2024年5月2日木曜日

平石久平次関連 - 3

 平石久平次関連 - 3

「足利彦根横浜に於ける平石家」 石野 瑛 編 昭和9年12月4日発行

下記は平石家の家系図

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「足利彦根横浜に於ける平石家」
国会図書館所蔵資料

平石時光の著書及び写本数種


平石時光、
幼名を作之介といひ、後、平石久平治。深鳥子と號す。二百石を受く。彥根平石家五代である。時光は青年の頃、小恙により京都鹽風呂療養の暇を願ひ、其の間京師に於て學術を研修し、後、藩に勤仕するに及んで、馬術の奥儀を分家小左衛門に就いて學んだ。能く算術・歴學・天文學に通曉し、貝原益軒・中江丈右衛門等に交はり、また幸徳井陰陽頭保篤等多くの公卿諸家に歴學・天文學等を敎授した。馬術の奥儀を分家小左衛門に就いて學んだ。其の著書極めて多く算數・歴學・天文學・馬術・醫術・軍書其の他實に五百餘部を数へ、勤向・令達日記等の記録類も多い。就中「皇極運歷」壹巻へ献納し奉り、寶暦の改正歴は時光が献上し、宣旨が頒布せられ、また大津藏目付勤務中、献書・献歴したことなどは特筆すべきである。實に彦根藩屈指の學者で、この藩に於ける算數。天文學の基礎を立てたものといふべく、後年直中の時の學問の盛行に影響を及ぼしたことも大である。明和 八年八月十二日、七十六歳を以て卒した。法名を可休軒義翁宗高居士といふ。其の室は向山治郎太夫の女で、天明六年十月二十五日卒。法名を永昌院松室宗貞大姉といふ。嗣子重實及二女を生む。一女 は村山田宮に嫁し、(村山家の當主村山熊二郎氏)一女は田中惣右衛門に嫁す。(田中家の當主に田中普一郎氏大正二年四十五歳)
向山家は今、長崎縣島原町に住し、當主向山五郎氏(大正三年に五十四歳) 勘五郎氏妹、菊は彦根なる古澤小五郎氏妻である。