2025年3月30日日曜日

多田健蔵関連資料

 多田健蔵関連資料

先般、当研究会に多田健蔵についての照会があり、以下に関連資料をまとめた。

 昭和43年の「シクリスムエコー」で、多田健蔵 (1889年 - 1976年)が当時の自転車競技の思い出を座談会形式で語っている。

 註、「シクリスムエコー」は、1950 年(昭和 25 年)に創刊された日本自転車競技連盟 の広報誌。資料提供:渋谷良二氏

その中に1907年(明治40年)の自転車長距離競走(250哩)のことが語られている。 このレースで多田健蔵は16時間53分の記録で優勝。(明治40年7月2日付け横浜 貿易新報) 

その時の状況を直接本人が語っていて興味深い。この座談会時の多田氏の年齢は 79 歳であった。 

(多田)・・・・その時は 11 時間以上たってたときだ。折り返して戸塚の坂上で水をのん だら腹がいたくなって。こたえたね。 それでも我慢して走った。藤沢へ行ったら、マゴマゴしたら無効になってしまうというん だ。苦しい中を走って小田原へ行ったら、検印場所に人がいないんだ。そりゃそうだよ 朝から走り通しで、時間も 7 時頃だった。小田原から折り返して国府津へ来たら、暗くなったのでガスランプ(カーバイトランプ)をつけて走ったが、苦しかったね。6月だし、ムシ暑さがすごく蚊がうんといるんだ。息するたびに蚊が口の中に飛び込んでくる。その時、面白いことがあったね。茅ヶ崎でね前方に荷車があったんだ。その上へ乗りあげてしまったんだ。すると荷車の先が前に下がった。そのまま荷車をのり越して走ってしまった。藤沢の最後の検印所へ来たとき、もう 20 分すぎたら駄目だぞと言われてね、それから走ったね、遊行寺の坂をハアハア言いながら登って、頂上に来たら、ようやくトンネルのような松並木をすぎるころになるとヒザがカチンカチンとなる。それから戸塚の坂をおりるときは、どうにでもなれと足をはなしハンドルの中心をつかんで目をつぶっておりたね。 それでもどこにもぶつからずにチャント真中を走っていたよ。 そうこうしながら横浜についたのが9時53分だった。タイムは16時間50何分だった。 今、思えば奇跡に近いね。貿易新報に入って、顔を洗っていたら、応援してくれた仲間が来てね、「多田さん死んじまやしませんかね」といいながらオロオロしているんだ。 気はしっかりしているんだけれど、体はフラフラだ。記録係のところへ行くと、「勝ったぞ」 というんで。それでも一体何着かわからないままに風呂に行ったけど、またげなかったね。 手もハンドルを握ったままの状態で伸びなかった。これは一月位つづいたね。目方は 2貫目位へった。

日々の練習について

(多田)、私らは朝早く鶴見を出て、今の花月園競技場のある付近に石川商会があっ たから、そこから朝食前に横浜にゆき、さらに原町田へ行き、原町田から鶴間、藤沢へ、 それから横浜へ戻るコースで練習していた。 私は、朝食前に走り、帰って来て食事後昼まで仕事、昼からまた走った。 2 回(毎日)は必ずやった。 かなりの道程だ。200 粁はやったんじゃなかったかな。前に言った 3 人(平田、高梨、 田辺)は東京から小田原へのコースを練習していた。 私は横浜から東京往復のコースも練習に使った。たとえば、8 時に会社へ出るでしょ。 するとチャントと会社で電報用紙が用意してあって、その用紙に8時半と書き入れて、多田これをもって行ってこいといわれるんだ。その時分時計なんかもってないからね。 明治40年の4月に始めて石川商会に行った。入ってから5月までトレーニングしたら 一ぺんに足がはれてしまった。医者からは「お前は掛気でダメだ」といわれたので、小豆ばかり食べていたことがあったね。それからいくらかなおって 5 月のはじめ頃から練習を再開し、6月20日の200哩レースに出たんだ。 レースの当日、朝の3時頃まで雨が降っていた。その時分、横浜の家には南京虫がいてね、それと暑さでぜんぜんねむれないんだ。 その時のことで面白いことがあった。走りながら小便したくなったけど、降りてしてたら 1 哩位ちがってしまう。そこで乗りながらしようと思うけど、出来ないんだな、パンツがキッチリなってるからね。それでも何とかして、パンツを引張り引張り走りながらしたもんですよ。(笑い) 

多田健蔵は、当時、石川商会のお抱え選手であった。仕事の傍らに毎日、200 ㎞ほど 練習していたことが分かる。これでは、仕事の傍らではなく、毎日が練習の時間に充てられていたことになる。多田が優勝して名をあげれば、石川商会にとっても大いに宣伝効果があったのである。 日米商店が明治40年頃から販売を始めたラーヂ号の影響により米国製ピアス号等の 販売にかげりが出てきた石川商会だが、多田の優勝によって売り上げを伸ばしたはずである。 

 多田建蔵は、1907年(明治40年)の自転車長距離競走(250哩)に出場し、記録は16 時間53分で優勝している。(明治40年7月2日付け横浜貿易新報)その後は、オー トバイのレーサーとしても活躍し、1930 年(昭和5年)には、日本人で初めてマン島 TT レースにも出場している。 

 「自轉車競走とピアス」などの記事、  「仙臺新報」第22號 仙臺新報社 1908年(明治41年)5月31日発行

 ●自轉車問答(一部抜粋) 同じ船來自轉車にして價格の多少に依り車体機関部に如何なる相違ありや(輪狂生) △高級のスヰフト、トライアンフ、ハンバー、センター及び米車のピアス號の如き車体 のパイプ等皆精良の材料を使用するのみならず車軸及び玉押の如き全部等の鋼鉄を ダライバン(オランダ語で旋盤のこと)に掛て製作するを以て十年前に買入れ目下使 用しつつある車軸玉押等を撿するも磨滅の痕跡なしピアス號の如きは世間多くの使用 者あるを以て就て實驗せらるべし下級車輛に使用する玉押は型を用へ打抜きたるも のに原料また粗悪なれば破損及び磨滅當然なるべし。 

 ●懸賞自轉車大競走會 當市の東北新聞主催となり六月七日午前九時より川内講武所に於て懸賞自轉車大 競走会を舉行する筈なるが市内有力者の賛助と各商店より副景品として多數金品の 寄贈もあり尙は遠隔の地より態々出場する撰手尠なからずと云へば當日の盛會推して 知るべきなり 

 ●自轉車競走とピアス 去月名古屋グランド に於て開催したる全國聯合自轉車大競走會に於て二日間共大勝を博したる乗用者は何れもピアス號にして数万の観客は同車の軽快にして堅牢なる に舌を捲きしと尙ほ両日間に於けるピアス乗用の優勝者氏名左の如し 廿三日の分 會員撰手競走十哩 第一着 名古屋 山本勉一 第二着 名古屋 松原信康 第三着 名古屋 廣瀬正一 廿四日の分 聯合撰手競走十哩 第一着 横濱 多田健蔵 第二着 大坂 槌田定吉 第三着 横濱 高橋隆次 第四着 東京 荒幾次郎 第五着 名古屋 松原信康 

 自転車長距離競走のコース

 明治40年6月30日に開催された自転車長距離競走のコースについて触れる。 横浜を中心として東は東京、西は小田原、北は原町田経由で八王子、南は鎌倉を経 由して三崎まで。この4区間をそれぞれ往復、総距離は約390㎞であった。 この 4 区間の到達点にはそれぞれ検印所が設けられ、選手は到着の確認を受けて、 スタート地点の横浜に戻る。 

 レースの結果は、 1 位、多田健蔵 5時スタート、21時53分着 総計時間、16時間53分 自轉車はピ アス号 2 位、荒井幸吉 総計時間、17時間49分 自轉車はスピード号 3 位、内田亥助 総計時間、19時間11分 自轉車はピアス号 4 位、玉置升三郎 総計時間、20時間45分 自轉車はジャスチス号 

コースの概念図
 典拠、明治40年7月2日付け横浜貿易新報  


参考資料、 

「日本輪界興信名鑑」大正14年発行

 「自転車競走」 月岡朝太郎 著1978-10 

 「輪界 」(3) 輪界雑誌社 1908-11 

 「輪界」 (4)輪界雑誌社1908-12 

「輪界」 (8)輪界雑誌社1909-4 

「輪界」 (10)輪界雑誌社 1909-06 

 「裸一貫より光之村へ」  創業三十五周年紀念日米商店 編昭和9 

 「大阪競輪史」 大阪府自転車振興会大阪競輪史刊行委員会 編1958 

 「日本スポーツ百年の歩み」 日本体育学会体育史専門分科会 編ベースボール・マガ ジン社1967 

 「輪業世界」第47号 大正11年1月号 29頁 

 「仙臺新報」第22號 仙臺新報社 1908年(明治41年)5月31日発行 「自轉車競走とピアス」などの記事、18、19頁 


「 自転車競走」 月岡朝太郎 著1978-10
国会図書館所蔵資料など
以下同じ

「仙臺新報」 (22) 仙臺新報社
 1908-05-4 大正14年発行

大正14年発行「日本輪界興信名鑑」24頁

 『輪業世界』第47号
 大正11年1月号 29頁 

「シクリスムエコー」
昭和43年発行

「大阪競輪史」 大阪府自転車振興会
大阪競輪史刊行委員会 編 1958年

「日本スポーツ百年の歩み」
 日本体育学会体育史専門分科会 編
ベースボール・マガ ジン社 1967年

「裸一貫より光之村へ 」
創業三十五周年紀念日米商店 編 昭和9年

「輪界」 (3) 輪界雑誌社
 1908年11月発行

全国連合自転車競争大会
輪界」 (4) 輪界雑誌社
1908年12月発行 

多田選手の英名
「輪界」第8号 輪界雑誌社
1909年4月25日発行 

「輪界」 (10)輪界雑誌社
1909年6月発行 

2025年3月29日土曜日

ニューサイ - 12

 ニューサイ - 12

月刊雑誌「ニューサイクリング」第12号 1964年12月1日発行より、

目次
第18回 オリンピック・サイクルレースを見る
連載講座スポーツ車、 部品の寸法
カタログ紹介 ストロングライトー仏・チェンホイール
サンプレックス―仏・チェンジギヤー
エッセイディレイラーの改造
チェンジギヤについて
陸中紀行
東北四県ツーリング記
サイクリングレポ
みちのくを行く
紀伊半島を走る
奥多摩日原を走る
コースガイドシリーズ (2) 東京近郊公園めぐり
交換案内
いじわるせくしょん
サイクリング東西南北
パニアーバッグ
PRコーナー
編集後記


表紙

第18回 オリンピック自転車競技


トラック競技

ロード

JOSの広告
米日貿易株式会社

目次

第18回 オリンピック自転車競技
結果


広告
前田鉄工所

2025年3月28日金曜日

TAIPEI CYCLE 2025

 TAIPEI CYCLE 2025

「TAIPEI CYCLE 2025」は、2025年3月26日から3月29日まで台湾の台北市で開催される、世界最大級の自転車見本市。

概要

会期:2025年3月26日~2025年3月29日

開催地:台湾、台北市

会場:南港国際展示センター(TaiNEX)

展示内容、完成自転車・自転車パーツ・E-BIKE・ドライブユニット・カーゴ自転車など。

世界中から多数の出展者と来場者が集まる、自転車業界の重要なイベントである。

YouTubeより
情報提供:シマノ自転車博物館

輪界 第3号

 輪界 第3号

輪界 (3)

明治41年(1908年)11月25日発行

目次、
論議 p1~16
商工業者に望むー前農商務次官 久米金彌 p1~3
衛生上より觀たる自轉車の效用 DY先生 p4~9
歐洲の紳士 佐々友房 p9~11
日本の工業 某實業家 p11~16
文苑 p17~21
なさけの綻び 金峰 p17~21
秋季雜題 加賀美晴能 p21~21
雜錄 p22~26
自轉車發達史 輪々居士 p22~26
地方通信 p26~34
輪界記者に望む  一輪業者 p26~27
競爭記事三件 p27~34
紹介欄 p34~37
自轉車ホーク止外三件 p34~36
鈴の音 p38~40
中村氏の世界自轉車旅行談外一件 p38~40
應問 p41~41

表紙
国会図書館所蔵資料
以下同じ

自転車発達と其年号

目次

自轉車發達史



自轉車ホーク止
特許出願 宮田栄助


2025年3月27日木曜日

ベンソン・サイクルラリー

 ベンソン・ヴェテラン・サイクルラリー

第63回 ベンソン・ヴェテラン・サイクルラリー

2025年7月6日開催、ベンソン・ヴェテラン・サイクル・クラブ主催

サニーサイド・ベンソン

自転車のカテゴリー

ヴェテラン:1940年以前

クラシック:1940年~1960年


イベント案内チラシ

2023年、ベンソンのサイクルラン
YouTubeより

註、ベンソン・ベテラン・サイクル・クラブについて
ベンソン・ベテラン・サイクル・クラブはネッド・パッセイによって1960年に創設され、毎年7月の第一日曜日に村のホールで開催される。このイベントは、今は亡き当時のクラブ終身会長ネッド・パッセイが、父親が捨てようとしていたペニー・ファージングを大切に残したことをきっかけに始まった。
最初のラリーには 35 人のライダーが参加した。それ以来、毎年より多くのライダーがラリーに参加し、現在では約 200 人が集まるまでに至った。
現在も活動を続け、450台を超える歴史的な自転車がベンソンに集合する。

2025年3月26日水曜日

輪界 第2号

 輪界 第2号

輪界 (2)

明治41年(1908年)10月25日発行
目次、
名土の祝辭 p1~1
論議 p3~17
進化と精神 大隈重信 p3~8
敬と愛 中村進午 p8~12
成功と苦悶 杉山重義 p12~17
文苑 p18~22
昔の情 東流居士 p18~22
自轉車孃 愛輪小僧 p22~22
雜錄 p23~37
飛行器の成功及其競技會 外九件 p23~23
紹介欄 p37~40
自轉車用自由ハンドルポスト 外二件 p37~40
鈴の音 p41~46
世界自轉車旅行中村氏の新嘉坡の滑稽談 聞生 p41~45
輪界未來の記 p45~46
應問 p46~47
三件 p46~47

表紙
国会図書館所蔵資料
以下同じ

口絵
自動車

宮田製作所 工場内

目次

自転車・部品 輸入額

2025年3月25日火曜日

コベントリーの自転車遺産

 コベントリーの自転車遺産

書籍案内、

「コベントリーの自転車遺産」ダミアン・キンバリー著

2015年10月28日発行

Coventry's Bicycle Heritage

by Damien Kimberley 

コベントリーには注目すべき自転車産業の歴史がある。1868 年に最初の自転車が製造されて以来、この都市はイギリスの自転車産業の中心地となり、一時は 100 年間で 450 社を超える自転車製造業者が存在し、世界最大の自転車生産量を誇っていた。


表紙

目次

ジェームズ・スターレー
「自転車産業の父」と呼ばれた

ベイリス・トーマス・カンパニー