実は前回、「梶野仁之助の生涯」の原稿を編集部に渡すとき「次は三元車のことを書きましょう」と約束をしていたのである。
三元車については私たち日本自転車史研究会のメンバーの何人かが、一年ほど前から連絡を取り合って資料を集め調べていたから、まだはっきりしない部分はあるものの、未公開の事実が発表できる――と思っての約束であった。
だが、雑誌『サイクルスポーツ』9月号にとつぜん「三元車物語」というのが掲載されたのである。読んでみると、ほぼ私たちのメンバーが調べたことが出ているのだ。どういう経路でその資料が出たのかはすぐにわかった。
何も特別な著作権のあるものではなし、文句をいう筋合いではない。多くの人に「知られざる銀輪のわだち」を知ってもらうための研究会なのだから、どこで発表されようと結構なことなのである。
しかし、メンバーの何人かは、自分たちが苦労して収集した資料が、断わりなく先を越されて使われたことが愉快ではない。「三元車のことはいまさら研究会の機関誌にも載せたくない」ということにさえなってしまった。
とすれば、二番煎じになってもこの誌上で三元車のことを書いておかねばならない。まして編集部へのお約束でもある。
三元車とは何にか?聞きなれないことばだがそれは読み進んでいけばおわかりいただける。
「東野氏の三輪車から三元という文字が出た」
というのである。突然だったが一つ思い出したことがあるのでこう答えた。
「鈴木三元という人が明治の初期に自転車を研究していた、という記録を見たことがあります。果してその木製自転車の三元と結びつくかどうかはわかりませんが……」と。そして、私の手持ち資料をコピーして三輪さんへ送った。
この電話にある "大阪の東野氏の木製自転車”について説明しなければなるまい。東野氏はレストラン経営のかたわら、わが国古来の科学機器の収集家であって、伊能忠敬の方位儀、平賀源内の徒歩計などを数多く集めてきた。将来、有志とともに日本科学史博物館をつくろうと設立準備委員会を結成している。
これが”東野氏の木製自転車”であり、発見後しばらくしていくつかの新聞でも報じられたからご存知の方もあろう。このことは発見に一役買った日本自転車史研究会顧問、高橋 勇さんによって私たちに知らされていた。だが、この木製三輪車の素性はただ相当に古い、という以上にはわかっていなかった。
三元という字らしいものが見つかったと聞き、私が鈴木三元の名を思い出して三輪さんに送った資料は『ふくしま一世紀』など福島県の郷土史に類するもののコピーで、鈴木三元とはそこに登場してくる素封家の名である。しかし、そのときには、まさかこの木製三輪車が鈴木三元とズバリ結びつくとは思ってもいなかった。
二人乗りの「奇器」が走る福島ー東京を二日半
三輪さんから鈴木三元の存在を知らされた東野氏はすぐ福島へ調査の手を伸ばした。またわが会員で福島県の真船さんも調査をはじめた。すると意外にも、桑折町に現在も鈴木三元氏が健在であることがわかった。
新発明か否か完成まで10年の証言
博覧会へ出品した二人乗りの車がどのようなものか手がかりはないが、発見された三輪車は前述のような構造でペダルを踏むとクランクが後輪を動かす。車輪径こそちがうものの発想自体は上図の1879年製シンガー社製(英国)のものと酷似している。
ただ鈴木家の四代目夫人であったタネさんが家につたわる話として『福島百年の人びと』という本の中で語っている記録には「三元車は完成までに10年以上かかったといわれている。上野の博覧会では大評判で、私の父が当時16才で上野まで走ってたいへん驚異の目で見られたと聞いている」とある。これが事実なら初代三元は明治初年から自転車の研究をしていたことになり、独自の発明とも考えられる。
鈴木三元は文化4年、福島県随一の素封家に生まれ、この研究に巨額の資産を投じ狂人よばわりをされたという。博覧会の時は67才、その9年後に世を去っている。その若々しいエネルギーには脱帽のほかない。













