2009年3月15日日曜日

内国勧業博覧会

 内国勧業博覧会に出品された自転車の状況について、ふれたいと思います。

 内国勧業博覧会は、明治の近代国家建設にあたり科学技術や文化などを民衆に知らしめ、啓発することを目的として開催されました。

 第1回は、1877年(明治10)に上野公園で開催されています。この博覧会には自転車は1点も出品されませんでした。すでに前のブログ(水茶屋)でも書きましたように明治10年以前はミショー型自転車やダルマ自転車は日本に殆んど無かったからです。あるといえば竹内寅次郎がラントンを手本にして製作 した木製のラントン型三輪車のみでした。すでに最初の製作から7年も経ってしまった陳腐化したラントン型三輪車を勧業博覧会に出品する理由もみあたりません。いずれにしても日本国内の自転車の状況はその程度でありました。

 自転車は第2回の内国勧業博覧会(1881年明治14)に登場します。出品者はいずれも福島県人で福島県磐城国東白川郡関岡村の斉藤長太郎、福島県磐城国玉山村の坂口清之進、福島県岩代国伊達郡谷地村の鈴木三元の3名です。
 なぜ福島県人なのでしょうか。私は鈴木三元が中心になって製作した三輪車を他の二人が協力し或は何らかの交流があったものと見ています。鈴木三元は地元の資産家ですから三輪車を開発する資金は充分に持っていたはずです。鍛冶屋をはじめ多くの職人を使っていたと思われます。
 この3人の出品した自転車はどのようなものだったのでしょうか。現存する三元車から判断して、何れも同様な三輪車であったと思われます。英国のシンガーを参考に製作したはずです。ですから自転車といってもすべて三輪車を出品したのでしょう。

 第3回内国勧業博覧会は、1890年(明治23)にやはり上野で開催されました。自転車の出品者は、東京府京橋本湊町の山崎治兵衛、東京府浅草区北三筋町の向山嘉代三郎の2名です。山崎治兵衛は販売者及び資金援助者で実際に製作したのは、横浜高島町の梶野仁之助でした。向山嘉代三郎は、浅草にあった帝国自転車諸機械製造所です。
 それではこの両名はどのような自転車を出品したのでしょうか。明治23年ですからまだこの時期、セーフティー型自転車(安全車)は輸入されていません。恐らくオーディナリー自転車(ダルマ型)であったと思います。それを象徴するかのようにこの第3回内国勧業博覧会の錦絵がありますが、ここにもダルマ自転車が描かれています。両名ともダルマ自転車を出品したのです。アメリカ製のコロンビアなどを参考に製作したものと思われます。

 第4回内国勧業博覧会になりますといよいよセーフティー自転車(安全型)の登場になります。1895年(明治28)に東京から京都に会場を移し開催されました。出品者は3名です。東京府本所菊川町2-52の宮田栄助、神奈川県横浜市高島町5丁目の梶野仁之助、宮城県仙台市東三番町の橋本峰松です。
 この時期(明治26年頃から)になりますとアメリカと英国から多くの安全型自転車が輸入されるようになりました。名前をあげますとアメリカのビクターや英国のハンバーなどです。ですからこれらを参考に安全型を製作したはずです。殆んどのパーツはまだ国産化になっていませんので、完全な形での国産車ではありませんでした。現在まで名前が残っている老舗の宮田自転車がやっと顔を見せています。

 第5回内国勧業博覧会は、1903年(明治36)に大阪で開催されました。20世紀を迎えてのは博覧会でした。自転車関係の出品者は9名に増えています。名前だけあげますと、宮田栄助、梶野仁之助、角利吉、眞島安兵衛、宮林操三、(以下自転車部品の出品者)梅村鎌吉、大石峰次郎、平野光三郎、 岡実康です。
 この時期になりますと、いよいよ本格的な国産化が始まり、殆んどのパーツを国内で製造・調達できるようになりました。(チェーンが一番遅かったのではないでしょうか)

 それでは、この内国勧業博覧会からどのようなことが見えてくるのでしょうか。大雑把にいって、次のように結論付けることができます。

明治3年~明治10年 自転車は殆んどすべてラントン型の三輪車であった。

明治14年頃 自転車はシンガー型の三輪車であった。(英国のスターレー&サットン製メテオ三輪車も輸入されていた)

明治20年~明治23年 自転車の主流はダルマ型の二輪車であった。

明治26年~明治28年 ハンバーやビクターのような安全型であった。

明治30年~明治36年 一部のパーツを除き国産化が本格的にはじまる。

この内国勧業博覧会からも自転車の変遷を垣間見ることができます。

写真提供:自転車文化センター