2022年2月21日月曜日

自転車関係資料-83

 自転車関係資料-83

以下の資料は、「サイクル」第3巻第5号、1955年(昭和30年)5月15日発行である。

興味ある記事があったので、その全文を紹介する。

現在は否定されている説も当時は定説になっていたことが分かる。
佐藤アイザックやド・シブラック等々。

日本に於ける自転車產業の黎明

井上 昌久

 桜からつつじへと移る快適の時候に、サイクルを播く皆さんへ送る今月の話題も、肩の凝らない思い出話的なほがらかなものにしたいと思いました。皆さんが、この文章を読まれる頃には、過ぎ去っているでしょうけれども、四月の十八日は特許制度施行七十周年の式典やら何やらで、賑やかな発明の日として記念されます。それは日本の発明史の七十年目の里程表として、訪れた記念の日であります。

 発明者は表彰され、発明の育成に努力した人人は祝福され、ラジオに新聞に今後の発明界の飛躍が祈られ、講演に発明展覧会に発明意欲の向上が叫ばれるに違いありません。

 自転車界にとっても、発明界の一部に足跡を残して来ており、華やかさはなくとも不断の精進を蓄積して今日の隆盛を導く一大原因を形成していることは間違いのないところで、自転車界はまた自転車界だけで、祝福すべき何物かに胸を圧せられる思いが致します。

 自転車の日本における歴史は、特許界の歴史の七十年に較べて果してどちらが長いのでしようか。日本の自転車の歴史を書いた人は数多いことであり、引用する資料は何度も引っ張り出されているものが多いようですけれども、そんな風な見方で考えて見ると面白いこともあるような気が致します。

 今から七十年前というと、明治十八年にさかのぼります。しかし、日本の自転車の歴史はそれから更に十数年をさかのぼることになるようです。私の手許にあるものから拾って見ますと、趣味の人社発行の趣味大観には

 明治三年、佐藤アイザック (後の命の親玉主人)が使用したことにはじまる。東京府が明治五年八月中諸税収納触示中に自転車一輛と見えるものは彼の使用せるものといはる。

とありますが、国際文化情報社の画報近代百年史第三集二百三十三頁には、その時代の自転車は、その構造が今日のと大いに異っていたし、木造で実用向きではなく遊戯用として用いられたらしいとして、例を上げている。

 これを見ると、その内の二、三例はなるほど輸入車らしいけれども、他の二、三例は日本臭の強いもので輸入車かどうかあやしまれるような構造のようにも思えます。この後者に入ると思われる他の一例が、同誌二百三十頁の開化風景の中にも見られ、その車の大略は第二図に示すようなものであります。

 前述の趣味大観には、アイザックの記録一輌の記事につづいて明治九年に六輌となり

とあって、前述の画報には明治十年頃には、それも一時の流行であって見られなくなった。

明治十四年頃現在のような鉄製二輪車が渡来した。と記載されています。趣味大観に明治十二年には練習を要しないのと乗用として危険なきところから喜ばれた三輪車の輸入となり、これを遊戯用貨自転車とするもの生じ、神田佐久間町秋葉ヶ原に始めて意外の繁盛を来した。

とあって、前の第一図や第二図の中に三輪車もあるところから、これらのいろいろの記跡には何か矛盾が感ぜられるようです。しかし三輪車の特殊なものが日本人の独創か模倣かは別としても早くから存在したとすれば、その辺の矛盾も何か解消するように思えるのです。特旨家の御研究を期待する次第です。

 或る記録によると、佛人の発明した自転車は、独佛英の三国人によってさらに考案工夫され、その後は欧州と米国で別々に改良工夫されたようで、明治の初期に現在の型より前の型式の自転車を外人が乗用輸入したと云われた宮田製作所の元技師長の須藤氏の見解も伺って見たいものです。次いで三省堂の図解現代百科辞典によりますと、明治十五、六年頃我国へ輸入され、二十年の頃から漸次その数を増したとありますが、前述の趣味大観には明治二十三年頃から追々乗用に用いられその型は俗に達磨型という二輪車であった。

 意味の記載が見られます。何れにしても自転車の基礎構造は主として欧州で進歩発達し、先づ日本へ一般に輸入されたのは、この欧州型であると須藤氏は言って居られます。そして、前述の辞典が、その頃の二輪車は、前輪大で後輪小なる普通式といひ、前後両輪同大なのを安全式というとある記事などからも、イギリス製オーデナリー型のものがその主流であったように思われます。

これは西歴一八七四年(明治七年)頃のもので、始めて針金のスポークを作って軽く作られており、西歴 一八八七年(明治二十年)頃のものは、さらに両輪の径の大小差が大きく、サドルは一層頂点に近い形になっているようです。

 この間外国ではどのように発達していたかというと、西歴一八七九年(明治十二年)英人口ーソン氏がチーエンギヤを組合せた前輪の大きいスーピード車が出ましたが、これも総称すると前のオーデナリー型に入っていたようです。西歴一八八二年コヴェントリーの発明家スターレーが前後輪のつり合いのとれたものを作ったそうですが、これはセーフティ型なのでしよう。またBSA社の変ったものや、W・セルマン氏のカンガルー型という珍しいのもありましたが、西歴一八八五年(明治十八年)になって現在の車に殆んど同様な車が英人のスターレー及びサットンという人によって作られ、西歴、一八八八年(明治二十一年)には英人ジヨンポイド氏が空気入タイヤを考え出したというような経緯を経ることになります。

 その頃、チェンが発明されて今の型に近くなったものが作られセーフティ型と呼ばれたイギリス車が西歴一八八五年(明治十八年)頃現われました。前述の安全式というのがこれに類するものでありましよう。

 ついでですから初期の婦人用自転車(第四図) と、西暦一八八五年(明治十八年) 西暦一八八九年 (明治二十二年)頃の競争用自転車とを併せて御紹介しておきましょう。

 何れにしても、この明治二十三年頃現在の型の自転車が輸入されたと見るのが最も正確のようで、その車を修理する必要から、日本の自転車業の黎明が訪れることになったことも確実のようです。

 そして明治二十三年本所菊川町に株式会社宮田製作所の前身である宮田銃製作所なる鉄砲鍛治工場を経営されていた宮田栄助氏がその修理を依頼されて奮起試作されたのが我国における現在型自転車製造の始めである。

というのが定説であります。さらに趣味大観の記録によると、明治三十年頃ゴム輪両輪同大のものが用ひられるに至った。しかし未だ実用的交通補助機関として将来重要な位置を占むべきことに考え至らなかった。当時往々自転車無用論を為す人もあった。然るに自転車の流行は何時しか実用的交通の補助機関として発達した。

とあり、次いで

明治三十三年六月歌舞伎座におけるシードブラック一座の自転車曲乗興行以来自転車乗の間に漸く曲乗を為すものを生じた。当局の注意を受くるに至った頃は自転車競技会も各所に行われ、自転車の流行は、明治の末期にかけて漸く都市を風靡するに至った。

と記載されています。年代順に言うと、この辺に入れるべきものでしようが、ある記事に

明治四十二年(西歴一九〇九年)東京の宮田製作所で、木製のものがはじめて試作された。とありますが、これは何かの誤りかとも思われます。

 自転車の国産のためには、その部品部品の製作に当っても、それぞれの苦心のあとが歴史を作っているにちがいありません。

日本自転車新聞の本年の三月十九日号に、大日本自転車の技師、伊東昇二氏の思い出話として、堺の人人が自転車用のパイプを、殆んど手製で作り上げたとか、それでも銀付パイプであったとか、加賀の漆器製造業者であった新家熊吉氏が自転車の木製リムを創造したし、英国からリムやチェンの機械を求めるための洋行苦心談などが語られていますが、なかなか興味があります。

 東京チェンや椿本チェンのカタログなどを見ると、この両社が国産チェンを作ることができたのは、何れも大正六年であったと記録されていますから、自転車用チェンの国産はこれより早くはありますまい。

 終りに臨んで外国の黎明期の記事をまとめて見ますと、世界最初の自転車の考案者は、フランス人のド・シブラクという人で西紀一六九○年という今から二百六十六年にパリで考え出したというのが定説でしよう。これは木馬のような極めて簡単なもので、二個の木製車輪と前後において垂直の棒で連結し、その上にまたがって大地を蹴って走るというようなものでした。次いで西歴一七八九年七月二十七日付のフランスのジュルナール・ド・パリ紙に、ブランシャールとコゲリエールという二人の人が、二輪車を共同で考案したという記事が出て、この時始めて自転車をバイシクルと呼ぶようになったようです。

表紙
資料提供:渋谷良二氏

目次

46頁、47頁

48頁

裏表紙