan. 1931を出したのがこのパレードの年でもある。彼はもともと自転車のレーサーであったが、のち1930年代に入って歴史的自転車の蒐集と自転車史の研究家となる。そして私設の博物館も開設した。当時彼が出したこの本は、自転車史関連の書籍として既に古典的な存在になっている。英国のクラシック自転車愛好家のクラブ The Veteran-Cycle Club からもこの本の復刻版1983年発行が出ている。

「アサヒグラフ」写真のキャプションに、

歴史は歩く ロンドンの街を
英京ロンドンを秋の空飛ぶ紅トンボのように走り廻る自轉車が、初めて街頭に現はれてからもう五十年、この半世紀の間に自轉車の身上にも幾多の変遷があった、その半世紀間の数寄な運命を語る形さまざまの自轉車・オン・パレードが去る十一月九日に催されたロンドン市長就任祝賀式の餘興として、ロンドン街頭を練り廻り、その珍風景に沿道の群衆を悦ばした。

とある。
この写真を見ると左側からミショー型自転車を先頭に、コベントリー・ロータリー三輪車、オーディナリー、セーフティ型自転車などが続く。その後には自動自転車、自動車も続いている。先頭にドライジーネ型のデニス・ジョンソンのホビーホース がいないのが少し寂しい気がする。
このパレードに参加した人の中にバートリートとその仲間達もいたはずである。

昭和7年1月13日発行 「アサヒグラフ」
6、7頁

表紙

バートリートの自転車ブック

2021年8月6日金曜日

日豪交歓自転車競技

 日豪交歓自転車競技

下の写真は昭和30年に小田原競輪場で開催された日豪交歓自転車競技会のもようである。

この写真は小田原市内にある野地サイクル商会に保存されていた写真の一部で、二代目店主野地好幸さんのアルバムから複製したものである。野地好幸さんは若い頃はアマチュアの自転車競技選手で全国総合自転車競技会神奈川大会やその他の地方の大会にも度々出場していた。この日豪交歓自転車競技会にも当時の自転車仲間であった中島价藏さん(井細田の中島自転車店の店主)や遠藤譲二さん(遠藤自転車店の店主)も参加していたはずである。

アルバムに貼ってあるタックシールには「30、日豪大会 小田原ニテ」と書いてあるが。日付までは分からない。その後に調べたところ、昭和44年2月5日発行の「小田原のスポーツ史」の年表に

30. 5. 8 日豪交歓自転車競技小田原大会 市営競輪場

とあった。この大会の詳しい内容まではわからないが、とりあえず昭和30年 5月8日に開催されたことは確かである。

それにこの写真からは場所が不明であったが、市営競輪場とあるから現在の小田原競輪場である。

小田原競輪場は、1949年(昭和24)8月15日に開設され、トラックの1周は333mで、走路の傾斜カント(角度)は海外の自転車競技場並みに急であった。このため海外に遠征する日本人選手はよくこの競輪場を利用して練習したと言われている。
私も昭和50年頃この競輪場を利用したことがあるが、バンクがかなり急であったことを覚えている。やや平坦なホームグランドの平塚競輪場でいつも練習をしていたので尚更そのように感じた。
小田原競輪場の上部バンクでのスタンディングは怖くて出来なかった。

若干写真の説明、

①開会式で整列する選手。オーストラリア選手は2名だけか。日本人選手はざっと数えて30名ほど参加している。当時の小田原競輪場は現在のように2階建ての高い観覧席がないので周辺の景色がよく見えている。

①開会式のもよう
写真提供:野地サイクル商会(以下同じ)

②オーストラリアの選手と走路を走る

③アルバムに貼られたタックシール
「30、日豪大会 小田原ニテ」とある

2021年8月5日木曜日

自転車関係資料㉞

 自転車関係資料㉞

下の資料は、昭和11年5月20日発行の岡谷市勢要覧である。

交通の部に自転車の保有台数が出ている。

他の交通関係車輛と比べ自転車の圧倒的な数量の多さに驚く、この時代の主要な乗り物であったことが分かる。この数字は全国的(地方に於いて)に見ても大同小異であったはずである。自転車が重要な役割を果たしていたことが、この数字からも伺い知ることができる。それとは反対に人力車の衰退ぶりが目立つ、この岡谷市でも僅か9台である。

交通の部
船 車
牛馬車 乗用1、荷用91
人力車 9
荷車 1,112
荷臺車 479
小船 36
自轉車 普通3,568、自動(オートバイ)14
自動車 乗用58、荷用35

以下、概要などを一部抜粋

岡谷市概況
岡谷市は諏訪湖の西北岸に位し、面積二方里四八、昭和十年国勢調査による世帯数六千二百三十三、人口四萬千三百三十三人、隣接する川岸・湊・長地等の諸村一帯に亘る本邦最大の製絲業地、所謂岡谷地方の中核をなす工業都市である。

地 勢
海拔約八百米の諏訪盆地の一角を占め、諏訪湖唯一の排水口天龍川の河口に臨んでいる。北方には盆地周邊山脈の一部なす低山性の塩尻山塊を負ひ、それより緩やかな傾斜をして湖岸の沖積地に漸移し、工場市街地及一部農業集落はこの山麓から湖岸に至る間の平地に密集している。湖隔て東南方八ヶ岳連峰に對ひ、又遥に富岳を望む景勝地であるが、冬は寒さ稍強く水點下二十度に近くなる時もある。

交 通
鐵道中央線岡谷駅は市の西南部にあり、新宿及名古屋へ共に約五六時間長野へは三時間で到達する。昔の中仙道は今國道八號線となつて本市の北部を通過し、市内を東西に貫ぬく県道下諏訪伊那線は遠く太平洋岸に至る路線と連絡している。 其他県道市道縦横に通じて自動車運輸の便頗る多く、省営バスをはじめ諏訪松本二会社のバスは岡谷駅前を起點として市内は勿論、上諏訪町下諏訪町其他諏訪郡下の各地、伊那方面、塩尻松本方面、和田峠越小県郡丸子町方面等へ頻繁に往来している。

参考までに全国輪界興信名鑑 昭和12年版 日本輪界新聞社 コマ番号 445
諏訪郡を載せる。
この名鑑ではまだ岡谷市でなく諏訪郡の表示になっている。
岡谷市は、昭和11年4月1日に市制が施行されたばかりである。

交通の欄 32頁

人口の欄 7頁

表紙

奥付

全国輪界興信名鑑. 昭和12年版
日本輪界新聞社
国会図書館所蔵資料
コマ番号 445

2021年8月4日水曜日

スチール製十字号

 スチール製十字号

下の写真はスチール製の十字号である。

正確には名称が十字号であるかどうかは分からない。その形状は見ての通り十字号と変わりがないから取り敢えず十字号と仮称した。どう見てもその形状は素材のジュラルミンとスチールの違いだけのように見える。

この自転車との出会いは既に40年になる。私が浜松に単身赴任していた頃に、偶然に小栗自転車店を知るようになった。そのきっかけはラレーロードスターに付いていたスターメイ・アーチャーの内装ハブが故障して、どこの店に行っても修理ができないと断られていた。たまたまあるバイク屋さんを訪ねたところ、腕のいい自転車店を知っていて、浜松市鴨江の小栗自転車店を紹介してくれた。

或日、小栗自転車店を訪れた。店主は小栗幸平さんと言って、この時すでに83歳のご高齢であった。まず驚いたことは店の佇まいで、一般の自転車ショップのイメージからまったくかけ離れた店であった。店内に新品の自転車が置かれていないこと、床は土間であった。天井から古いフレームが何本も下がっていたり、中古の自転車が数台置いてあった程度。修理用の大きな作業台には万力があり、土間には確かフイゴのようなもがあった。昔の鍛冶屋のことは知らないが、たぶんそのイメージに近い店である。

小栗さんは釣りが趣味で、ちょうど釣から帰ってきたところで、さっそくスターメイ・アーチャーの内装ハブの修理依頼をした。即、快諾をいただき、その日は自転車を預けて帰る。

数日後に、店へ行ったところ、既に修理は終わっていて、完璧に直っていた。これがきっかけで小栗さんと親しくなり、中古車だが2台この店で購入した。1台は昭和22年のジュラルミン製岡本ノーリツ号で、これは天井から下がっていたフレームに適当な部品を組み合わせ作っていただいた。もう1台はこれも昭和20年代のフレームで、形状は十字号のような形であった。

前置きが長くなったが、その自転車がこのスチール製十字号である。

見ての通り極めてシンプルで素晴らしい。既に気付いた方もいると思うが、この自転車のブレーキまわりである。ワイヤーブレーキやロッド式ブレーキではない。当初からコースターブレーキのみであった。前ブレーキが無いため見た目もスッキリしている。ほぼオリジナルに近い状態で小栗さんが仕上げてくれた。サドルだけ欠損していたので新しいものと交換した。確かブルックスか何かであったがこの写真からでは判別出来ない。

ヘッドチューブのところにマークのシールが貼ってあったが経年劣化で判読できなかった。何度も拡大鏡で見たのだが分からず。結果メーカー名は分からず。

現在、小栗さんの店はない。Googleストリートビューで見たら一般の住宅に変わっていた。
この自転車と共に小栗幸平さんとの出会いは懐かしい思い出になっている。

参考までに初期型の三菱十字号の写真も下に載せた。

現在は自転車文化センター所蔵

初期型の三菱十字号

2021年8月3日火曜日

自転車関係資料㉝

 自転車関係資料㉝

この資料は1964年7月10日発行の「アサヒグラフ」である。
その29~31頁に第19回国民体育大会の自転車ロードレースの記事あり。

丁度この年は10月に東京オリンピックが開催される関係から、開催時期を前倒しして6月6日から6月11日に開催された。

この国体が終了した後の6月16日には新潟県の粟島南方沖約40kmを震源とする新潟地震が発生、地震の規模はマグニチュード7.5であった。県営川岸町アパートが徐々に液状化現象により倒れていくテレビ映像はいまも記憶に残っている。この地震により8月予定の夏季新潟国体は中止となった。

この国体の自転車ロードレースにも出場している大宮政志選手は前年のプレオリンピックで優勝している。下記の文中にもそのことが書いてある。大宮選手がこの時期辺りから絶頂期を迎えつつあることが分かる。この年の八王子で行われたオリンピックの自転車ロードレースでもメルクスやジモンディ選手らの強豪相手に奮闘し36位の成績を収めている。大沢鉄男選手の後継者として十分な期待に応えてくれたのである。

以下はアサヒグラフの記事を抜粋。

スピードと耐久
自転車競技・個人道路競走

新潟国体での自転車一般137.5キロ・ロードレース 弥彦村をスタートし一団となって折返点の曾地に向う 越後路は田植えもすんで青々とした田んぼがつづく 色とりどりのユニホームが緑にはえて美しい (本社ヘリコプターから)

 個人道路競走は自転車競技のマラソンである。距離は180~200キロメートルの間で、使用される道路に合わせてきめられる。もちろんなまやさしいコースではない。急勾配あり急カーブありの道路を、選手は食糧、水などを持参して走りまくる。
 平均時速43キロという普通列車なみのスピードだから、強い脚力が要求されることはもちろんだ。そのうえ、そういうスピードでただ黙々と走りぬくための強じんな意志の力が伴わなくてはダメである。
 日本の自転車競技は影が薄かった。それが昨秋の東京国際スポーツ大会以来、一躍脚光をあびるようになった。道路競走で大宮政志選手が世界一流といわれたバジール(フランス)を破って優勝したからだ。50人いた候補選手がプロ転向のため17人にも減った、というような苦境をのり越えた猛訓練が実を結んだといえよう。
 しかし楽観は許されない。ローマ大会で、自転車だけで金5、銀1、銅1というメダルをかせいだイタリアを初め、ヨーロッパ勢は日本の及ばぬ厚い選手層を誇っている。東京大会にどんな強豪が現れるかわからない。

燕市 三条市を過ぎると道は信濃川の岸辺を進む。さわやかな銀輪の音が初夏の川面をわたってゆく 選手にとっては苦しい137.5キロだ

Bicycle road race participants are required to cycle 180 to 200 kilometers at 
43 kilometers per hour. Here are aerial views of Japanese cyclists during the
 road race at the Japan National Athletic Meet in Niigata in June.
(自転車ロードレースの参加選手は、180〜200kmのコースを走る。そのスピードは平均時速43キロだ。 6月に新潟で開催された国体ロードレースのもようを空中から撮影) 

1964年7月10日発行の「アサヒグラフ」
29~31頁

エディ・メルクス(右から2番目)
と走る大宮選手(中央)
東京・八王子
「TOKYO OLYMPICS 1964」写真集より
1964年10月22日 東京オリンピック大会
自転車個人ロードレース
12位  エディ・メルクス  4時間39分51秒
36位 大宮政志 4時間39分51秒

2021年8月2日月曜日

老舗さんぽ㊼

 老舗さんぽ㊼

今回の老舗散歩は小田原の伊勢屋という和菓子屋さん、月に何回かは利用している。

同店のパンフレットには次のように書いてある。

受け継ぐ味と作り手の技
昭和十年、初代大矢平作が横須賀の伊勢屋で修行したのち、ここ小田原で創業。
戦争中の休業を乗り越え、今も創業時と同じ場所で朝餅をつき、小豆を炊いています。
そして「その日に食べて頂く分だけ作って売る。日々の暮らしの中でみんなが笑顔になれるお菓子をつくりたい」という初代の想いを今も受け継ぎ、ひとつひとつ丁寧に手作りでこしらえています。
添加物などは極力使用しませんので、日持ちがしないというのも特徴です。

とある。
ここの人気の定番は「豆大福」である。

下の写真について、
何となく写真の一部を切り取ったようで、全体が分からない。
でも店前には自転車がちゃん写っている。
不鮮明だが、昭和初期の自転車であることが垣間見える。荷台と両立スタンドも見える。
暖簾には大福と伊勢屋の文字。
この写真はパンフレットの他に店内左側の壁にも額に入れて掛けてある。

実は昨日もこの店を訪ねている。お赤飯のおにぎり、豆大福、すあま、干瓢の海苔巻き、いなり寿司を購入した。

昭和10年頃の店舗前の写真
伊勢屋のパンフレットより

現在のようす
Googleストリートビューより

2021年8月1日日曜日

自転車関係資料㉜

 自転車関係資料㉜

下の資料は新聞の切り抜きである。どう言う訳か下半分がない。

明治36年7月31日金曜日発行の萬朝報 第3550号 4頁に石川商会の広告などが載っている。

この石川商会の広告は度々当時の雑誌などでも目にしている。

銘柄車の米国製ピアス号は石川商会の一手販売であったが、その後別ルートで中古車などを輸入した業者がフレームを塗替えて販売する悪質なケースなどがあとを絶たなかった。それと横浜のアンドリュース&ジョージ合名会社も似たようなマークを使用しはじめたため石川商会ではやむなくピアスのマークを下の写真にある丸石ピアスに商標変更するという思い切った手段に出たのである。

このような事情により明治36年7月31日付けの萬朝報に「輪界に警告す」というタイトルで、商標変更について掲載した。

従来のピアス号の自転車にPのマークであれば、明治36年7月以前のピアス号であり、丸石のピアスであれば明治36年7月から明治41年までということになる。

②は前の頁で、
記事の見出しに、●塵の山芥の海(承前)●宇都宮の七人切(火を放て加害者も死す)●針線虫の学説●徳川義恕の入営披露と軍規問題●青山墓地惨事余聞●長成郡の所天斬り
などがある。

①4頁
明治36年7月31日発行の萬朝報 第3550号

②3頁


上マークからから下へ商標変更