2009年3月6日金曜日

梶野甚之助?

 今日のある新聞記事に自転車の歴史に関する記事がありました。次のような内容です。

「・・・幕末から外国人が二輪や三輪のものを持ち込んでいたが、明治十二年梶野甚之助が蓬莱町に製造所を設立して開発に乗り出し、木工技術をいかした日本人ならではの木製自転車を売り出した。翌十三年には利用者が増えるのを見込んで元町の石川孫右衛門が貸し自転車を始めた。自転車のことは居留地三十一番地で鍛冶屋を営むキルドイルに教えてもらったという」

 以上がその内容ですが、梶野の名前の誤りや根拠の薄い内容が殆んどです。梶野甚之助は梶野仁之助が正しく、私は昭和58年に誤りであることを書いていますが、いまだに変わっていません。
 どこかの国の議員のようなあげあしとりに始終するようなことは言いたくありませんが、疑問点はあげておきたいと思います。

「幕末から外国人が二輪や三輪」とありますが、三輪はともかく二輪を幕末に持ち込んだという根拠はどこにもありません。具体的な資料があれば提示していただきたいと思います。

「梶野甚之助」これについては、昭和58年に私は梶野仁之助の甥、松本次郎吉の長男であります横浜に住む松本春之輔さんを尋ねています。そこで、梶野仁之助が明治28年5月6日にときの神奈川県知事中野健朙よりその功績を称えられ賞状と木杯を授与されていますが、その表彰状に梶野仁之助と書いてあります。このコピーを私は松本春之輔さんからいただきました。

「翌十三年・・・石川孫右衛門」が貸し自転車をはじめたとありますが、これも当時の具体的な資料はいまのところありません。どこから石川孫右衛門の話がでたのかさっぱりわかりません。この辺の出典は「横浜もののはじめ」(横浜郷土双書第一巻 改訂版 横浜市図書館 昭和49年発行)あたりから引用されたものだと思います。その本にはつぎのようなことが書いてあります。

・・・横浜元町の石川孫右衛門は、居留地にあるフランス商館チリドル商会へ行った際、チリドルが日本に着いたばかりの自転車を乗り回しているのを見ます。チリドルは、「自転車は汽車の次に早い乗り物で、練習すればどんな狭い道も走る事ができる便利なものだ」と説明しました。これを聞いた孫右衛門は、高価で誰もが簡単に手に入れる事の出来ない自転車を時間貸しする事を思いつきました。
当時、自転車は1台が銀16枚したと言われています。それを孫右衛門は16台購入して、1877年(明治10年)に横浜元町で貸自転車業を始めました。
物見高い人々は文明開花の香りを漂わせて走る曲芸的な乗り物に好奇心を寄せ、1時間25銭という高い賃料にもかかわらず、在庫の自転車が不足するほど繁盛したそうです。
1877年(明治10年)頃からは、輸入自転車に加えて、地元の鍛冶や車大工に作らせた国産の自転車も使用していたようです。
大繁盛した石川孫右衛門の貸し自転車屋も、1883年(明治16年)の大火により自転車を全て焼失し、廃業してしまいました・・・。

 いずれにしても一度このような内容が印刷されますと、ほぼ永久にどこまでも伝えられ、更に引用や孫引き脚色などが加えられ、あたかも真実のようにそれが発展していきます。大胆に言えば歴史の記述などは殆んどが嘘か誤りで構成されているのでしょう。まあその辺が歴史の醍醐味や面白みであり事実よりも面白くしています。
 私はデジタル化した文章が好きです。なぜならいつでもデリートキーを1回押すだけで、きれいさっぱりと削除されるからです。誤りや嘘をいつまでも後世に晒すことがないからです。