自転車関係資料-80
この資料は「横浜成功名誉鑑」横浜商況新報社 明治43年7月7日発行の522頁の部分である。
横浜成功名誉鑑和製自轉車の嚆矢
梶野甚之助君 (高島町五丁目10 電話1710番)
我國文明の門戸は横浜にあるだけ物質的輸入も隨て當地から開かれたものが多い、明治十四五年の頃已に木製自轉車を製造して盛んに営業した梶野甚之助君は、質屋から時計商になって非常に機械的の趣味を感じた、明治十二年初めて蓬莱町に自轉車工場を設け、廿一年に高島町に移った、明治二十八年頃米商ヴァンタイン社のコルトン氏の手によりて米国製の見本を得て益々奮励し、終に一切本邦製品を以て構造して米国に輸出した、明治丗五年渡米幾多の製造工場を視察して帰へり、大に得る處あり、以て今日の盛況を来した、和製自轉車の製造販賣は他に其類少なく、製品に對しては宮内省及参謀本部の御用達を蒙むりて居る、日露戦争當時には従軍して酒保を命ぜらしが、克平の後韓國城津に店舗を開きて雑貨類を鬻ぎ、高島町工場は老練なる管理人をして主宰せしめて居らるる、君は相州津久井郡の人、本年五十二歳を迎へられたのである。
註、梶野甚之助は誤り、正当は梶野仁之助
「鬻ぎ」の漢字が不鮮明で少し苦労した。「鬻ぎ」ひさぎ、商いをすること。