2009年2月26日木曜日

アニーロンドンデリー

  アニー・コーエン・コプチョフスキー(1870-1947)は、1870年にラトビア、リガのユダヤ人家庭に生まれました。その後一家はアメリカに移住し、アニーは、1888年にマックス・コプチョフスキーと結婚しました。4年の間に3人の子供にも恵まれました。
 その後アニーは、ロンドンデリーリチアスプリングスウォーター会社に就職しました。仕事は宣伝用のプラカードを自転車につけて走り回ることでした。賃金は100ドルと安い広告料を貰うだけでした。自分の名前も会社からアニーロンドンデリーという芸名のような名前を名のるように言い渡されました。
 アニーが世界一周を決意することになったのは、ボストンの二人の富豪による賭けが原因のようです。「女性が自転車を使って、1年と3ヶ月で世界を一周できるか」というものでした。賭け金は1万ドルですが、それにはいろいろな条件が付随していました。金銭を一切持たないでスタートすることなどでした。ですから彼女は旅行中は広告料や体験談の講演などをしながら費用を捻出しました。それでも2,000ドルを稼ぎ出したようです。宣伝広告は、当然、自転車や彼女の衣服に目立つようにつけました。なぜそこまでして、この様な賭けにのったのでしょうか。会社の目論見と彼女の強い意志がそうさせたのでしょうか。女性の地位は当時欧米でも低く「女に何ができる」という風潮があったことでしょう。女性の社会的地位の向上や解放運動も芽生えてきた時代でした。女性が男性と同じように自転車に乗ることも、一つの要素になったことでしょう。自転車に乗るには長いスカートや窮屈なコルセットは不向きです。自由で開放的なスポーティな服装が必要でした。
 自転車の普及により、女性の服装も徐々に変化してきました。アメリカで創作されたブルマーもその一つです。ジョセフ・ボトムレーは「自転車、その過去、現在、未来」の著書の中で、ブルマーを「アメリカ人の道徳的不品行」と述べています。保守的なヨーロッパでは、まだまだ女性の自転車乗りに対して批判的だったようです。アニーの挑戦は、そのような批判に対する反発もあったことでしょう。女性の地位の向上とあらゆる束縛からの解放ではなかったかと思われます。それに私にもできるという強い信念がありました。
 アニーは、3人の可愛い子供と夫を残し、いよいよ自転車で旅立つことになりました。1894年6月、ボストンを出発した彼女はシカゴに向かいました。ところが自転車の旅は、当初思ったほど楽ではありませんでした。自転車もコロンビア社製の重いもので、重量は19キロもありました。それにこのような窮屈な服装ではこれからの長い旅がたいへん困難に思われました。とてもこれでは世界一周などできないという悲観的な気持ちになりました。そのように悲嘆にくれる彼女に転機が訪れたのは、自転車と衣服の改善でした。この二つの改善により新たな希望が再びわいてきたからです。それは、長いスカートから軽快なブルマーに着替えることと自転車を重いコロンビアからスターリング社製自転車に交換することでした。スターリングは、堅牢で重量も軽く10キロ近いものでした。スターリングは、日本でも明治38年頃日米商店が輸入し、人気のある銘柄の一つでした。この服装とこの自転車なら旅の成功も可能であると思われるようになりました。気持ちを新たにしたアニーは、シカゴを再スタートし、当初考えていた地球を西回りするコースから東回りでニューヨークに向かうコースに変更しました。一つには時期的に冬を迎えますので、強い偏西風による太平洋の荒波を避けたものと思われます。
 11月、ニューヨークからフランスへ渡る船にのり、いよいよ世界一周の旅が始まりました。その後、パリから地中海へ出て、船でエジプトに向かいました。アラビア半島は陸路を自転車で縦断し、イエメンに向かいました。イエメンからは、また船にのりスリランカ、シンガポール、香港、上海、韓国を経てやっと日本にたどり着きました。日本に何月何日に来着したか定かではありませんが、宣伝広告を兼ねての旅行ですので、目だったはずです。恐らく横浜に着いたときから、サンフランシスコに向けて出発するまでの間は、物見高い日本人が大騒ぎをしたと思います。それとも「女のくせに」という呆れたような白い目で見たのかも知れません。何れにしても、当時のマスコミはあまり騒ぎ立てた形跡がありません。今後は、この辺の調査も必要かと思われます。恐らく新聞や雑誌に話題を提供したと思います。今のところ国内の二紙(東京朝日新聞と英字新聞のジャパン・ウイークリー・メール)が報道しているだけです。
 横浜を発ったアニーは、その後太平洋を船で渡り、カリフォルニアからまた自転車でアメリカ大陸を横断し、1895年9月に無事シカゴに戻りました。
 賭けがどうなったか知りませんが、恐らく金に汚い金満家のようですから難癖をつけたのではないでしょうか。
 自転車世界一周といっても、殆んどが船の旅のようでした。例えば日本の例をとっても横浜から横浜では、恐らくその間に東京に立ち寄った程度ではなかったかと思われます。トーマス・スチーブンスは、日本だけでも長崎から横浜までサイクリングを実際にしています。それに自転車はセーフティー(安全車)ではなく、不安定な前輪の大きなオーディナリー(ダルマ自転車)でした。
 だからと言って、アニーの成し遂げた女性によるしかも単身の世界旅行は歴史に残る快挙であり、素晴らしいことには相違ありません。この事実は歴史に書きとめるに相応しい価値あるものだと思います。
 女性の世界旅行者は、同じ頃もう一人現れています。ファニー・ブロック・ワークマンです。夫のウイリアムと10年間も世界中を旅行しています。1895年には自転車でアトラス山脈を越え、サハラ砂漠に至る難コースを制覇しました。日本に来日したかは、いまのところ不明です。

 写真は、アマゾンの書籍案内から転載しました。
 Around the World on Two Wheels: Annie Londonderry's Extraordinary Ride