2020年11月21日土曜日

銀輪のわだち その14

「知られざる銀輪のわだち」その14 

佐藤半山と雑誌「自転車」㊤

わが国最初の専門誌

 本誌前号の巻末に、わが国最初の自転車専門雑誌『自転車』の複刻版が出たことが掲載されていた。私たちの会(日本自転車史研究会)でも機関誌で告知する予定だったが、ひと足先の紹介である。
 自転車史に興味をもたない人にとってはこんな古めかしい雑誌を苦労してカネをかけて複刻することも、またそれを数千円も出して求める人の心理もわかりにくいことだろうと思われる。
 この雑誌の価値はきわめて高い。発掘されているものが少ないため全体像が明らかではないが、明治33年に創刊され、大正8年まで継続発行されていることは、いくつかの傍証で確認できる。大正8年以降のことが不明なのも、雑誌というものの性質上、保存されているものが見当らないからである。
 いま現存が確認されているのは、複刻版を出した福島県の真船氏が集めた9冊と、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵の3冊で、別にもう一冊第9号がどこかにあるはず(かつてサイクルショーに展示されたことがある)だが、他には国立国会図書館にも存在していない。
(その後明治40年代と大正初年の同雑誌がまとめて発見されている)
 ただし、ただ存在が稀少だから価値があるというわけではない。前号で三浦 環のことでふれたように、わが国に自転車文化が広がろうとする19世紀の最後の年に創刊され、自転車が一般実用化する大正期まで雑誌の命脈を保ったことは、この雑誌につづいて創刊された「輪友」や「輪界」とくらべてかなり支持層が大きかったことを示している。
 全国各地でどのような人たちが、どのような関心で自転車を走らせていたか、いろいろな競技や遊び方がどのように普及していったかなどを時系列的に知ることができるのである。
 それは今日、スポーツ雑誌界の一角にサイクルスポーツ専門誌が市民権を得つつある状況の前史をなすものといえよう。

「自転車」第25号(復刻版)
真船氏により昭和61年に復刻されたもの

「自転車」第62号(復刻版)

鈴木三元と半山の縁?
 そういう『自転車』の内容と、果した役割りのほかに、たいへん興味をそそられるのは、この雑誌の主であり編集人である佐藤半山のことである。
 半山の郷里は福島県伊達郡桑折町である。読者はこの地名から何かを思い出さないであろうか?
2年前にこの誌上で紹介した、あの三元車の発明者、鈴木三元の居住地がこの桑折町である。鈴木三元は明治10年代にこの桑折町で自転車の試作と試走をくり返して、明治14年にここから三元車を東京の勧業博覧会に向けて出発させている。
話の途中だが、こんど『自転車』を複刻した真船高年氏のことにふれる。彼は自転史研究家で、鈴木三元の調査で桑折町へはかなり足を運んでいた。その彼が佐藤半山の出生地が鈴木三元と同じであることを発見したのだ。
 桑折町の調査で発見したのではなく、郡山市の明治期の自転車の使われ方を調べるため県立図書館に通ううち「福島誌上県人会」(大正11年刊)という本の中に佐藤半山の名を発見、鈴木三元と同郷であることをつきとめた。現在の桑折町には半山の記録も記憶もまったく残っていない。ただ、同町は佐藤姓が多いという事実のみが残っている。
 話を戻すが、今回の稿は資料も調査もすべて真船氏の労によっていることをお断りしておく。

「福島誌上県人会」大正12発行
国会図書館所蔵

二人の出会いは不明だが
影響はあったはず
佐藤半山は明治元年に現在の桑折町半田に生まれる。本名は喜四郎――ペンネームの半山は生家近くの半田山からとったものだろう。半田山とはかつて半田銀山として知られ、生野や佐渡とともに明治三大銀山の一つとして栄えたことがある。
 鈴木三元があの三元車を東京へ向けて出発させたのは67歳のときである。半山の喜四郎は13歳、老幼を分けたこの二人に交流があったとは考えられないが、進歩的な思想の持ち主で新しい文明に興味を持ちつづけた三元の影響が半山に及ばなかったことは考えられない。
 半山はやがて上京し学び、自由民権運動に興味を持ち、さらに自転車の雑誌を発行しながら神田区議会議員(現在の千代田区神田)になっている。
 三元の居住地は地名を谷地といい半田の隣りである。素封家であり文明開化好みであり、変った乗りものを試走して回る三元はじゅうぶんに半山の興味をとらえたであうう、三元車の東京への出発を13歳の少年が胸おどらせて見送ったことを想像するのは容易である。そしてペンネームの半山~半田銀山の経営に鈴木三元はタッチしてもいる。
(三元と半山の接触は年齢差から想像できないが、三元は地域での診療活動もしていたらしいことが残された日記でわかってきた。ぼう大な日記の解読が進めば、あるいは三元が少年半山を診療した記録が発見できるかもしれない)
 いずれにせよ、明治期にこの桑折町から自転車に深いかかわりを持つ二人が出たことは興味深い。
 その後の佐藤半山の経歴を現在わかっている資料でたどるとつぎのようになる。

・明治21年、上京、前出の「福島誌上県人会」には東京法学院(現在の中央大学)に学ぶとある。が、同校の設立は明治32年なので、その前身の英吉利法律学校に入学したのであろう。
・明治24年、同校を卒業。23歳である。
・明治26年、自由民権運動を掲げる立憲改進党本部に入り、党報局に3年間勤務し、機関誌等の編集に携わる。立憲改進党は明治29年に解党となるから、半山は最後の3年間これにかかわったことになる。
・明治30年、東京都神田区書記となる。
・明治33年7月に雑誌『自転車』を創刊、発行所名は快進社。編集人、発行人を兼務し、はじめて半山を名乗る。

発行は200号を超す?
後に区議、自転車商に
 ここから半山の自転車とのかかわりがはじまるのだが、快進社の所在地は、神田の小川町から下谷御徒町、ふたたび神田神保町へと何回か変転する。しかし『自転車』の発行は休まずにつづけられていく。
 確たる記録としては、今回複刻されたうちの一冊、第62号(明治39年1月)がそれで、それ以降の号がまだ発見されていないが、大正8年に輪界雑誌社が発行した「日本輪会名鑑」には「自転車雑誌社主幹・佐藤半山」という記録がある。従ってこのころは『自転車』が発行しつづけられていたようだ。
『自転車』は月刊であり、現存している各号を改めると、ときに発行月が翌月にかかることはあるが、定期的に出されている。
だからこのまま継続発行されていると仮すると、大正7年いっぱいで第218号まで号を重ねたと考えられる。
 大正8年までは雑誌にかかわった記録があるが、同11年、つまり前出の「福島誌上県人会」が編集されたときの記録には「現在は自転車商、神田区北神保町一二番地」と記されているから、この前後に『自転車』は廃刊されたと推測される。
 その前後、神田区議をやっているのだが、詳しいことはまだ調べがついていない。それと現在東京都千代田区神田神保町2-11という地番(半山が自転車商として記録されている地番に近い)に佐藤姓を名乗る人が住んでいることもわかったが、まだ接触できていない。
 いずれにせよ、大正12年には関東大震災がありその後の消息はまったくつかめていない。それはこれからの研究をまたねばならない。

自転車愛好層と重なる
民権運動と富裕階層
佐藤半山がイギリス系の法律学校に学び立憲改進党に加わり、やがて自転車雑誌に関与するのは、一見なんの脈絡もないように思う人がいるかもしれない。が、けっしてそうではない。
 日本が近代国家への歩みをはじめる明治の初期、自由民権運動の中核をなしたのは各地の中小ブルジョアジーで商人や小富農たちであった。彼らの運動は明治22年の大日本帝国憲法公布でやや下火になり、その後しだいに力を失っていく、改進党などの政党も離合しつつ大地主や大資本家のための政党に変じていった。
 近代法を学んだ半山が民権運動の一翼を担おうとしたころはそういう時期である。
しかし、面白いことは、明治30年代に自転車を積極的に迎え入れた人たちが同じく民権運動に関心を持つ都市や地方の富裕層だったということである。これらの富裕層は自転車からやがて猟銃、そしてカメラと新しい遊びにも目を向けるゆとりを持っていた。
 半山は改進党の解党後、党活動の基盤となったこれら富裕層の趣味、遊びの分野に目を向けたのではないだろうか。そして、その幼児からの記憶には鈴木三元と三元車 がある。
これがけっしてこじつけでないという証明をするなら、現在、各地で発掘されるオーディナリーなどは、かつて祖父や曾祖父が民権運動の流れをくむ政党活動に加わっていた旧家に多いことがあげられる。
 『自転車』の表紙の変化を見てほしい。フォーマットの変化は別にして、第42号には小さくてわかりにくいが「写真」という文字が入ってくる。第62号にはそれは大きな文字ではっきり見える。これは、自転車のことばかりでなく写真技術の情報も併載しているというサインである。写真関係の情報がこの雑誌に掲載されるようになるのは明治36年12月発行の第37号であって、この号はまだ発見されていないが第36号にその予告が見えている。
 つまり、半山は当時の進歩的な富裕層を対象にして自転車の普及をはかっている。このことは、かなり時流適応の才の所有者であったといっていいだろう。

実用時代の到来、大正期
ついに廃刊を迎える
大正期に入ると、自転車の普及が進み、それはスポーツや遊びの道具という範囲を超えて、いわゆる"丁稚”、小僧”の運搬用具”視されるようになってくる。
半山はそれを予測してか、写真技術を誌面にとり入れたりしているし、雑誌を通しての自転車の販売(いまの通信販売)や、用品類やウェア類の販売も手がけている。
その前からも自転車をあしらった絵ハガキの制作などを試みるなど、今日の輪界に近い動きを見せているが、雑誌は廃刊となる。
次号では『自転車』の内容に立ち入って、当時の自転車事情を紹介してみたい。

季刊「サイクルビジネス」№26 盛夏号、1986年7月24日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年11月20日金曜日

門弥の陸船車

 先日、本庄市のHPを見ていたら、門弥の記事が2020年10月1日で更新されていた。

「このたび歴史民俗資料館の増田館長が、多くの研究者の協力を得て門弥の陸船車の構造を研究し、久平次の陸船車はあくまで”世界最古のクランクペダル式を採用した自転車機能”であり、門弥の陸船車こそが”世界最古の自転車機能”である、と結論づける学術論文を発表しました。」

とある。以前「本庄市歴史民俗資料館研究紀要第4号」平成20年3月発行は読んでいるが、この論文は見ていない。ぜひ一読したいものである。

既に門弥についてはご存知と思うが、ここで簡単に触れておく。
この話の端緒は中日本自動車短期大学論叢、第13号、1983年発行の日本自動車史の資料的研究 第7報、250年前、彦根藩士「人力自走車」創製の記録(1729年ー徳川吉宗の代)大須賀和美著

である。

この昭和58年の中日本自動車短期大学の大須賀先生が、久平次の古文書を解読した時から始まる。大須賀氏は「人力自走車」として自動車前史に特記されるべき貴重な資料という観点から調査研究をしていた。

新製陸舟奔車之記4頁より

ところが、2003年に自転車技術史研究家である梶原利夫氏が、産業考古学会総会で、「1728 ~ 1732年のわが国における自転車の発明」と題し発表した。

以下は以前私が書いた日本自転車史研究会のニュースレター第125号、2003年7月11日発行である。

日本人が自転車発明?
産業考古学会総会で、 梶原利夫氏が「1728 ~ 1732年のわが国における自転車の発明」と題し発表。
要旨は下記の毎日新聞の記事を参照。
自転車に初めて乗ったのは日本人だった?――。1861年にフランス人のミショーが発明したとされるペダル式自転車が、それより129年早い享保17(1732)年に日本で誕生していたことを示す史料を、東京の研究家が分析し、模型を復元した。当時の日本の技術水準の高さを示すものと注目される。
 彦根藩士、平石久平次時光(ひらいしくへいじときみつ)(1696~1771年)の「新製陸舟奔車之記」(滋賀県彦根市立図書館所蔵)という文書で、元自転車メーカー技術顧問の梶原利夫さん(60)=東京都北区=が、同文書と添付されていた設計図を分析した。

 文書によると、武州児玉郡(現埼玉県本庄市)で農民が作った「陸船車」と呼ばれる乗り物が江戸で評判となった。坂道も上れる車だったという。江戸屋敷詰めだった彦根藩士が、天文学などで業績を上げていた平石久平次にそれを報告。「陸船車」の動力システムは不明だったため久平次は独自に設計し、享保17年に「新製陸舟車」として完成したとされる。

 「新製陸舟車」は、木枠の舟形で前輪1個、後輪2個の三輪車型。動力は、フライホイール状の円板に、クランクシャフト状の鉄棒を組み込み、ペダル(げた)をこいで進む。文書には「一時に七里(時速約14キロ)走り候」とある。

 この史料は、約20年前に中日本自動車短期大学の教授だった大須賀和美さん(故人)が「自動車前史」として発表したが注目されず、今回梶原さんが自転車としての視点から改めて分析した。
 梶原さんは「1730年代にペダル機構の自転車が日本に存在していたことで、自転車史が塗り替わる」と話している。
 梶原さんは、所属する産業考古学会理事長の川上顕治郎・多摩美術大学教授(生産デザイン)に依頼し「新製陸舟車」の5分の1(全長30センチ)の模型を復元させた。
 川上教授は「『新製陸舟車』のペダル機構はまさに自転車そのもの。安定性から三輪にしたのは当然と思われる。しかし整地が少ない当時の道路事情もあって、普及しなかったのではないか」と話している。【木村知勇】

 自転車博物館(大阪府堺市)の中村博司学芸員の話
 自転車といえば二輪だが三輪は自転車の元祖といえるもの。ペダル機構での人力三輪車は世界的にも1800年代に登場したもの。1700年代に日本でそのような乗り物が誕生していたとすれば驚きだ。日本の技術水準の高さの証明にもなる。[毎日新聞、2003年7月5日]

当時は、このように新聞各紙でも取り上げ話題を呼んだ。
私は以前からあえて自転車と関連付けることはなく、日本で最初の舟形の人力自走車でよいのではと思っている。自動車や自転車の元祖にするにはかなり無理があるのではと考えるからである。単に日本で最初の人力自走車でよく、それだけでも十分価値ある発見である。

 今年のオリンピックは中止になったが、地元の本庄市では2019年の暮れ辺りから、この門弥の自走車を使って、聖火リレーも企てたようだが、残念ながらコロナ禍の影響で中止になってしました。
 当初は、「本年7月9日の聖火リレーでは、この復元陸船車が製作から約10年の時を経て活用されます」

としていた。
しかし、また来年早々にもその企画が復活し実行されるのでないかと思う。
本庄市もそうだが鈴木三元の故郷でもある福島県の桑折町でも現存する最古の自転車と称して三元車を町おこしに利用している。
ある面、この自転車との関連づけにより、更に自転車のよさが見直され、利用者が増えることになれば喜ばしいし、ありがたいことでもある。
だが、門弥の陸船車や久平次の新製陸舟奔車を世界最古とか日本最古の自転車などと理論づけることは、いかがなものであろうか、世界の自転車歴史研究家にこの論理で説明説得し認知されるのは至難である。
いまだにどこの国でも似たような世界最古の自転車発見という話題はつきない。
中国では魯班が自転車を発明とか、印度の古い寺院で発見された自転車レリーフ等もある。
過去にもダヴィンチやイギリスのセント・ジャイルズ教会のステンドグラス、シブラック伯爵のセレリフェール、マクミランなどが話題になったが、いまでは自転車の歴史から消えさろうとしている。

2020年11月18日水曜日

再度、自転車の名称について

 この記事は、1982年(昭和57)1月15日発行の日本自転車史研究会の会報「自轉車」創刊号からである。

当時はまだ、自転車という言葉がどこから来たのか確定していなかったが、その後、交通史研究家の齊藤俊彦氏により調査が行われ、現在では明治3年の竹内寅次郎命名説が定着している。
それ以前にも「自転車」という名称が全くなかったということは断定できないが一応、寅次郎説で決着がついている。

ところで、私の友人であるSさんもそうだが、自転車の蔑称であるチャリという言葉が、いまだに広く使われていて、彼も憤慨している。
自転車を趣味とする人間にとっては、腹立たしい言葉である。
最近では公共放送までが、チャリダーという言葉を平気で使用しているし、ママチャリなどはいまや一般的な呼称になってしまった。
いずれにしても差別用語であることは変わりない。
チャリとはどこから来たのであろうか?いまだに疑問が残るところである。
諸説あるが、よい言葉でないことは確かである。
前置きが長くなったが、会報の記事を以下に載せる。(内容を全般的に見直した)

自転車という名称は、いつ、どこから?
錦絵に見る自転車

自転車という名称が果していつごろから使われたかというと、それは自転車がいつごろから日本に現われたか、と同様むずかしい問題で、現在のところこれといった有力な定説はないようである。
明治3年4月の「東京往来車尽」という芳虎の描いた錦絵には“一人車”という語が見えるし、明治3年7月の「往来車づくし」国政、国貞作の錦絵には"自転車"、"後押自転車”という語が見える。これらの画も見ると、その形は今日の自転車とは大分変わっており、前輪が小さな三輪車の形をして、ちょっとこの画を見ただけでは、その操縦方法がよくわからない。
増訂「明治事物起原」石井研堂著(大正15年)によると、この車について次のように記している。
錦絵に、「一人車」、「後押自転車」、「自転車」等の図を掲げたるを見れば、其形今日の形とは大に違ひ、手にて或る槓杆を進退して、車を進めたるものの如く、何れも三輪にて、実用になりさうもなきものなり
とある。しかし、私がこの画を見たところ、手と足を使って駆動させるように見える。

自在車は本物か
明治3年版「智恵の環」という刊行物には「自在車」という語があり、先の石井研堂氏は、実物を見ざるものの筆なるべし、と記している。確かに実物は見なかったかもしれないが、明らかにこれは黎明期の自転車で、1817 年にドイツ人のドライス男爵が発明したドライジーネである。
その後この型の自転車はイギリスに渡って、ホビー・ホース(Hobby - Horse)、ダンディ・ホース(Dandy-Horse)などと呼ばれた。
もしこの自在車の画が、日本で実物を見て描いたものであればたいへん重大なことになる。と言うのは日本に初めて渡来した自転車は、三輪車かミショー型自転車ということになっている。
もし日本でドライジーネ型の自転車が発見された場合、日本における自転車の歴史は書き替えなければならなくなる。西洋においてドライジーネ型自転車が流行したのは、1820年ごろで、日本では江戸時代の文政年間にあたる。未だ鎖国政策の厳しい時代であるから、日本に自転車が入って来ることは、ほとんど不可能に近い。しかし、このころより日本の沿岸には外国船が多く出没するようになり、なかには上陸した船もあるから、あるいは自転車も日本の土を初めて踏んだ可能性も否定できない。ここでちょっと、この時代の年表を見ると、

1820 年(文政3年)浦賀奉行に相模沿岸の警備を命ずる。
1822年(文政5年)イギリス船浦賀に入港、薪水を要求。
1823年(文政6年)ドイツ人シーボルト、蘭館医として着任。
1824年(文政7年) イギリス船員常陸大津浜に上陸、水戸藩これを逮捕。
1825年(文政8年) 異国船打払令を頒布。

という具合で、シーボルトのような知識人もいたから、たとえ自転車の実物は入ってこなかったとしても、話題にのぼったかもしれない。
だが、このころはまだ西洋でも自転車はめずらしい乗り物であったから、現在一般的に言われているように、やはり1860年以降に日本へ入ってきたとみるほうが無難である。
この自在車の画は、西洋人が持ち込んだ書物を見て描いたものと思われる。

自轉車と自在車

通俗的呼び名
明治3年版流行車尽くしに「のっきり車」というものがあり、粗雑な絵だが明らかにボーンシェーカー型の自転車だ。「のっきり」とはどう言う意味かといえば、「広辞苑」に、のっきる[乗り切る]ノリキリの音便。とあり、のりきる[乗り切る]①乗ったままで最後までゆく。②乗ってつっきる。乗り越える。転じて、難局を突破する。
とある。
今日でも自転車に乗れるようになるにはかなり骨の折れることである。
それこそ、夏目漱石の「自転車日記」にあるように大落五度小落は其の数知らず、或る時は石垣にぶっかって向脛を擦りむき、或る時は、立木に突き当って生爪を剥がす、其苦戦云う許りぶりなし、而して遂に物にならざるなり、
ということで夏目先生は、ついに自転車に乗れるようにはならなかった。
そのほかの呼び名としては、「ガタクリ車」というのがある。がたくりとは、やはり「広辞苑」で調べてみますと、がたがたとゆれ動くさま。「がたくり馬車」とある。イギリスではこの自転車のことをボーンシェーカー(Boneshaker、骨ゆすり)と呼び、これは1861年頃にフランス人のミショー親子が発明したものである。
車輪は前後同径か、あるいはやや前輪の大きい自転車で、初めて前輪にペダルクランクを取り付けたものである。
ガタクリ車の次に登場したのは、今日見ても美しい「だるま車」である。
この自転車は、イギリスではオーディナリー或はペニー・ファージングと呼ばれ、その後、アメリカに渡り、ハイ・ホイール・バイクなどと呼ばれた。
現在でもこの型の自転車は、デパートのディスプレーやいろいろなアクセサリー等の意匠に見ることができる。
「だるま車」という名称の由来は、いまさら説明するまでもなく、あのでんぐり返った、ダルマさんを思い起こせばよい。他に「一輪半」や「高輪車」もある。また地方によっては「ふんころばし」、「糸とり車」もあるようだ。

蔑称では
現在でも地方によって色々と、自転車を馬鹿にした呼び名がある。
先ほどの「チャリ」や「チャリンコ」これに「ママチャリ」や「チャリダー」、「ランチャリ」も入れてもよい。「クリコ」、「ケッタクリ」、「ケッタ」、「ケッタマシーン」など。
チャリは朝鮮語やスリなどから由来しているという説もあるが定かではない。いずれにしてもよい言葉ではない。これはまさしく差別用語である。
明治初期には、新聞などに「馬鹿車」、「バカ車」、「アホ車」なども見える。
さらに酷いのになると、明治12年5月版「東京新誌」第147号には、
「然して之に乗る者はおおむね下等人の刎返り野郎に属し、未だ上等人の乗る者を見ざるなり」
とある。
現代であれば、SNS炎上しそうな過激で挑戦的な言葉が並ぶ。非常に見下した物言いである。

中国や東南アジアに目を向けたい
明治3年4月版「東京日本橋風景」という芳虎の描いた錦絵の中、「片羽自転車」というのがでてくる。これは二輪車で、前後の車輪の間に幼児の補助椅子のようなサドルがあり、これにちょうどスクーターでも乗るような格好で、すわっている。ハンドルも前輪の横あたり並行に出ていて、てこの原理で動くものなのか、地面を足で蹴って進むのか、その駆動方法がよく分からない不思議な自転車である。
日本で初期の自転車を研究する場合、これら一連の錦絵は重要な資料であるが、駆動方式がよく分からない画もある。
私が以前入手したわずかな資料の中に「新刻上海跔自行車」という中国の版画がある。この版画については、ドイツ本の「自転車の二百年史」にも同じものが掲載されているから、ご覧になった方もあるかと思う。
この本によると、1900年ごろの版画とある、上海あたりから明治元年前後の自転車を描いたものが出てくれば、おもしろい。おそらく錦絵と比較すれば何かわかることもありそうだ。
今までのように、ドイタ・フランス・イギリス、およびアメリカばかりに目を向けるのではなく、もっと中国や東南アジアに目を向けてもよいのではないか。
「自行車」という名前から「自在車」が生まれ、そして「自輪車」へ、さらに「自転車」になった可能性も否定できない。上海を経由して日本に自転車が来たという説も可能なのでは?

2020年11月17日火曜日

青春のサイクリング

先般の野地写真帳の中に、興味あるサイクリングの写真と日記があったので紹介したい。

終戦後間もない時期に自転車で富士五湖巡りをした時の写真帳である。
こまめに記録された日記入り写真帳で野地好幸さんの人柄が偲ばれる。
下がその日記入り写真帳である。

その日記によると、
1947年(昭和22)8月4日(月)~5日(火)に富士五湖周遊サイクリングをしている。

8月4日(月)晴れ、サイクル連盟の同志と富士五湖周りを計画し愈々吾の定休日を利用し小生と遠藤、中島、小松の三君と行動せることとせるも小松君病気の為3名にて4日午後零時半中島宅に集合し関本を経て地蔵堂聖天山に至り小山まで下る・・・。

と書きだしている。(一部判読できないところがあったが、適当な字をあてた)
この日記からルートを探ると、
小田原市内(井細田)~関本~足柄峠~紡績工場(富士紡)~一色~須走(茶店で一泊)~籠坂峠~山中湖~吉田~河口湖(当日は湖上祭)~長浜~鳴沢~西湖~氷穴~本栖湖~ここから帰路、精進湖~氷穴~河口湖~吉田~山中湖~籠坂峠~須走(昨日の茶屋で小休止)~山北~江戸川工場~小田原着

解説、(本当は全文を読み下ししたいところだが、ご容赦を)
日記には年号が書かれてなかったが、幸い曜日が入っていたので、これから調べて昭和22年と特定できた。前の方のページに確か昭和21年と書いてあった。
井細田を出発したとは、当時の中島君の自転車店は井細田にあったからである。
因みに中島、遠藤はレース仲間でもあり、それぞれの実家が自転車店であった。
普通であれば国道246号を利用するところだが、あえて困難な足柄峠経由を選んだのは、若さと競技で鍛えた足があるからだろう。当然日頃の練習も兼ねたはずである。帰路は山北経由のコースを選んでいる。
聖天さんから小山までは「酷暑の上道路は悪く特に聖天山より小山までは急坂にて且つ幅狭く小道の為輪行は困難を要せし・・・」
とある。何となくこの記述から情景が浮かぶようである。
「紡績工場の横を通り・・・」
これは駿河小山の富士紡(富士紡績株式会社、明治29年3月設立)のことである。当時は日本でも有数の大工場で、小山と言えば富士紡の時代である。
「須走に到着せるも既に暗くなり・・・茶店にて一泊す」
翌朝は4時半に起床して5時に出発、霊峰富士を左手に見ながら籠坂峠を越える。
8時半頃には河口湖に到着、この日は湖上祭が行われていて、舞台や花火も上がり人出も多く賑やかだったとある。
西湖のある山際を通り、氷穴に向かう。氷穴の中はランニングシャツでは寒く、震えるほどとも、帰路の精進湖付近で好幸さんの自転車の前輪がパンク、しかしパンクの修理はおてのものであったに違いない。
籠坂峠を下った後は前日泊まった茶店で休憩、帰路は下り坂の為楽だったよし、
江戸川工場の横を通り小田原へ。到着は夜の8時半であった。江戸川工場とは、現在の三菱ガス山北工場である。
使用した自転車はレーサータイプで、彼らは当時、アマチュア自転車競技選手であるから当然と思われるが、昭和22年の時代背景では、殆どが黒塗りの実用車であったことを思うと、ハイカラで先進性を感じさせる。当時の自転車店は終戦直後とはいえ徐々に景気もよくなり、その息子たちもある程度裕福だったことを伺わせる。
私が小学生の頃(昭和30年頃)は、近所にあった自転車と言えば、殆ど例外なく黒塗りの実用車であった。小学2年の時にこの大人用の実用車で三角乗りをはじめたのが最初である。周辺ではだれも子供用の自転車には乗っていなかった。
だが、一人だけ近所に居た、彼は医者の息子であった。
いまでは懐かしい思い出である。

日記入り写真帳の一部
1947年(昭和22)8月4日(月)晴れ

籠坂峠付近
後に見えるのが富士山

中島と遠藤
写真右の遠藤さんは競技役員をしていて
昭和50年頃に平塚競輪場でお会いしたことがある

左の写真は野地好幸さん(当時22歳)
河口湖にて

2020年11月16日月曜日

老舗さんぽ ⑩

 今日は自転車でぐるっと老舗散歩をしてきた。

通過も含め行った自転車屋さんは全部で6か所、
まずはいつものコスナサイクルへ。その後、星野、中島、木村、開成町の遠藤、竹田と廻る。
簡単に各店の来歴を書くと、
まずコスナサイクルだが、どういう訳か古い名鑑には載っていないが、恐らく昭和初期の創業でる。現在の店主である小砂恵三さんは三代目になる。初代はリスケさんで、二代目はブンジさんと聞いている。漢字の名前はまだ確認していない。今度訪ねた時にでも聞いてみたい。
三代目の恵三さんも、腕がよく難しい修理もこなしてしまう。私も3回ほど古いパーツの修理をお願いしたが、完璧になおしてくれた。先日もこのお店のブログを見ていたら、いまでは懐かしいBEタイヤの交換の模様をUPしていた。専用のバルブの穴開け工具もでていた。最近ではこの工具も含めBEタイヤの交換をしてくれる店も少なくなったと思う。
今日、小砂さんは出かけていて留守であった。

コスナサイクル
小田原市扇町4-7-3

次に向かったのはコスナサイクルからほど近い星野モーターサイクルである。このお店は戦後に創業したお店で、それでも既に半世紀以上は経っている。訪ね時は丁度店主の星野さんはパンクの修理をしていた。いまではオートバイの販売と修理がメインのようだが、当然自転車の販売と修理もしている。星野さんとの話の中で、先日、富士山ナンバーの車の客が訪ねてきて、「古いパーツか自転車は無いか?」と。丁度、少し古い自転車とパーツがあったので、それを購入して帰ったとのこと。時々、そのような客がいまでも来るようである。
先日の岩瀬谷五郎、岩瀬斧五郎さんのことを聞きましたら、知っていて斧五郎が正しいとのこと、これで先の名鑑の件は解決した。(老舗さんぽ ⑨を参照)
竹の花(小田原市栄町二丁目)にあった鈴甲、鈴作さんのことも聞いたが、どうやら廃業したようである。ただし穴部の方の(株)鈴作商店まだ営業しているとのことであった。

星野モーターサイクル
小田原市扇町2-3-4

次に訪ねたところは、寿町の中島自転車店である。以前は井細田にあったのだが、その後移転している。いまは小田原市下水管理センター近くにある。少しメイン道路から外れているので分かりにくいが、今日は隘路でも入れる自転車で探査しているから都合がよい。すぐにその店を突き止めた。店は閉まっていたが、中島モータースという看板が外壁の右側面にかかっていた。まだ自転車の販売と修理を行っているようである。中島の創業は古く大正期の名鑑にも載っている。

中島自転車店
小田原市寿町5-14-22

次に向かったのは、木村自転車(現在の店名は木村二輪センター)である。現在ではオートバイの販売と修理がメインのようだが、まだ自転車が置いてあるところを見ると、販売と修理も行っているようである。木村自転車店の創業も古くやはり大正5年の名鑑にも載っている。明治40年代後半からの創業の可能性もある。
店は開いていたが、忙しそうなので遠慮した。

木村二輪センター
この写真の店舗は現在使われていない
小田原市多古341

まだ時間が早いので、サイクリングを兼ね、開成町方面に向かう。
2013年に開店した(有)エンドウ商会の開成店を訪ねる。店の中に入るのは初めてである。
店内には最新のロードバイクやクロスバイクが並んでいた。どうも実用車やクラッシクタイプの自転車とは縁遠い(遠藤の洒落ではない)気がした。だがこれが昨今の流行であれば致し方ない。店のレイアウトや雰囲気は申し分ない。
最近の自転車はフロントフォークの形状に違和感がある。殆どがヘッドから伸びる線が斜め直線で、急な方向転換にはよいかもしれないが、危険も伴うように思えてならない。サイクリングでのんびりと長距離を走る場合などは疲れがでるのではと危惧する。昔の美しいブレードのような曲線を多く見ているものとして、なぜかまだなじめないでいる。

CYCLESHOP ENDO 開成店
開成町吉田島781−1

開成町役場の南側に竹田自転車店(竹田モーターサイクル)もあるはずなので、訪ねてみる。
今日はシャッターが閉まっていて、休みのようであった。竹田の創業は古い名鑑に出ていないので戦後であろうか。

竹田モーターサイクル
足柄上郡開成町延沢800

2020年11月15日日曜日

老舗さんぽ ⑨

 先日、小田原の岩瀬自転車店(小田原市浜町1丁目1−37)を訪ねた。

訪ねたと言っても、たまたま店の前を自転車で通過した時に目に留まったのである。
丁度、三代目の店主が後輪のパンク修理をしていて、少しお話を伺うことができた。
この店も創業は古く大正の震災後のようだ。昭和4年発行の全国自転車業組合聯合会会員名鑑に出ていて、小田原町新玉3-441、岩瀬谷五郎とあり、初代の店主は岩瀬谷五郎さんであることが分かる。しかし、昭和12年発行の全国輪界興信名鑑には岩瀬斧五郎ともあり、どちらかが誤字?であるようだ。再度、伺ったときにでも、この名前を確認したい。
先ほどのパンク修理中の自転車を眺めると、チェーンは錆びだらけで、前輪のリムが歪んでいて、回転させるとブレーキパッドに当たり、回転が止まってしまう。この自転車の所有者の性格を見た思いがした。このような自転車を修理するのであるから、自転車屋さんも一苦労である。「店の中を見せてください」と言ったところ、快諾してくれて、専用工具なども見せていただいた。店の入り口の右側にはショーケースがあり、初期の仮面ラーダーなどのフィギュアがたくさん陳列されていて、この手のマニア垂涎のアイテムが並ぶ。
丁度このフィギュアなどを見ていると、お客が来て「後ろのタイヤの空気が数日でぬけるから見てほしい」とのこと、どうもバルブの虫ゴムが原因ではないかと思っていたら、店主も客に2,3質問してから、やはり虫ゴムを交換した。手際よい判断と修理であったと思う。

岩瀬自転車店の店舗

東京・旗屋の工具
スポーク切り


この店を後にして、また野地サイクルに向かった。丁度三代目の店主がいて、初代店主の生まれた年をお聞きした。明治32年頃とのことで、だいたい私が想像していた年であった。
先の写真の説明(老舗さんぽ ➅を参照)でも明治後期か大正初期と書いたが、或は大正4年頃かもしれない。この店の創業が大正13年であるから、既に大正初期から自転車競技を初めていて、若い頃からたいへん自転車に興味を持っていたことが分かる。それとも父親の影響だろうか。この辺になると推測になるので、ここでこの話はやめる。
この店のお気に入りである工具箱を見ていたら、ボールペンぐらいの大きさの工具がその側面に掛けてあった。先端にバルブの口がついていて、どうも携帯型の空気入れと思われた。下の写真がその工具である。形状からしてこれもレトロな工具である。
後ほど調べてみたい。

野地サイクルにて

このレトロ工具は
携帯型の空気入れか?

2020年11月13日金曜日

銀輪のわだち その13

「知られざる銀輪のわだち」その13 

三浦環と自転車お玉、自転車美人の明と暗

三浦環だけが有名
世紀の先端を切る明るさ
 わが国で初めて自転車に乗った女性はだれだったのか? 多くの出版物はソプラノ歌手・三浦環をあげている。そして、それが常識になっている。
 彼女が自転車に乗ることを有名にしたのは、明治33年(1900年)上野の東京音楽学校へ入学すると、自宅の芝虎ノ門から上野までの往復に自転車を利用したことである。毎日、きまったコースをほぼきまった時間に若い女性が緋の袴に矢羽根の着物の袖をなびかせ、髪に大きな純白のリボンをつけて走るのだからたちまち話題になった。
 男をしり目にさっそうと駆け抜ける先端的な女性を見物しょうと、多くの弥次馬が時をはかっては通学路のあちこちに群れをなすようになっていった。いつの間にか新聞は”自転車美人”という肩書きをつけ、紙面にしばしば登場させるようになる。
 その3年後の明治36年、小杉天外は読売新聞に連載した小説「魔風恋風」でヒロイン初野を自転車で登場させる。その描写は三浦環をモデルにしたといわれている。
「ベルの音高く、あらわれたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結い流しにして白いリボン清く、着物は矢がすりの風通、袖長ければ風になびいて、色美しく品高き、十八、九の令嬢」というわけだ。

魔風恋風 前編 小杉天外作
の挿絵
明治36年11月15日発行

環のほかにも多くの女性
女子嗜輪会が東京で発足

 三浦環が自転車で登場したとき、時代はちょうど二〇世紀を迎えようとしていた。
だから彼女は、“新世紀の女性”というイメージで受けとめられ、後年は欧米で世界的ソプラノ歌手として認められる著名人となるのだから「日本で初めて自転車に乗った女性」という説が定着したわけである。
 だか、このころの女性で自転車に乗ったのは彼女だけではない。同じ明治33年の秋、東京で「女子嗜輪会」なる団体が発足している。
 下ページの写真や記事は当時の雑誌「自転車」からとったものだが、会の規約や役員を紹介している。まず11月に8人の女性が集まって発起会を開いており、12月に開いた例会にはさらに7人が入会している。幹事として東宮いと子、田中きの子、寺沢まさ子、朝夷たけ子、柴田環子の名があがっているが、この中の柴田環子とは三浦環であろう。彼女の旧姓は柴田である。

女子嗜輪会の発会式での記念写真
明治33年11月25日
中央が17歳の三浦 環
自転車はカナダ製の婦人用アバンホー
写真提供:自転車文化センター

 上の写真は8人が並んでいるから発起会のものである。この中の三浦環は前列中央の女性である。当時、自転車に挑戦した女性は三浦環の外にもいろいろ存在していたことがわかる。
 女子嗜輪会の目的はこう書かれている。
「本会は、愛輪同志女子相互の懇親を求め、兼ねて一般女子体育の進歩をはかるをもって目的となす」。そして会費は毎月20銭、会員は新しい会員を勧誘する義努があり、会は遠乗り会や名士の講演会をおこなうとしている。

日本女子大の自転車推奨
安全車登場が普及の契機

 この会がその後、どのように発展、あるいは解消していったのか、調べが及んでいないが、女子嗜輪会が発足した翌年、日本女子大学が開校され、学校内に自転車部が設立される。そして「女子が自転車に乗ることはけっして美徳をそこなうものではない」という同校の教育方針は女性の自転車愛好者を増やしていく。
 このように女性の自転車乗りがさかんになる背景にはもう一つセーフティ(安全型)自転車の普及という事情がある。ミショー型(ボーンシェーカー)やオーディナリー(だるま型)では女子には乗りたくとも乗りにくい。だが明治25年ごろからセーフティ型自転車の輸入がはじまってくる。このために女性にも愛好者を増やすことができた。読者諸氏もご存知の浜松市の自転車店、御園井商会の経営者・御園井宏昌氏の祖母タツさんもこのころ同市で”自転車美人”として有名だったのである。

女性第一号の暗い物語
お玉を知ってますか?

 ところで三浦環が”自転車美人”として明るい話題を提供したのと同じ年に、東京・浅草の劇場常盤座ではある芝居が大当りをとっていた。題して「自転車お玉」、これは三浦環よりも30年も前―明治初年に”自転車美人”として評判になった女性の暗い物語である。
 自転車お玉の名は、明治期の読物にはときたま登場するが、いまではどのような人間だったかを伝えるものがまず見当らない。
 このときの芝居は後に劇評家として大をなす伊原青々園が新聞に連載した小説をもとにして脚色されている。大筋は幼いころ人買いの手に渡ったお玉という美しい女性が、数奇な運命の果てに情痴がからんで、犯罪をおかすというものだが、ほとんどフィクションだと思われる。まず時代設定が明治20年代になっているし、話の筋立てが江戸期からの人情噺の流れを汲む毒婦伝型になっている。
 伊原青々園はこの前後「五寸針寅吉」など同じような”犯罪実話”をいくつもフィクションで書いている。ただ、お玉が犯罪者であったこと、そして明治初年に洋装で自転車に乗っていて有名だったことは事実である。
 私がお玉に興味を抱くのは、彼女がわが国でもっとも早く自転車に乗った女性であるという事実と、いかなる型の自転車に乗ったのか? という点にある。が、お玉の名さえ知らない人が多いと思われるので、いくつかの資料からプロフィールを探ってみよう。
 出生地は神奈川県藤沢の周辺で、嘉永二年(1849年)生まれとも6年生まれともいう。没年も明治9年、あるいは11年とされ、はっきりはしないが26、7年の短い生涯である。家が貧苦で娘手踊りの一座に売られ、娼婦、外人相手のラシャメン(洋妾)になったりして横浜・東京で暮らすが、犯罪をおかして逮捕され獄死という運命をたどる。

伊原青々園作 自転車お玉
下巻の表紙絵
明治34年2月13日発行

お玉はどんな自転車に
ミショー型か三輪車か?

 自転車お玉という名は、彼女が明治4年ごろ東京・築地の外人居留地にあるホテルで働いていたころ(外人向けのコールガールかもしれない)、洋装で自転車を乗り回していたことによる。すこぶるつきの美人であり、まだ珍しい自転車で走っていたのだから注目を集めたことは事実だろう。
 一説ではホテルが客寄せにお玉を自転車に乗せたともいわれている。彼女に魅せられてかなりの外人客が集った――とも。
 だが、この人気が仇になった。お玉はそれ以前、横浜で妾をしていたころに大金を旦那から盗んで東京へ高飛びしてきたのだった。自転車お玉の存在が有名になったため所在が発覚して、殺人事件にまき込まれてまた逃走。数年後に逮捕される。
 行刑資料を精査すれば詳しいことがわかるかもしれない。だが残念ながらそこまで手が回らないでいる。
 明治・大正のお玉に関する出版物は、夜嵐お絹とか、高橋お伝などと同様に女性犯罪人をすべて ”毒婦”としてとらえ、情痴のストーリーにしてしまっている(高橋お伝などはわずか一人の殺人を稀代の毒婦に仕立てられている)。大正期に「自転車お玉愛憎情史」という、きわどいウラ本も出ていると聞くし、戦後に書かれた本にも「ハイカラ毒婦、自転車お玉」と題されている。
 昭和50年に入って井上ひさし氏が『オール読物』に彼女の悲劇を同情的に描いているのがやや異色だ。
 自転車史の中で、なぜお玉のことが調べられていないのか? 同じ自転車美人でも三浦環のエピソードはプラス材料になるが、お玉はマイナス材料ーー 自転車にとっていいイメージはもたらさない、こういう配慮が研究者の意識に働くのだろうか?
 明治4年ころ、まだ男性も自転車になじみのないころに、これに挑戦した彼女には明るい、活発な女性というイメージがわいてくる。
 どんな服装で、どういう自転車に乗ったのか? ある書物にはオーディナリーかマクミランではないかと推測している。が、私はそうは思わない。
 オーディナリーがわが国に入ってくるのは明治20年以降であって、それでは時代が合わない。
 2輪のマクミランはすでに本国のイギリスでもその存在が否定されている。だからこれもあり得ないのである。
 したがってそのころお玉が乗り回した自転車といえば、ミショー型か、あるいは前々号で紹介した三輪車の壱人車(ラントン型)ではないかと思われる。私は三輪車の可能性が大と思っている。
 伊原青々園の「自転車お玉」は上中下3巻の本になっていて、その下巻の表紙にはセーフティ型の自転車が描かれているが、小説の時代設定を明治後期にしているのだから参考にはならない。井上ひさし氏のそれは朝倉 摂さんがイラストレーションを描いているが、朝倉さんもどんな自転車にしていいか迷ったと見え、シンボリックな一輪車に乗っているお玉を描いている。

季刊「サイクルビジネス」№24 陽春号、1986年4月24日、ブリヂストン株式会社発行、「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)