スティーブンスの日本旅行記-⑥
彼らは長い間、名前を変えて頭付きの杵を真似しようとしてきた。しかし、賢明な日本人は古臭いやり方を捨て、西洋の最新の農業技術を自国に導入するのは、もはや時間の問題であろう。
佐賀の平坦な道を走り、1マイル以上通り抜けた。何百人もの子供 たちが合唱している大きな校舎を通り過ぎ、地元佐賀の名物である大きな青銅の仏像を見ながら、道はやや起伏のある田園地帯を抜けて行く。道中は概して平穏に走れた。特徴ある杉並木の道が続く。荷馬や牛を連れた農民の列に出会う。荷馬は凶暴な印象を受けた。
日本の馬は、きつい腹帯や過積載、そして他の国の馬がおとなしく我慢している様々な 屈辱を嫌う。馬の潔癖な要求に応えるため、20フィートの紐の先端で気ままにのんびり歩くことが許され、体中が華やかな装飾で飾られている。日本の馬の非常に独特な性格は、他の国の馬殺しのオーソドックスな方法に倣って怖がらせるのではなく、見た目が気に入らないものには何でも闘志を燃やすことだ。この特異性は、私にとって時として非常に興味深いものとなる。馬が私や自転車に腹を立てる時、いつも後ろ足で立ち上がり、キーキーと鳴きながら息をはき、同時に私に近づいて噛みつきそうになるのだ。このため、農民の一団とすれ違うときは、私は常に用心深くなければならない。というのは、農民たちは、馬の行動によって絶対に必要になるまで、馬を拘束することを考えていないからだ。
人力車は今ではかなり頻繁に見られるようになった。逞しい手足の男たちが曳く人力車は、 ほとんど裸体のような身なりで、 時速9キロの速さで二輪車の車軸の間を駆け抜ける。瓦を積んだ重い手押し車を田舎の工場から街まで曳いている男たちも見かける。中国ほどではないにせよ、重労働のほとんどは人間が担っているようである。
どの町や村でも、ヨーロッパの様々な模倣品に驚かされる。滑稽な間違いが至る 所で見られる。この真面目で滑稽な人々は、名前、商標、そしてあらゆるものを完璧に模倣しようと試みてきた。今日、昼食をとった食堂の 一角には、ギンガムチェックの傘を製造して いる傘職人が数人いる。どの傘にも「ジョン・ ダグラス、マンチェスター」という社名が刻ま れている。丁寧に作られ、他の国のものとあらゆる点で遜色ないタバコに、「葉巻」と大胆にラベルが貼られている。こうした奇抜な模倣者たちは、このようにして間違いを犯すのだ。シェイクスピアが日本人を見れば、「この世は舞台であり、男も女も皆役者でしかない」という彼の言葉の意味をより深く理解できただろう。他のほとんどの国では生活が深刻な問題であるのに、日本人だけが 「生計を立てるふりをしている」ように見えるのだ。彼らはいつも、世に出て数年間生計を立てるというこの行為自体が、大きな冗談に過ぎないように私には思える。
日本では、あらゆる階層や境遇の人々の間 に、最も幸福な状況が存在しているようだ。 学校の前を通ると、手入れの行き届いた校庭で生徒たちが様々な運動をしているのが見える。それは東洋では決して見られない光景だ。 今日は中原(なかばる)の公立学校の前で少し立ち止まり、興味深い運動の様子を眺めた。 黒いフロックコートとダービーハットをかぶった教師たちの監督の下、女子のクラスは二列に並び、号令とともに枕(ボール状?)を投げたりキャッチし たりしている。男子のクラスは木製のダンベルを操り、様々な規則的な運動で筋肉を鍛えている。若者たちは大いに楽しんでおり、その様子は西洋の学校生活の最良の要素を余すところなく示唆しており、自分の目で見たものを信じるのは難しい。広い世界の中で、授業の勉強や学校生活を楽しむのは日本の子供 たちだけなのではないかと思う。先生の一人が門まで来て、丁寧にお辞儀をして挨拶してくれ た。私は英語で話しかけたが、先生は一言も 理解してくれなかった。
日本の木造家屋は脆く、仮設住宅のように見える。官庁、警察署、郵便局、学校などはどれも新しく、明るく、芸術的で、まるで最近 完成したばかりのように見える。
道路も、時にはまっすぐ整然としており、フランスの道路を模倣しようとしているように思われる。また、何マイルも続く、メリー・イングランドの緑の小道に似た、狭く曲がりくねったロマンチックな道を走ることもある。