モトゥス 自動車の前史
Motus The prehistory of the automobile 2022年発行
陸奔舟車の部分を抄訳、78頁から81頁
8. 陸奔舟車 彦根(日本)、1732年
素材:木材(松、ポプラ、イチイ)、鍛造鉄、真鍮シート、鋳造青銅、銅、ジュート繊維、天然接着剤、装飾シルク、煮亜麻仁油、着色顔料
寸法:長さ237cm、幅102cm、高さ123cm、重量48kg
カール
フォン ドライスが 1817 年に自転車を発明したと云う説は世界中の学者が認めている。しかし、日本ではその 85 年前にすでに自転車を走らせていたことを知る人はほとんどいない。
1732 年に、彦根藩の奉行で、天文学者、数学者であった平石久平次時光
(1696 ~ 1771 年)
は、ボートの形をした陸上の乗り物である陸奔舟車と呼ばれる奇妙な乗り物を発明した。 これは私たちの目には非常に珍しいことであるが、18世紀の日本には整備された道路はほとんど存在せず、交通手段として船が一般的に使われていた。 中でも小型の田舟は、農民が水田で作業するために使用した。
神々(七福神と宝船)さえも船に乗って描かれていた文化的背景においては、陸上の乗り物が船の形をしていても不思議ではない。
1729 年には、埼玉本庄の百姓、正田門弥が一種の四輪陸上ボートを発明した。
この車両は、かなり大きな歯車に取り付けられたプラットフォームに立って足を踏み込むことによって操作され、その回転の動きは小さな歯車から車軸に伝達され、車輪を回転させて推進した。
この発明は、私たちの物語に何の痕跡も残していない。なぜなら、それは将軍に献上されたものであり、将軍はそれを保管し、決して公開しなかったからである。
四輪陸船車のことを知ったとき、平石は将軍が所蔵していた絵図しか見ることができなかった。
ある意味、これは幸運な偶然であった。なぜなら、彼は独自の発想で自由に設計できた。前輪は一輪にしてステアリングが容易になった。 彼の車両には、より重要な利点があった。それは、今日の自転車のように連続的にペダルをこぐように設計されているのに対し、正田門弥の車両では、ライダーは階段を登るときのように両足で交互に踏んでいたからである。
つまり、平石は、直立姿勢で乗り、脚を推進力として使用することで、より少ない筋肉エネルギーで体の重量を活用することができたため、珍しいながらも非常に合理的な形状のヴェロシペードを設計した(図15)。
日本人が自転車発明の優位性を主張するのは、まさにこの特徴のためである。ペダルを備えた1732 年制作の陸上ボートは、ダンディホースよりもはるかに近代的だ。
ペダル使用の優位性に疑問の余地がないとすれば、陸上ボートには、将来の自転車を特徴づけ、世界的な成功を決定づける基本的な要素を欠けていた。 平石の多大な価値は、モビリティの歴史にマイルストーンを打ち立てたことにある。 このあまり知られていない出来事は、近年になって明るみに出て、平石の故郷である彦根城文化会館の入り口には記念碑が設置された。
平石の陸奔舟車は、エレガントでかつ極めて前衛的な三輪車である。
精緻な装飾は、船や荷車がしばしば明るいデザインや色で装飾されていた東洋の世界を思い出させる。 ハンドルバーは陸上ボートの中央にあり、その下部は車両に固定されており、前輪に接続された 2 本のロープによって操縦される。 ステアリング角度を示す銅製のダイヤルは、今日の飛行機や船舶と同様に、ハンドルバーの下部に配置されている (図 16)。これは、正しい方向を示す道路がない場合に非常に便利な装置である。
文字盤のデザインは珍しい。陸上車両としては不便だが、存在理由がある。それは、動物を任意の方向に動かして進む従来の馬車とは異なり、ドライバー自身がステアリングを制御する史上初の車両の一つと云える。
平石のような正確な学者にとって、典型的な方位の矢印と天空のマークで示されるステアリング角度を測定する装置は、この問題を克服するために必要な装置であった。 ペダルは日本の下駄と同様に足を固定するシステムを採用している。 フットペグのストラップは、足の滑りを防ぐために太い溝のあるパッド入りの綿膜で包まれている。(下駄の鼻緒)
陸上ボートの上部は赤い絹の布で覆われている。 麻の葉模様(吉祥文様)は日本人にとってお守りとされている。伝説によると、それに触れた人を守る力があり、悪霊を追い払う力があるからだ。 また、平石の車両を献上する井伊家藩主(家紋の丸に橘)へのオマージュとしてオレンジの葉も描かれている。
C.F.