多田健蔵関連資料
先般、当研究会に多田健蔵についての照会があり、以下に関連資料をまとめた。
昭和43年の「シクリスムエコー」で、多田健蔵 (1889年 - 1976年)が当時の自転車競技の思い出を座談会形式で語っている。
註、「シクリスムエコー」は、1950 年(昭和 25 年)に創刊された日本自転車競技連盟 の広報誌。資料提供:渋谷良二氏
その中に1907年(明治40年)の自転車長距離競走(250哩)のことが語られている。 このレースで多田健蔵は16時間53分の記録で優勝。(明治40年7月2日付け横浜 貿易新報)
その時の状況を直接本人が語っていて興味深い。この座談会時の多田氏の年齢は 79 歳であった。
(多田)・・・・その時は 11 時間以上たってたときだ。折り返して戸塚の坂上で水をのん だら腹がいたくなって。こたえたね。 それでも我慢して走った。藤沢へ行ったら、マゴマゴしたら無効になってしまうというん だ。苦しい中を走って小田原へ行ったら、検印場所に人がいないんだ。そりゃそうだよ 朝から走り通しで、時間も 7 時頃だった。小田原から折り返して国府津へ来たら、暗くなったのでガスランプ(カーバイトランプ)をつけて走ったが、苦しかったね。6月だし、ムシ暑さがすごく蚊がうんといるんだ。息するたびに蚊が口の中に飛び込んでくる。その時、面白いことがあったね。茅ヶ崎でね前方に荷車があったんだ。その上へ乗りあげてしまったんだ。すると荷車の先が前に下がった。そのまま荷車をのり越して走ってしまった。藤沢の最後の検印所へ来たとき、もう 20 分すぎたら駄目だぞと言われてね、それから走ったね、遊行寺の坂をハアハア言いながら登って、頂上に来たら、ようやくトンネルのような松並木をすぎるころになるとヒザがカチンカチンとなる。それから戸塚の坂をおりるときは、どうにでもなれと足をはなしハンドルの中心をつかんで目をつぶっておりたね。 それでもどこにもぶつからずにチャント真中を走っていたよ。 そうこうしながら横浜についたのが9時53分だった。タイムは16時間50何分だった。 今、思えば奇跡に近いね。貿易新報に入って、顔を洗っていたら、応援してくれた仲間が来てね、「多田さん死んじまやしませんかね」といいながらオロオロしているんだ。 気はしっかりしているんだけれど、体はフラフラだ。記録係のところへ行くと、「勝ったぞ」 というんで。それでも一体何着かわからないままに風呂に行ったけど、またげなかったね。 手もハンドルを握ったままの状態で伸びなかった。これは一月位つづいたね。目方は 2貫目位へった。
日々の練習について
(多田)、私らは朝早く鶴見を出て、今の花月園競技場のある付近に石川商会があっ たから、そこから朝食前に横浜にゆき、さらに原町田へ行き、原町田から鶴間、藤沢へ、 それから横浜へ戻るコースで練習していた。 私は、朝食前に走り、帰って来て食事後昼まで仕事、昼からまた走った。 2 回(毎日)は必ずやった。 かなりの道程だ。200 粁はやったんじゃなかったかな。前に言った 3 人(平田、高梨、 田辺)は東京から小田原へのコースを練習していた。 私は横浜から東京往復のコースも練習に使った。たとえば、8 時に会社へ出るでしょ。 するとチャントと会社で電報用紙が用意してあって、その用紙に8時半と書き入れて、多田これをもって行ってこいといわれるんだ。その時分時計なんかもってないからね。 明治40年の4月に始めて石川商会に行った。入ってから5月までトレーニングしたら 一ぺんに足がはれてしまった。医者からは「お前は掛気でダメだ」といわれたので、小豆ばかり食べていたことがあったね。それからいくらかなおって 5 月のはじめ頃から練習を再開し、6月20日の200哩レースに出たんだ。 レースの当日、朝の3時頃まで雨が降っていた。その時分、横浜の家には南京虫がいてね、それと暑さでぜんぜんねむれないんだ。 その時のことで面白いことがあった。走りながら小便したくなったけど、降りてしてたら 1 哩位ちがってしまう。そこで乗りながらしようと思うけど、出来ないんだな、パンツがキッチリなってるからね。それでも何とかして、パンツを引張り引張り走りながらしたもんですよ。(笑い)
多田健蔵は、当時、石川商会のお抱え選手であった。仕事の傍らに毎日、200 ㎞ほど 練習していたことが分かる。これでは、仕事の傍らではなく、毎日が練習の時間に充てられていたことになる。多田が優勝して名をあげれば、石川商会にとっても大いに宣伝効果があったのである。 日米商店が明治40年頃から販売を始めたラーヂ号の影響により米国製ピアス号等の 販売にかげりが出てきた石川商会だが、多田の優勝によって売り上げを伸ばしたはずである。
多田建蔵は、1907年(明治40年)の自転車長距離競走(250哩)に出場し、記録は16 時間53分で優勝している。(明治40年7月2日付け横浜貿易新報)その後は、オー トバイのレーサーとしても活躍し、1930 年(昭和5年)には、日本人で初めてマン島 TT レースにも出場している。
「自轉車競走とピアス」などの記事、 「仙臺新報」第22號 仙臺新報社 1908年(明治41年)5月31日発行
●自轉車問答(一部抜粋) 同じ船來自轉車にして價格の多少に依り車体機関部に如何なる相違ありや(輪狂生) △高級のスヰフト、トライアンフ、ハンバー、センター及び米車のピアス號の如き車体 のパイプ等皆精良の材料を使用するのみならず車軸及び玉押の如き全部等の鋼鉄を ダライバン(オランダ語で旋盤のこと)に掛て製作するを以て十年前に買入れ目下使 用しつつある車軸玉押等を撿するも磨滅の痕跡なしピアス號の如きは世間多くの使用 者あるを以て就て實驗せらるべし下級車輛に使用する玉押は型を用へ打抜きたるも のに原料また粗悪なれば破損及び磨滅當然なるべし。
●懸賞自轉車大競走會 當市の東北新聞主催となり六月七日午前九時より川内講武所に於て懸賞自轉車大 競走会を舉行する筈なるが市内有力者の賛助と各商店より副景品として多數金品の 寄贈もあり尙は遠隔の地より態々出場する撰手尠なからずと云へば當日の盛會推して 知るべきなり
●自轉車競走とピアス 去月名古屋グランド に於て開催したる全國聯合自轉車大競走會に於て二日間共大勝を博したる乗用者は何れもピアス號にして数万の観客は同車の軽快にして堅牢なる に舌を捲きしと尙ほ両日間に於けるピアス乗用の優勝者氏名左の如し 廿三日の分 會員撰手競走十哩 第一着 名古屋 山本勉一 第二着 名古屋 松原信康 第三着 名古屋 廣瀬正一 廿四日の分 聯合撰手競走十哩 第一着 横濱 多田健蔵 第二着 大坂 槌田定吉 第三着 横濱 高橋隆次 第四着 東京 荒幾次郎 第五着 名古屋 松原信康
自転車長距離競走のコース
明治40年6月30日に開催された自転車長距離競走のコースについて触れる。 横浜を中心として東は東京、西は小田原、北は原町田経由で八王子、南は鎌倉を経 由して三崎まで。この4区間をそれぞれ往復、総距離は約390㎞であった。 この 4 区間の到達点にはそれぞれ検印所が設けられ、選手は到着の確認を受けて、 スタート地点の横浜に戻る。
レースの結果は、 1 位、多田健蔵 5時スタート、21時53分着 総計時間、16時間53分 自轉車はピ アス号 2 位、荒井幸吉 総計時間、17時間49分 自轉車はスピード号 3 位、内田亥助 総計時間、19時間11分 自轉車はピアス号 4 位、玉置升三郎 総計時間、20時間45分 自轉車はジャスチス号
参考資料、
「日本輪界興信名鑑」大正14年発行
「自転車競走」 月岡朝太郎 著1978-10
「輪界 」(3) 輪界雑誌社 1908-11
「輪界」 (4)輪界雑誌社1908-12
「輪界」 (8)輪界雑誌社1909-4
「輪界」 (10)輪界雑誌社 1909-06
「裸一貫より光之村へ」 創業三十五周年紀念日米商店 編昭和9
「大阪競輪史」 大阪府自転車振興会大阪競輪史刊行委員会 編1958
「日本スポーツ百年の歩み」 日本体育学会体育史専門分科会 編ベースボール・マガ ジン社1967
「輪業世界」第47号 大正11年1月号 29頁
「仙臺新報」第22號 仙臺新報社 1908年(明治41年)5月31日発行 「自轉車競走とピアス」などの記事、18、19頁