2021年2月7日日曜日

空中自転車と水上自転車➅

 空中自転車と水上自転車➅

 これも先に紹介した同じような錦絵に描かれた空中自転車である。名前は「空車」と書いてある。この錦絵は、国政、国貞作の"往来車づくし”(明治3年7月)であり、原図はトヨタ博物館(愛知県長久手市横道41−100)などに所蔵されている。

 空車の他にも、水溺車(先に紹介した水上自転車)とか、蒸気車、後押自転車、人力車、馬車、自転車など、車輪の付いた乗り物がたくさん描かれている。これらの車のほとんどは実際にあったものであるが、この空車とか水溺車は想像により描かれたものである。

 あえてこの空車を解説すると、一見当時の黒船(外輪船)に似ている。どのようにして飛ぶのかさっぱり想像できないし、また考える必要もいない。まさに空想そのものである。黒船に似たものを空に描いたにすぎない。

 別の錦絵(東京繁栄車往来之図)には気球も描かれているものもあり、それには「風舩」と書いてある。或はこの画を見て空車を思いつき描いた可能性もある。空にも賑やかに何か描きたかったに相違ない。

「空車」 往来車づくし
国政、国貞作 明治3年7月

全体図
中央上のくずし字には「品川宿の景」とある

「風舩」錦絵の一部分
東京繁栄車往来之図 芳虎
天理参考館所蔵 明治3年

2021年2月6日土曜日

空中自転車と水上自転車⑤

 空中自転車と水上自転車⑤

また今回も水上自転車、いつになったら空中自転車が出てくるのか?
もうしばらくお待ちを、後半に出てくるので。

これは錦絵に登場した水上自転車である。発行年は分からないが、この手の構図から判断して、明治3年頃の錦絵、この原画は天理大学附属天理参考館(奈良県天理市守目堂町250)などが所蔵している。

画を見ると、これが水に浮くとはとても思えない代物である。構造もさっぱり分からない。あえて解説すれば外輪船に近い構造のようである。日除け或は幌付きに注目すれば小型帆船にも見える。いずれにしても不可解である。たぶん想像で描かれたものと思われる。名前は水溺車、名前からして溺れそうである。

ラントーン型の木製三輪車が登場してから、いろいろな形の乗り物が錦絵に描かれるようになった。この画もその一つ。

水溺車

全体図
当世い車づくし
辻岡屋亀吉 明治3年頃

2021年2月5日金曜日

空中自転車と水上自転車④

 空中自転車と水上自転車④

 ドーバー海峡を泳いで渡ったというニュースは、以前なら話題になった。しかし、最近ではトライアスロンが盛んになったせいか、余り珍しいことでなくなった。
ところで、今回の記事は、水上自転車でドーバー海峡を渡らん、という話しである。

明治27年8月5日付けの毎日新聞に、次のような記事がある。

「自転車を駆りてドーヴァー海峡を横ぎらんとす。
 自転車の欧州に流行するもの、今や実に滔々、而して曼国のジオルジー、ピンカルトが、最近此器を利用して、英国ドーヴァー海峡を横ぎらんと企てたるに至りては、最も新聞紙の好資料たるに適す。
 自転車は、簡単に其構造を述ぶれば、非常に浮泛性に富める材質を以て、其双車輪の中体を改造し、恰も凸鏡の看をなさしめ、而して其上より直径4フィートに余る大車輪をはめ、なを外周に、水かきを装置したるものなり、(此自転車が陸行に用ゆべきは勿論なり)自転車の特許を受けたるは、1883年のことにして、発明者は、同じく曼国のヘル・ピンカルトなり、而して速力は、1時間6マイル、今回の渡航の如きも、実にわずか5時間余を以て了するはずなりと、先年英国カプテン、ウェッブが辛うじて測量し得る所によれば、ドーヴァー海峡には、少くとも20余の潮流あり、水勢もまた一般に急激なりと云う。
 ジオルジー、ピンカルト果してよく其奇異の渡航を成功し得るや否や」

 新聞のイラストを見る限り、この水陸両用自転車はものになりそうである。このような形のものをどこかで見たような気がする。しかし、これだけのもので潮の流れが速いドーバー海峡を渡るのは大変なことであろう。はたして成功したのであろうか。
水上自転車は他にも当時の雑誌などに見えるが、どれも実用になりそうもないものばかりである。

註、曼国とは日耳曼国で、旧ドイツのことである。

自転車を駆りてドーヴァー海峡を横ぎらんとす
明治27年8月5日付けの毎日新聞

2021年2月4日木曜日

自転車日記⑨

 自転車日記⑨

1980年9月19日(金)曇り

 月刊雑誌サイクルスポーツの広告欄に、「自転車に関する珍品、奇品、古道具及び昔の自転車製造工具、警番、木製ポンプ、竹製荷掛、ノーパンクタイヤ、明治時代の自転車等を蒐集しているので、ご存じの方は連絡下さい。
「レジャーランド、フジサワ」というのが載っていた。
 古い物を集める方法として、このように雑誌で探求するのも良いと思うが、果してどれ程の効果があるであろうか。サイクルスポーツ誌は、どちらかと云えば読者層が中学生や高校生などの若い世代なので、あまり期待できないのではないか。それならばむしろマス・メディアの筆頭である新聞に掲載した方が効率的であろう。
 しかし、話しは簡単なのだが掲載料がバカにならない。それに一回や二回の掲載では反応は余りない。ある程度間隔を置いて定期的に掲載する必要がある。 そうなると、余程カネに余裕のある人でないと長続きしない。効率的でしかも安上りの方法でなければダメだ。
 以前、職業別の電話帳を引っぱり出して、近いところの自転車屋さんから片っ端に「お宅には古い自転車やパーツ、カタログ等はありませんか?」と電話をかけた事がある。しかし、全く無駄に終ってしまった。むしろ、いたずら電話でないかと誤解され、相手にされなかった。それに、日本の自転車屋さんは、一般に奇麗好きなので、戦災をくぐりぬけた貴重なものでも、古いものは焼却してしまったか、ゴミとして出してしまっている。だが、田舎のあまり繁盛しない古ぼけた自転車屋さんには、今もあるかもしれない。クモの巣のはった天井に、埃をかぶった古い自転車が吊り下がっていることだろう。壁には赤く日に焼けた古いポスターが貼られ、棚には乱雑に工具や部品類が積んであるかもしれない。
 それでは、どうしたらこの様なものを集めることができるか。一人だけで探していては、自ずから限界があり、結果的にもたいしたものは集まらないであろう。最善の方法は、やはり一人でも多くの同好の士を募り、情報の輪を広げて行くことではないか。


註、現在は便利な時代になった。ヤフオクなどで簡単に探しだすことができる。
ただし、歴史的に価値のあるものは、殆ど不可能に近い。いまだに50年以降のクラッシクパーツなどが中心になっている。それもほとんどが外国製のブランド物に集中している。国産のパーツや完成車はいまだ人気がない。戦前の国産完成車や国産パーツ類に興味が向かうとよいのだが、無理であろうか。
おそらく現物はゴミとして既に捨てられている可能性が高い。
(2021年2月4日、記)

2021年2月3日水曜日

空中自転車と水上自転車③

 空中自転車と水上自転車③

 これも水上自転車の話し、雑誌「輪界」(第11号、明, 42.7.25 発行)に、石山式水上自転車発明談と云う次のような記事がある。

 石山式水上航行器の発明者埼玉県熊谷町48番地平民石山善太郎氏が今回其筋の特許を得たる水上自転車に付き一言せん

 石山氏の経歴
 石山氏は今年26才の青年にして熊谷町に生れ幼にして熊谷小学校に学び明治32年進んで熊谷中学校に入り同校卒業後は専ばら商業により身を立てんと欲し出京の上早稲田大学商科に学びしが中途にしてやめ郷里に帰臥し居たり茲に氏の厳父新蔵氏は幼より発明を好み家事一切は父ならびに家内等に任せ専ら諸種の発明に腐心し従来其功を完うしたる者尠からざりしとなるが明治17~8年の頃より水上航行器を発明せんと心懸け種々苦心する処ありしも不幸にして最新の科学的素養なきため之が発明を善太郎氏に依頼したり然るに善太郎氏も中学こそ卒へたれ工芸科学に関する素養なきより爾来独学にて此等の研究に従事し専念苦心の結果漸々一昨年末に至りて略々理論に合致したる考案成りたるより再び之を持参し上京したり。

 実験の困難
 石山氏は之を友人等にもかたく秘し成功の暁発表せんと思い居りしが如何にせん之が実験の頗る困難にして若し公衆に悟らるるが如きことあらば折角の苦心も他に占領さるるの恐れありとて自身は製図等にも熟練し居ざるより止むなく一友人に託して製図し且つ芝浦製作所理事石川角造氏の経営せる芝区三田四国町の特許模型品製作所に至り石川氏に事情を打明けて製作方を託したるが如何なる事情や伏在しけん石川氏は受託後半年を経過するも之が製作を完成せざりしため昨夏には其筋の特許をも受けんと楽しみ居たることも水泡に帰し焦心憂慮屡々催促をなし漸く昨年 41年 10月頃に不完全ながらも工を竣れり

 実験の結果
 芝浦製作所に於て製造せる同器を以て品川湾にて実験したるが其結果は製作所にて工を粗雑にせるため二、三の欠点はありたれども理論上に於ては全然成功を見るに至りたるを以て直に特許局にも申請し之が特許を求めたるに幸にも特許を得るに至りたり

 価格と製造
 石山氏は熊谷町に於て製造所を有するにあらざるより之が製造販売は直ちに実行するは困難なる由にて氏は今や終生懇命の大発明に腐心し居ることとて之が特許権を譲渡さんとの考えを有し居れりと尚を製造費は全部鋼鉄製として130円ないし180円位にて製作し得る見込みなりと。


以上の記事であるが、
 この水上自転車も図面もイラストが無いため全くどのような形のものか分らない。
芝浦製作所でもまともなものが出来なかったところを見ると、かなり複雑な構造のようである。あるいは理論的にはすばらしい乗物かもしれないが、実用にならない代物かもしれない。
 いずれにしても、これだけの記事から推論することは不可能に近い。ここではただ、石山式水上自転車なるものがあったと云うことを、頭の片すみにでも入れて置きたい。
今後文中にあるような設計図が出て来るかもしれない。


2021年2月2日火曜日

自轉車の歴史

 以下の記事は「科学画報」昭和21年10月1日 発行より。

あらためてこれを読むと、かなり誤謬もあり違和感を感じるが、当時はこれが「自転車の歴史」についての最新情報であった。

自轉車の歴史
 今日では、どこにでも自轉車が走っているから、今更、自轉車の起源を訊ねる者も殆どないが、この自轉車の物語りは一篇のロマンスでもある。
 古い彫刻などを見ると、妙な自轉車らしいものがあつて、古代バビロニャ王國の人々も、事実、自轉車に乗っていたことが解るのであるが、これは例外として、われわれが自轉車と云ふ考へに似通ったものに出会うのは、スチュアート王朝時代の頃である。それは奇妙な考へであつた。2個の車の前後に置いて、足場とする棒のやうなものでつなぎ、その上に乗るのであった。左右の身體を動かせて、足で「押し出す」のである。昔の版画を見ると、紳士達がシルクハットを被つて、村はずれを滑っている図がよくあるが、これはこうした発明を諷刺したものである。一本の棒に跨っていて、然も威厳を保つて滑るなどとても容易な業ではなかったらう。その後、やや改良されて、車も輕くなり、また、以前は、前輪を左右に曲げることが出來ず、そのために、曲り角に來る毎に、乗りては降りねばならなかつたのであるが、その前輪を自由に曲げられるように発明された。そして乗り手が特に「押し出し」の出來るうに、スパイクのついた特殊な長靴が作られた。初期の自轉車は「ダンディー」とか「ホビー・ホース」(木馬)などと稱せられていたが、今日では博物館でも滅多に見られない程、風変りなものであつた。當時はこれに乗る乗り方教授の学校さへ開かれたのである。
然し、本当の自轉車の元祖といふのは今からほぼ一世紀ほど前にスコットランドに住んでいた鍛冶屋のカークパトリック・マクミランと云ふ男で、彼はこの「ホビー・ホース」に1個の曲柄を取り付け、全然地上に足を触れずに、ペダルで車輪を動かすようにした。

 自轉車はその後二十五年足らずのうちに、急速な進歩を遂げ、パリのコンベントリー会社が、一層軽快な自轉車を売りだした。所謂「鐵輪の自轉車」が出現、一八七〇年代までには想像以上に改良が加へられた。木に代り針金の輪止めが使用され車輪は金属製となり、狭い鉄製タイヤが用ひられた。車輪も変化して前輪が大きく、後輪が小さくなった。この種の自轉車は屡々「ペニー・ファージング」と稱せられている。
この型で、後に「オーディナリー」と云はれたものうちには、非常に背丈の高いのがあつて、乘り手は、五十四インチもある前輪の上に座り、その心棒についている曲柄を踏むのである。これは亦非常に危険であつて、 スピードを出すと、よく後方の小さな車輪が、上に持ち上ることもあり、そのために、乗り手は落ちて顔面をたたきつけられる。
 自轉車はその後も絶えず進歩改良が続けけられたが、鉄のタイヤが堅いゴムに代り、更に、はづみの付いたタイヤとなり、一八八八年に、空気入のタイヤが誕生して、現在の自轉車に至つてゐる。この間、車輪の配列も変化し、サドルが後方に移り、危険な前輪も小さくなった。ペダルも、もはや以前のように直接前輪を動かすことなく、後輪につながるギヤ付きの鎖によって、間接的に動かすやうになった。かくして遂に所謂「セイフティ」型の自轉車が出現した。これは旧「オーディナリー」型とは全く反対である。
「セイフティ」型の到来と共に、自轉車乘りは一躍、殆ど世界中に普及され、自轉車やタイヤを製作する会社が続々と現はれて、各々競争し、かくて、自轉車競争時代が始まった。スピードの試験は常に行はれ、自轉車競争を専門職業とする者さへ出て來た。そして、各会社では、これらの専門職業家を雇用し、給料を払って、訓練し、競争場で從來の記録を破らせるのである。
 これらの記録には驚くべきものがあつた。競争が激しくなつて、一人では足りず、二人乗り、三人乗り、果ては十人乗りの自轉車さへ作られた。彼等が一斉にベダルを踏むのである。
 今日では、こんな見世物式自轉車行列もすたったし、自轉車競争職業家を雇うこともしない。もはや、自轉車はわれわれ日常の必要物と化しておるのである。そして更にオートバイが普及されつつある。オートバイも最初は奇妙な形をしていたが、除々に完成され、超スピードをもって、何百哩もの旅行を平気でやれる。然し、如何にオートバイが発達しても、自轉車が全然無用になるということは、先づ考へられないのである。

挿絵
「科学画報」昭和21年10月1日 発行



2021年2月1日月曜日

老舗さんぽ㉙

 秋山サイクルは、40年以上前に尋ねた店である。
その後、ご無沙汰している。

このブログの「自転車日記」にも登場した、藤沢の秋山サイクルだが、知人の渋谷さんの話では数年前に廃業したとのこと。2015年の頃はまだ営業していたから、ここ3,4年の間に店を閉めたようである。
私は46年ほど前に3回この店を利用したが、どういう訳か違和感があり、その後プッツリと疎遠になってしまった。
或日の自転車日記には次のように書いてある。

1974年5月19日(日)晴れ
●ラレー・カールトンで藤沢市の本鵠沼近くの「秋山サイクル」へ行く。
店内にはデローサ、チネリ、ラレー・マークⅣ、ゼウス、メルシェ、プジョーなどが置いてあった。オレンジ入りのデローサは、これ見よがしに、入って右側の壁に掛けられていた。価格は30万円。ただ眺めるだけ。
横浜のシマダや金沢文庫の木下よりも世界の有名レーサーがそろっている感じがした。
店主が私のラレー・カールトンを見て「あんたのカールトンはホイールベースが1メートル以上あるのでよくない。コーナーリングなどでハンドルの切れが悪い。あそこにあるデローサなどを見てみなさい。みんなホイールベースは1メートル以下である。だからうちではこのような自転車は置いていない。カールトンはラレーに吸収されてから一般的になってしまった。まだプジョーの方がいい」こうまで言われると反論したくなるが「ああそうですか」と、生返事をしておいた。
いろいろな自転車店を数多く回っていると、店主の性格もわかり、なかなか面白い。
この店主もある面親切なのかもしれない。初心者には向いていると思う。
このラレー・カールトンは木下で購入したのであるが、乗り心地がよく気にいっていた。ホイールベースやトップチューブは多少長めだが、直進安定性が非常によく、長く乗っていてもあまり疲れなかった。競技向きではないが、よい自転車である。
ご高説を聞いた後、この店で自転車油、ベアリング・グリス、ソービッツのダイナモランプを購入する。

いろいろな自転車店を過去に尋ねたが、人によってその店の感じ方はさまざまであろう。対人関係同様、その店に合う合わないがある。確かに他の人に聞いてみると秋山サイクルは結構評判もよいと聞いている。私の場合は、たまたまそのような印象を受けたと思える。おそらく私の対応にも問題があったのであろう。他店で購入した自転車で訪れたのがまずかったようだ。
いずれにしても廃業は残念であるが、高齢と後継者がいないのであればやむ負えない。
また、自転車の専門店がこれで幕を閉じてしまった。
ちなみに創業は戦後の昭和30年代と聞いている。半世紀以上続いたりっぱな老舗であった。

廃業した秋山サイクル
Googleストリートビューより