2020年10月16日金曜日

銀輪のわだち その4

「知られざる銀輪のわだち」その4

鈴木三元と三輪車
今回の原稿を書くのは少し気が重い。
実は前回、「梶野仁之助の生涯」の原稿を編集部に渡すとき「次は三元車のことを書きましょう」と約束をしていたのである。
三元車については私たち日本自転車史研究会のメンバーの何人かが、一年ほど前から連絡を取り合って資料を集め調べていたから、まだはっきりしない部分はあるものの、未公開の事実が発表できる――と思っての約束であった。
だが、雑誌『サイクルスポーツ』9月号にとつぜん「三元車物語」というのが掲載されたのである。読んでみると、ほぼ私たちのメンバーが調べたことが出ているのだ。どういう経路でその資料が出たのかはすぐにわかった。
何も特別な著作権のあるものではなし、文句をいう筋合いではない。多くの人に「知られざる銀輪のわだち」を知ってもらうための研究会なのだから、どこで発表されようと結構なことなのである。
しかし、メンバーの何人かは、自分たちが苦労して収集した資料が、断わりなく先を越されて使われたことが愉快ではない。「三元車のことはいまさら研究会の機関誌にも載せたくない」ということにさえなってしまった。
とすれば、二番煎じになってもこの誌上で三元車のことを書いておかねばならない。まして編集部へのお約束でもある。
三元車とは何にか?聞きなれないことばだがそれは読み進んでいけばおわかりいただける。
まずは私たちの会と三元車の出合いから話をはじめよう。

「東野氏の三輪車から三元という文字が出た」
昨年夏のはじめ、わが会の顧問でもありクラシック・オートバイの研究家としても著名な、名古屋市の三輪さんから拙宅へ電話があった。
「例の大阪の東野氏の木製自転車だが、手入れをしているうちにフレームにキズのようなものがあり、そのキズが”三元”という字に見える。刻印かもしれない。明治期に三元という名の製造所があったかどうか知らないか?」
というのである。突然だったが一つ思い出したことがあるのでこう答えた。
「鈴木三元という人が明治の初期に自転車を研究していた、という記録を見たことがあります。果してその木製自転車の三元と結びつくかどうかはわかりませんが……」と。そして、私の手持ち資料をコピーして三輪さんへ送った。
この電話にある "大阪の東野氏の木製自転車”について説明しなければなるまい。東野氏はレストラン経営のかたわら、わが国古来の科学機器の収集家であって、伊能忠敬の方位儀、平賀源内の徒歩計などを数多く集めてきた。将来、有志とともに日本科学史博物館をつくろうと設立準備委員会を結成している。
その東野氏が一昨年の夏、山形市で木製の三輪車を発見した。直径70センチの前輪が二、同1メートルの後輪が一つ、フレーム、スポークは木製だが車輪のタイヤに当る部分は鋼板が張ってあり、前輪にはブレーキもついていて、ペダル駆動式である。
これが”東野氏の木製自転車”であり、発見後しばらくしていくつかの新聞でも報じられたからご存知の方もあろう。このことは発見に一役買った日本自転車史研究会顧問、高橋 勇さんによって私たちに知らされていた。だが、この木製三輪車の素性はただ相当に古い、という以上にはわかっていなかった。
三元という字らしいものが見つかったと聞き、私が鈴木三元の名を思い出して三輪さんに送った資料は『ふくしま一世紀』など福島県の郷土史に類するもののコピーで、鈴木三元とはそこに登場してくる素封家の名である。しかし、そのときには、まさかこの木製三輪車が鈴木三元とズバリ結びつくとは思ってもいなかった。

初代 鈴木三元(1814年ー1890年)

二人乗りの「奇器」が走る福島ー東京を二日半
『ふくしま一世紀』にはこう出ている。
「明治14年、上野で開かれた第二回内国勧業博覧会に二人乗りの自転車が登場し、江戸っ子を驚かせた。東北の伊達郡から16才の少年が三日で走ってきたと聞いて二度びっくり、福島から東京まで歩いて半月かかった時代である。この二人乗り自転車の発明者は伊達郡半田村(現桑折町)の鈴木三元で「三元車」として発表した。16才の少年は三元の孫である」また同じく郷土史の『三郷史実』には「三元氏が最初に考案したのは一人乗り三輪車であったが、当時としては破天荒で人はみな、”奇器”と称した。次に二人乗り、四人乗りに改善し、明治9年やや完成し、国見峠において試験をし、さらに改良、同12年初めて福島県庁に出願し、山吉県令より称賛の辞を賜わる。明治14年の第二回内国勧業博覧会への出品には氏と孫の房次郎、抱大工とも四人にて出発、二日半にて上野へ到着。4月25日、皇后陸下の御前で三元父子にて運転し尊覧に供したが陸下よりお言葉を賜る光栄に浴した」とある。
父子とあるが祖父と孫ということであろう。つまり二人乗りの車なのだ。とすると、発見された木製三輪車は一人乗りなのだから、博覧会に出品されたものより古いものというわけだが?
三輪さんから鈴木三元の存在を知らされた東野氏はすぐ福島へ調査の手を伸ばした。またわが会員で福島県の真船さんも調査をはじめた。すると意外にも、桑折町に現在も鈴木三元氏が健在であることがわかった。

イギリスのシンガー社製三輪車 1879年

新発明か否か完成まで10年の証言
つまり鈴木家は代々襲名制で、現・三元氏は五代目、自転車を開発したのは初代三元だったのである。やがて五代目は大阪へ飛び、ご先祖がつくった三輪車と対面――というドラマチックな展開となった。
博覧会へ出品した二人乗りの車がどのようなものか手がかりはないが、発見された三輪車は前述のような構造でペダルを踏むとクランクが後輪を動かす。車輪径こそちがうものの発想自体は上図の1879年製シンガー社製(英国)のものと酷似している。
1879年は明治12年である。新しいものが好きな日本人はこのころ貿易商を通じ自転車を手に入れていた人も多いから、三元はそれらからヒントを得ていたかもしれないし、創作がどうかはまだ何ともいえない。しかし、博覧会へ出品されたという二人乗り車が欧米で見られるのは1880年代以降ではなかったか、明治14年以前にわが国にそれが輸入されたらしい痕跡はまだ見つかっていない。
ただ鈴木家の四代目夫人であったタネさんが家につたわる話として『福島百年の人びと』という本の中で語っている記録には「三元車は完成までに10年以上かかったといわれている。上野の博覧会では大評判で、私の父が当時16才で上野まで走ってたいへん驚異の目で見られたと聞いている」とある。これが事実なら初代三元は明治初年から自転車の研究をしていたことになり、独自の発明とも考えられる。
鈴木三元は文化4年、福島県随一の素封家に生まれ、この研究に巨額の資産を投じ狂人よばわりをされたという。博覧会の時は67才、その9年後に世を去っている。その若々しいエネルギーには脱帽のほかない。

季刊「サイクルビジネス」№16 新春号、1984年1月20日、ブリヂストン株式会社発行、
「知られざる銀輪のわだち」より(一部修正加筆)

2020年10月15日木曜日

古い写真帳

 私がサイクリングの途中でよく訪れる店がある。それは、山北町にある「緑茶カフェ茶ぁぼう」である。以前、この店のマスター(日本茶アドバイザーでもある)に古い自転車が写っている写真はないかお伺いしたところ、探してみるといわれた。その後、数日を経て、大正時代の子供用三輪車の写真が3枚、Facebookのメッセンジャーで送られてきた。3人の子供が交代で1台の三輪車に乗っている写真で、この時期の三輪車の写真は珍しい。以前、昭和天皇が幼少期に乗っていたとされる三輪車の写真を思い出す。

その後、マスターに会ったところ、三輪車だけで自転車は無かったと言われた。私は三輪車でも十分満足であった。なぜなら三輪車は日本の自転車史において、最初に登場した自転車だからである。陸船車から始まり、久平次の新製陸舟奔車、春嶽のビラスビイデ独行車、自輪車、そしてラントーン車である。すべて三輪車だ。交通史研究家の齊藤俊彦氏によれば、竹内寅次郎が考案した木製三輪車(ラントーン型)の名前も寅次郎が「自転車」という商品名を付けた。それから自転車という名称が定着し、現代に至っている。

数日たったある日、またマスターから数枚の写真がFacebookのメッセンジャーで届いた。
三輪車だけと思っていたら、今度は自転車の写真が送られてきた。
その中の1枚は戦後の写真だが、他の3枚は戦前の写真で、戦時下のものであった。
やはり、旧家であるマスターの家には、古い自転車の写真が残っていた。

マスターの苗字は武さんといい、山北でも旧家で、鎌倉時代の後期に河村氏とともに秦野の波多野氏がいた領地から恐らく河村氏の家臣として、山北に流れてきた一族で、元は三浦一族である。秦野市の寺山が根拠地である。鎌倉時代に政子の北条氏に追われて、三浦一族であった武 常晴と大津兵部が実朝の首とともに波多野氏をたよって来たという古事が残っている。そして秦野市の寺山に土着した一族である。

武という苗字は三浦半島の武郷からきている。
明治22年に、横須賀の須軽谷・武・林・太田和の4ヶ村と長井村の飛地が合併して武山村になった。現在は字名で残っている。里山の武山(標高206m)や陸上自衛隊武山駐屯地などがある。 
山北町には武という苗字の家が数軒ある。商店街にある武書店もその1軒。

今週の10月11日(日)に、やはりサイクリングの途中で「緑茶カフェ茶ぁぼう」に立ち寄った。その時にマスターが古い写真帳を3冊持ってきてくれた。④~⑦の写真はその中にあった。写真のサイズは小さく、約5㎝角の大きさである。貴重な文化財を見せていただいたような思いがした。

武さんから送られてきた写真は以下のもの、
解説は武さんがしてくれた。


①この3枚の写真は、年代も名前も書いてあります。撮影場所については、
祖父自身の書いた記録や戸籍の記録を再確認したところ、最初の転居は昭和二年十一月の沼津でした。父は九月に山北で生まれてすぐに沼津に移ったようです。明治四十年代祖父は八王子や国分寺などで勤務していましたが、山北から通勤していたようです。
ということで、三輪車の伯父たちの、この大正十二年の写真は山北で間違えないようです。

②

③


④一番古い日付が昭和26年3月で一番新しい日付が昭和29年6月でした。他の写真に写っている場所がほとんど山北の家周辺なので、たぶんアイスキャンディーの写真もそうだと思われます。後ろの山も山北の家周辺の山のように見えます。近所のお年寄りに見てもらえば場所が特定できるかもしれません。


⑤若者5人が歩いている写真は、同じアルバムの写真から判断すると昭和19年の晩夏~初秋で、茨城の小美玉にあった百里原海軍航空隊周辺だと思われます。海軍にいた伯父たちが、芋買いの帰りで自転車を引いているところのようです。


➅明治節大運動会の自転車競走は昭和14年11月3日です。


⑦南京駅、撮影年月は昭和13年9月5日から昭和14年1月1日までの間だと思われます。

2020年10月14日水曜日

日本自転車の由来

 以下の資料は1908年(明治41)9月25日発行"輪界”創刊号の記事である。

この頃の自転車の通史的な資料としては、かなり正確に書かれている。
参考までに全文を掲載する。

日本自転車の由来  一記者

一、自転車輸入の嚆矢
自転車は明治20年前後に始めて輸入したり、其のときは今日の自転車の様に完全なるものにあらず、只ダルマと称する鎖りなく前車大にして、後車は小さき二つの車をつけたり。而して米国より輸入し来りたるものは其不定全なるダルマ比較的歓迎を受け、好評を得自転車流行の端緒開けり。

二、我国自転車製造の始め
故に我国にても自転車を製造せんと苦心し、終りに木製の自転車を拵へるに至れり。而して此自転車は多くは三輪車なれども、たまには四輪車を見たり、是等は20年後間もな<製造したるものにして、元よりダルマを模型として製造したるものなれば、タイヤは勿論、鎖りなどの存することなく、最も不完全なるものなりしものなり。

三、安全車の輸入
それより斬く進歩し、明治24年頃には安全車なる自転車の輸入を見るに至れり、此の安全車には鎖等もあり、略ぼ今日の自転車に類似し、ダルマに比し稍安全なれば、軽快の点は勿論乗り具合ひ甚だよろしく、又便利なる点に於てもダルマの比にあらざりしなり

四、タイヤの輸入
日本に自転車の始めて輸入せしときには、タイヤなるものなかりしなり、然るに英国よりニューマチックシングルタイヤ即ち空気入りタイヤ輸入したりこれまでタイヤの附しある自転車なきを以て其乗り心地甚よろしく、自転車界の一進歩と云ふべし、故に一般乗用者に於てもこれを歓迎せり。

五、自転車製造業
我国の自転車製造に従事せしものは、目下本所菊川町の宮田自転車製造所なり、其の当時は明治25年頃なりしが神奈川に於て梶野なるもの又是を始めたり、其後明治26年頃の本所にて蝙蝠傘製造者森田某なる人自転車の製造に従事せり然るに今日にては神奈川の梶野、本所の森田は其製造を止め、宮田自転車製作所のみ本所に於て増々盛んに製造をなせり、されば今後一層発展すべきなり。

六、西洋人タイヤの修理を依頼す
其当時自転車を用ふるものは、西洋人か或るは洋行帰りの紳士なり、而して其当時は自転車の代価非常に高く殊んど三百円以上なり、故に普通の人士はこれを用いること能わざりき、されば自転車商人の如きは勿論東京に一人もなき有様なり、一日西洋人タイヤのパンクをなしたりとて其の修繕を東京市本所区菊川町宮田工場に依頼せり、然れども宮田工場にても、これが修繕なす能わず、依って工場にてはこれを引き請けたれども、自ら修理をなさずして、これをゴム屋に依頼せり。されどゴム屋にても完全にこれが修理をなすことは、能うところにあらず、故に不完全に其修理をなし、これが代価として金参円を請求せり、それよりパンタの修理は参円と云ふことになり。されど如何にとも仕様なければ安価なりと称して、喜んで其委託をなす。これを今日の進歩せる諸子の頭脳を以てすれば、実に滑稽の感あらむ。

七、其当時の自転車使用の目的
目下我国にては都たると鄙たるとを問わず、自転車と云ば一般に交通に最も便益なるものとし、これを使用するものなり。故に士農工商の区別なく、いやしくも迅速を貴ぶ事業には此自転車を用ひざるはなき有様なり。
然れども最初自転車の輸入当時は、一人の実用的使用者なく、殆んど貴族の遊びものとして、贅沢品となり終れり。それ故実利を喜ぶもの及び富貴ならざるものは、使用を欲するも、価甚高きため其実利ならざるを信じ、これを使用するものなかりしなり

八、自転車使用の例
それ故自転車使用と云へば西洋人か、又は西洋帰りの所謂ハイカラ連中なりしなり。此連中が今日は横浜へ日帰りをせしとか、明日は日光へ行くとか、それ位が自転車の主たる業務なりしなり。然して価格の如きもほとんど三百円以上ばかりにして、実に高価の贅沢品なりしなり

九、宮田工場
前述の本所の森田工場も、神奈川の梶野工場も、宮田工場と同じく自転車を盛んに製造せむとせしが、今日にては森田・梶野の二工場は其業を止め、独り宮田工場のみ本所にて旺んに自転車の製造をなせり

十、日清戦争と自転車
斯くして日清戦争は開かれ、贅沢品は其費用を避くる趣きあり依て日清戦争以前は、多少の使用者を出せしも、開戦と同時に市中に其乗用を見ざるに至れり。而して一面は宮田工場は政府用の御用を命ぜられ、戦時の用品を製造せざるべからず、ために自転車製造の余暇なし、二十七八年より三十四年までは宮田工場に於ても全く全製造を中止し、一般には全く其乗用を中止する有様となれり


この記事について、少し私見を述べると、

一、明治20年前後にダルマ自転車を輸入・・・明治19年に来日したトーマス・スティーブンスの影響で、このころからダルマ自転車が輸入されるようになった。梶野も恐らくコロンビア製のダルマ自転車をアメリカから輸入して、更に自社でも木製のダルマ自転車を製造した。よって、この20年前後に云々という見解は妥当である。

一、明治24年頃に安全車の輸入・・・これも適切な年代である。梶野や大倉組銃砲店などがこの頃からセーフティ型自転車の輸入販売を始めている。

一、明治25年頃から国産製造が始まる・・・これも適切な年代で、梶野、宮田、森田もこの頃から国産車を製造し始めている。

一、文中に森田某とあるが・・・これは東京・本所の森田自転車製造所で、明治28年11月23日付け東京朝日新聞に広告を載せている。明治30年7月24日付け時事新報には、国産自転車、清国へ初輸出 森田自転車製造所とある。

一、パンクの修理の状況についても、当時の現状を適切に現わしている。

以上のようなことで、記事としては短文だが、史実に極めて近く、よくまとめられている。
(明治時代の人が明治期のことを書いているから、当然だと言えなくもないが)

2020年10月13日火曜日

シンガー三輪車

 昨日、何気なくFacebookを眺めていたら、シンガー三輪車(1879年頃)の写真がアップされていた。

以前にオランダのトムさんがロンドン科学博物館で撮影した写真と見比べると、僅かだが相違点が見られた。

まず、三つのシンガー三輪車の写真を並べてみる。

①以前、オランダのトムさんが撮影した
シンガー三輪車

②ラトビアのアントン・ブリノフさんが
コベントリー・トランスポート・ミュージアム
で撮影したシンガー三輪車
昨日、FacebookにUPされていた

③以前、Team-BHP.com(自動車関係の評論とニュース)
 に出ていたシンガー三輪車

撮影の角度が若干違うので少しわかりずらいが、順次眺めてみる。

一、②のまず目につくのはペダルの前に突き出ている雲型の意匠である。ペダルの前ではなく前輪のフレームについているのか、この写真では判然としない。

一、サドルの状態とフレームの部分が相違している。②の方がしっかりしているように思える。

一、②の前輪のタイヤの右寄り上部のステアリングのステーの形状と構造に差異がある。

一、どちらかと言えば、①よりも②の方が少し洗練されているようであるが、製造年の新旧はどちらであろうか?

一、③は①に近いが、肝心なサドルが欠損している。

一、その他、細部をよくみると若干相違があるが、明らかに違うところが上の3点である。

シンガー三輪車は、何度もこのブログで取り上げているが、日本に明治16年頃、確実に輸入されていた三輪車だからである。何度も述べるが、鈴木三元に影響を与え、宮武外骨が乗っていたからである。
今後もシンガー三輪車に関する情報が出れば、その都度このブログで取り上げたいと考えている。

●昨日の梶野仁之助伝(その2)で一部修正し、資料として新編相模風土記の太井村の部分を追加した。

2020年10月10日土曜日

自転車はどこを走ればよいのか?

かれこれ40年前になるが、いまだにこの表題の言葉は色あせていない。
むしろ濃くなっている現状である。
自転車で安心安全に走ることができる道路がないのである。
かえって40年前よりも自動車台数は大幅に増え危険は増している。
特にトラック便の輸送が急激に拡大し、以前にはトラックが入ってこないような狭隘な道路にまで進入してきている。
サイクリングの専用道が少しできたにもかかわらず、専用道とは名ばかりで、いまでは犬の散歩コース、ジョギング・コース、老人の散歩コース等に化している。ここも快適に走ることができなくなっている。
それは何故か?自転車はいまだに自動車よりも下に見られている感がある。侮蔑的な言葉であったチャリンコがいまでは一般的な言葉になり、公共放送でもチャリと言う言葉が平然と使用されている。格差や差別を云々する割には、この辺に関しては無神経である。言葉の成り立ちも意味も考えようとしていない。
私は外国の自転車専用道の状況を調べたわけではないが、ネットなどの情報から知りえたところでは、イギリスやオランダ等では改善されつつあると聞いている。
日本では道路環境の整備をしないで、最近では自転車の交通取締りを強化し、自転車のモラル低下ばかりを強調している。確かにモラル低下は一部にはあるとしても、そもそも健全な道路がないからで、それは問題の矛先を転嫁しているに過ぎない。

下の記事は、約40年前のもの。
いまでも違和感なく読めると思う。それだけ変化がないし、むしろ悪化の傾向にあるからである。

1982年(昭和57)5月15日発行、日本自転車史研究会の会報 第3号

自転車はどこを走ればよいのか?
現在の日本の道路は全く自動車に占領され、歩行者や自転車は、遂に道路の片隅に追いやられてしまった。それでも最近、歩道の方は少しづつ製備され、なんとか歩行者は救われようとしているが、依然自転車はそのままの状態に置かれている。そして悪いことに、自転車を歩道に上げることによって、本来つくらなければならない自転車専用道路をうやむやにし、このような小手先だけの措置で解決を計ろうとしている。一体、この自転車を歩道に上げるという考え方は、どこからきたのであろうか。
1970年6月10日、神奈川県警は全国に先がけて、横浜、川崎市内の歩道で、この「自転車通行可」という考えを実行に移した。そして、現在ではこの考えが全国的に広がり、自転車が歩道を走ることは、当然のようになってしまった。しかし、自転車が歩道を走るということは、自転車に乗る者も迷惑だが、それ以上に歩行者は迷惑だし、また危険でさえもある。
私も自転車で歩道を走ったことがあるが、何度か歩行者とぶつかりそうになった経験がある。それに歩道はやたらと段差があったり、電柱や看板、ひどい商店になると歩道まで占拠して商品を陳列したりで、とても気持ちよく走るなどということはできない。
やはり自転車は、専用道路を別につくり、そこを走るべきであって、歩道は総て歩行者に返さなければならない。行政当局もこのようなことは、百も承知しているのであろうが、どういう訳か、むしろ、自転車を歩道に上げることに積極的である。確かにこの考えは、一番金のかからない方法には違いないが、それだけにまた弊害も大きいのである。このままの状態では、いつの日か、自転車が歩道を走ることがあたりまえになり、人々は何にも言わなくなってしまうかもしれない。
そこでもう一度声を大にして強調しておかなければならないことは、あくまでも自転車が歩道を走ることは暫定的なものであり、将来、専用道路ができるまでの一時的措置にすぎないということである。
岩波新書、「都市と交通」の中で、著者の岡並木氏は「たしかに市街地に自転車がふえて、自動車と自転車の事故が無視できなくなった(1975年から5年間の警察庁統計によると、毎年交通事故死者の11~12%は自転車。79年は実数で1,005人)。しかし、自転車の通路はおいれとつくれそうもない。そこで緊急避難先として歩道に逃げ込むことを許した。ここまでは理解できないではない。しかし緊急避難先はあくまで仮の宿であって、その間に自転車がほんとうに落ち着く先をつくるという前提がなければおかしい。 ところがその後、人通りの多い市街地で自転車のための専用空間がどれだけつくられたであろうか。道路管理者や警察当局は、自転車を歩道にあげて、自転車とのトラブルが減ったことで満足してしまったのではないだろうか。」
明治の初めより交通機関の一つとして現れた自転車、確かに初期のうちは物好きな連中の遊び道具のようなものであった自転車だが、次第にその実用性が認められ、大正時代に入ると、それまで交通機関の主役であった人力車を侵食しはじめ、ついには駆逐してしまった。そして、現代は自動車の時代であるといわれているが、その必要性はなんらかわっていない。むしろ、自然との調和とか、健康的なスポーツという面からみなおされ、その重要性はますます大きくなっている。 ところがあまりにも私達の身近にあるため、ついに忘れられ、歩道の片隅を走らなければならなくなってしまった。歴史的にみても当然自転車は、専用道路を与えられなければならないし、そのような権利さえもあるように思える。
本来、自動車は車道、歩行者は歩道、そして自転車は自転車道という図式でなければならないのだが、現実は、自転車の走る道がないのである。
それでは、歩道がだめならいったいどこを走ればよいのか、やはり現在のところ、あの危険きわまりない車道を走らなければならないのである。それもコソコソと遠慮しながら車道の端を走らなければならない。ところでこの車道の端だが、ここが一番危険なところなのである。というのは、この車道の端は道路の構造上、あらゆるゴミ、雨水等が集まるようになっているからだ。道路の断面図を想像すればわかるように、ちょうどカマボコのような形をしており、自然に、小石やガラスの破片、ゴミ、泥、雨水等が集まるようになっている。道路清掃車が掃除する部分をよく見ればわかると思う。このようなところを自転車は走らなければならないのである。だからそれだけタイヤがスリップしやすいし、またパンクの可能性も多く、危険なのである。それから、この車道の端を走ることで最も危険なことは、いつ自動車が追い越してきて急に左折してくるかわからないということで、私も3回程、この自動車の左折時に事故にまきこまれている、幸いケガの程度は軽くて済んだが、もし運が悪ければ死亡事故にもつながりかねない。
このように恐しいところを自転車は走らなければならないのである。大型トラックのミラーの欠陥や死角等を問題にするまえにもう一度原点に立ち帰り、自転車はどこを走るべきか考えなければならない。(オ)


2020年10月9日金曜日

岡本松造

 今日は岡本松造である。

岡本松造 (おかもと しょうぞう)1876年-1942年の略歴、

1876年(明治9)3月、岡本半四郞の長男として奈良県の上ノ郷村に生まれる。
1885年(明治18)、自転車部品の製造を始める。
1899年(明治32)、名古屋の古渡町に小さな工場を建てる。
1903年(明治36)、初の岡本製国産自転車を完成させる。
1909年(明治42)、ドイツ、イギリスへ渡航。現地の自転車工場などを視察。
1910年(明治43)、「岡本兄弟合資会社」を設立し、名古屋の御器所村に工場を建設して本格的に自転車の生産を始める。
1919年(大正8)、会社名を「岡本自転車自動車製作所」に改称。
1923年(大正12)、製造台数が年産5万台以上になる。
1924年(大正13)、多数あった車種を廃止し「ノーリツ号」一本に集中して大量生産体制を確立する。
1935(昭和10)、会社名を「岡本工業」と改称し、事業を拡大。オートバイ、飛行機車輪なども生産。戦時下では軍需工場となり、従業員3万人の大規模会社になる。
1939年(昭和14)、岡本航空機工業株式会社を設立。

岡本松造(1876年-1942年)

以下は昭和4年1月8日付け大阪毎日新聞の記事である。
(戦前の貴重な資料であり、全文を掲載)

自転車と自動車の功労者
岡本松造氏

我国自転車製作工業界の先駆者にして又恩人として筆者は輪業界に我が岡本松造氏あることを深く喜びとするものである。
氏は株式会社岡本自転車自動車製作所の創始者にして現に同社の社長である。
明治32年、氏によりて創始されたる自転車工場は誠に微々たる一小工場にすぎなかったが幾多の犠牲と努力の結果として今日東洋一を誇る岡本製作所たらしめるまでに至ったのである。
氏は弱冠にして郷里奈良県を出で名古屋に居所を定め自転車製造を目的とした一小工場を開設したが当時は、自転車といへば其殆どが輸入品にして日本製といへば自転車の一小部分品のみにして然も多くは使用に耐へない程度の幼稚なるものであった。自転車製作に手を初めた氏に取ってこれは甚だ遺憾のことであった。氏は如何にしても自己の手によって完全なる自転車を完成せんと胸底深く期するところがあり、日夜寝食を忘れてこれが研究に傾倒し、その結果同35年には1ヶ年240台の完成車を製作して市場に提供せしところ、非常に好評を以て一般に迎へられたのであった、こえて翌36年には1,000台を出し、漸次多きを加えるに至った。
然し、当時にありては依然として輸入品が非常に流行歓迎せられ、内地製品はほとんど顧みられない実状にあった。氏は産業発達上又国産奨励の見地より如何にしてもこのすう勢を打破するを最大の急務なりと信じ、これには品質において輸入品に代るべき内地製品を得るにあらざれば到底これに成功することは出来ないものであるとし、進んで斯業視察のため欧州諸国の著名自転車工場を歴訪して実地に彼の地の製作状況を研めていよいよ平素の信念を固め、且つこの視察に依って最新の知識と優良なる機械器具を携へて帰朝したのである。
ここに於て氏の工場は全く面目一新し、舶来品同様の製作方法に依ってしかも日本人向のいわゆる岡本式の自転車を完成したのである。
これが我国に於ける最も完全なる国産自転車として、又舶来品以上の日本人向の自転車として江湖の称賛を博した最初のものであった、このころ自転車の常用目的が娯楽用より全く実用的に使用される時代となり、岡本製の自転車は舶来品以上の丈夫な自転車として一般から多大の信用を得て需要に応じきれない程の盛況を呈したのである。がぜん大正8年の生産高 58,000台に上り、ますます注文殺到の有様で当時の全生産力を以てしても、これを満たすことは困難となって、いよいよ工場狭隘の急をつぐるに至り、株式会社と組織を変更の上一大資本を投資し大量生産設備を完成して規格を制定せる単式型ノーリツ号を製作して今日の如き東洋一の名実兼備の大量生産工場の建設を見るに至ったのである。
御大典には多年の功労者として緑綬褒章を拝受し、重々なる光栄に感泣して唯々業務に精励以って国産品の進展に努力する覚悟なりと、ますます国家産業のため氏の満進を祈るものである。

岡本自転車自動車製作所 1919年(大正8)
名古屋市御器所町

2020年10月8日木曜日

自転車断郊競走

 第1回 関東自転車断郊競走

関東自転車断郊競技

この競技は、昭和12年4月27日、陸軍戸山学校野外総合コース(3㎞)で行われた。
この日、天気はあいにく雨であったが、むしろこの競技にはふさわしいコンディションであったかもしれない。
現在でもこの種のレースは、クロスカントリー、シクロクロス、ダートライド等と呼ばれ、ヨーロッパでは冬場盛んに行われている。
日刊プロスポーツ新聞社の創設者で元会長であった月岡朝太郎氏(1911年ー1984年)はこの日のレースに参加し、実用車班クラスで2位の成績をおさめた。同氏の著書である「自転車競走」に、
「然し昭和12年日支事変のぼっ発以来、自転車競技も戦時色に変化し青年学校自転車競技が盛んに行われるようになった。
・・・・また断郊競走なども行われた。これは外国では当時も現在も行っていて必ずしも戦時色とはいえないが戸山学校では軍隊が構築していた塹壕を渡らせたり、国立(くにたち)の大学校では雑木林の中を走らせたりした。勿論走るといっても途中自転車をかついだり押したりしなければならないコースが選ばれていた。(筆者が始めて自転車競走に参加したのが戸山学校で行われた第1回関東自転車断郊競走で、実用車班2位の成績であった)

記録:
実用車班
 ①11分33秒2 小出 清 (K.B.C)
②13分9秒2  月岡朝太郎(東京)

軽量車班
 ① 10分43秒 渡辺剛志(東京)
② 13分19秒2 和田弥太郎(東京)
③ 20分56秒4 小西鉑太郎 (K.B.C)

純競走車班
①9分51秒 木内良敏(東京)
②9分53秒8 古内作衛(東京)
③9分56秒8 鷲見信一(東京)

以上

この競技が開催された昭和12年と言えば本文にもあるように、まさに日本が中国との全面戦争状態に突入した年である。