2024年5月6日月曜日

平石久平次関連 - 5

平石久平次関連 - 5 

「伝記」 第2巻 8月号 伝記学会 1935年(昭和10年)8月1日発行

これも平石久平次 関連、


125頁
「伝記」 第2巻 8月号
国会図書館所蔵資料
以下同じ




曆學界の恩人平石時光
古来日本では千幾百年の永きに亘って支那曆をその儘使用してゐた。今より二百五十年前に安井春海が苦心作成した貞享暦が日本人の力で始めてつくられたものであった。
然しこの貞享暦も、四五十年後に到って、天體の動きと大きな食ひちがひのあることが發見され、改暦要望の聲が盛んに起った。
幕府は暦學者土御門陰陽頭泰邦及び幸徳井陰陽助保高に命じて改暦に従はしめた。兩人等苦心研究したが未だその成果を見なかった際に突如登場したのが無名の暦學研究家平石久平治時光だったのである。
時光は彦根藩士であり文武両道を極め馬術の達人であるとともに發明家であり數學天文曆學に造詣深く、殊にその天文曆學は十數年前から獨創的研究をかさね常時は病氣保養のため京都に在った。
土御門、幸德井兩公卿の切なる依頼により改正暦を考案した。これは寶曆曆として両卿によつて改曆したるが如く發表され、朝延へ獻上詔勅を賜はり全國、頒布された。
我が国で最も完璧なりと稱せられた寶歴の改正功績者に約二百年後の今日まで土御門、幸徳井の両者として曆學史上を飾ってゐたが、 其の實、賞時五十九歳の田舍武士時光の偉大なる裏面の貢獻であったのである。 最近滋賀縣彥根町長松院境内の鐵塔内に埋藏せられてゐた平石時光の遺書遺品類の調査によってこの事實が明かにされた。
さらに遺書から京都帝大の山本一清博士により珍らしい天文分野圖が發見された。この圖は時光廿九歲享保九年九月四日に觀測した天體圖で、日月及び星座の位置も明記してある。同時に日食、月食の観測は勿論わが國では觀測したことがないといはれるオーロラらしい現象も觀測した記録もあり、又約二百年前の彦根に於ける連日の天気を日記してあるなど天文氣象學上に得難い資料も發見された。時光は明和八年八月十二日、七十六歳で他界した。