2024年6月5日水曜日

「輪界」第2号

 「輪界」第2号

「輪界」第2号 輪界雑誌社 1908年(明治41年)10月25日発行


表紙
国会図書館所蔵資料
以下同じ

自動車上の於ける米国某紳士の家族

内国製自転車工場の親玉
宮田製作所(其二)

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巣鴨監獄製自転車

33頁

34、35頁


日本自轉車の由來(二)
一 記 者

十一、日清戰爭後の自轉車
日清戦争は名譽の戦勝を博して目出度其極を結べり、而して全國至るところ景氣は次第に良好となり、臺灣は割譲され、償金は多大の額を取得され、爲めに金貨は市場に流通するに至れり。故に各種の商人は勿論、一般の人士に至るまで自轉車を使用するもの次第に多さを加ふ、是を以て之れが輸入又日を追ふて盛大となり、されば一般人士も大ひに此れを用ゆるあるに至れり。

十二、日清戰爭後の自轉車の輸入
然るに米國にては、クリブランド、エッスルの如き少しく進步せる自轉車を大に我國に輸入し始めたりされば我國にては、上下の區別なく一般に大にこれを観迎するに至れり。尤も此クリブランド、エッスルは車輪は元とより其車臺に於ても、日清戰爭以前に米國より輸入せしものよりも、細そく寧ろキャシャと云ふ方にて、當世所謂ハイカラ式なり。爲めに車臺極めて軽るく、走る點に於ても以前のものよりも大に快速なり、それ故是等の點に於て大ひに良好なる結果を得たり。

十三、クリブランド、エッスル以後の自轉車
此クリブランド、エッスルは大ひに世に好評を得たり、爲めに我國にても外國自轉車の多く用ひらる狀態となれり、故にデートン、及びピャス等續々輸入を始めたり是れ等も大ひに世の歓迎を受くること、彼のクリブラウンド、エツスルに劣らざる有様となれり。

 十四、宮田工場再び自轉車を製造す
宮田工場にては日清戦争と共に銃砲の製造をなし砲兵工廠の御用工場となりしが、日清戦争は其極を結び、加ふるに、明治三十三年我帝國議會に於て、銃獵稅を増加することとなり、爲に銃を負ふて山に獵するもの甚だ少なし、是に於てか宮田工場にても銃砲を製すること、餘りに良好ならざる有様となり、寧ろ不景氣と云ふも必ずしも失當にあらざる次第なり、されば宮田工場にても再び銃砲製造を止め、自轉車を製造することとなりたり。 

十五、宮田工場最初の自轉車の模型
是れ實つは自轉車なるものは、從來贅澤品ある観ありしが、日清戰爭以後漸く其観念を去り、實用を旨とするの傾向あり。爲めに宮田工場にても將來大ひに發展の希望を有せり。さればクリブラン ドを模型となし、自轉車の製造を始めたり。

十六、自轉車の商標
日清戦争以前は、自轉車専門の商店なく、爲めにマークの如きも其専用のものなし、されば各々其好みに應じてマークを製造せり、故に或は自家の定紋を以てマークに代へ使用するものあり、又紋は不良なりと云つて、種々の形ちを取り以てマークとして使用す、故に殆んど同じマークを見ることなし、是れを以て同じ自轉車と雖も、必ず其マークは異なりしなり。

十七、宮田工場の自轉車の價格
宮田工場にては、スポーク、玉、及びサドル等自轉車に関する凡てのものを製造し、以て自轉車を完備せしめ、此れを五拾五圓か六拾圓位にて販賣したり、爲めに大ひに其價額の安さを喜こび以て大ひにこれを觀迎せり。

十八、デートン
クリブランドは一時大ひに流行を極めたりしも、今日に至りては、全たく流行の跡を斷ちたり、デ ートンも次で大ひに其流行を博せり、然るに此デ ートンも、車臺に於ても車輪に於ても、大に其良好なるを認めたり、されど一時奸商ありて、大ひに不良ある品質の自轉車を盛んに輸入し、これを デートンと稱して大ひに販賣せり是れが爲め、デ ートンの信用は落ちて地を拂ふに至り、今は僅かに其あとを存するのみ。

十九、ピャス
ピャスは良好なる車なれども他の自轉車が、時代の進歩に伴ふて其價額も漸次安くなるに反しピャスのみは、五六年以前と猶ほ異なることなし。而して目下内地にて製造する自轉車すくなからず、加ふるに外國より輸入するもの亦其價額廉なるもの甚だ多し、これを以て仮令品質に於て多少良好なりと雖も、其價額餘り高きものは用ゆるもの次第に減少するは、是非なき次第なり、

二十、見本の作製
宮田工場にて明治三十四年始めて自轉車の製造をなさんとせし頃、其見本の製造に意を注げり、然れども僅か二臺の自轉車を作るに其日數實に六ヶ月を要せり。然れどもこれをよく製造するに於ては將來大に望みあり、爲めにこれより次第に其製造に力を入れ、大いに自轉車の發達を計れり。

——(以下次號)——