2025年7月8日火曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-16

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-16

午後になると、狭い車道は、世界中で見てきた中でも最も素晴らしい、新しく作られた広い砕石舗装の道路に合流する。低い水田から、なだらかで均一な勾配で、ずっと上へと、道は高くそびえる岩だらけの崖の間を、はるか先まで見事な整備が行われている。ここの山々の最上部まで続く、魅力的な家々と美しい段々畑の光景は、言葉では言い表せない。中国の段々畑で見たものに、もはや驚嘆することはない。

平坦な大通りに到達すると、新たな驚きが私を待ち受けていた。長さ約500ヤード、幅約30フィートのトンネルの入り口にいた。トンネルは中央の大きな反射板で照らされており、入ると機関車のヘッドライトのように暗闇を照らす。日本人が人力車と歩行者の移動のためにこれほどの手間と費用をかけるとは想像しがたいことだが、実際はそうなのである。この国には他に交通車両がない。一般道路用に建設されたトンネルを見つけたのは、この国だけである。ただし、私が気付いたり耳にしたりしていない同様の改良点があるかもしれない。特に照明を維持するために人を雇わなければならないので、このような場所には少なくとも料金所があるはずだが、そのような人は見当たらない。

トンネルを数マイル進むと、広い道はかなり大きな港町に突き当たる。そこからジグザグの道を北へ向かう正しいルートを見つけるのに少し苦労した。一日中時折雨が降ったが、道路の状態は概ね良好であった。夕暮れ時に村の宿屋に到着した時には、50マイルほどは走っていたはずである。休憩と夕食のために落ち着く前に、何か面白いものがないか村を散策した。


451頁

2025年7月7日月曜日

「自轉車瓦版」第7号

 「自轉車瓦版」第7号

昭和60年4月17日発行

☆第4回岐阜サイクルショーは4月4日から5日の両日行われた。今回は昭和会(岐阜の有力自転車専門店グループ)のサイクルショーのほか、岐阜県バイコロジーをすすめる会も協賛し、自転車普及協会からクラシック自転車のレプリカ6台を借りて展示、人気を集めた。また自振協の新しいパンフレット「BICYCLE = 自転車」も配布された。

☆85サイクルショーはいよいよ4月23日から30日まで行われる。場所は東京都晴海埠頭。

完成車38社、部品67社、その他9社、ハンドメード車コーナーに24社が出品する。会場には、自転車のほかに、カタログセンター、文献、資料等の即売コーナーも設けられる。

☆ 月刊「本の街」(第45~46号 明光企画、昭59発行)という雑誌に、「自転車物語」として、神田双輪倶楽部と二六新報社をめぐる記事がある。

(上記の雑誌をお持ちの方は是非コピーをお願いします。)

☆先日、横浜の開港資料館で、「絵入りロンドン新聞」1869年をながめていたら次のページに自転車関係の絵と記事があった。p.256,270,445,449。1869年といえばミショー型自転車の全盛時代である。「なお、この絵入りロンドン新聞」は原本なのでコピーは不可能とのことであった。ただし、写真撮影は可能。

◎情報等なんでも結構ですからお寄せください。


イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
第50巻 7月~10月
1869年

1869年7月10日 30頁の一部


イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
クリスタル・パレスで、木曜日にヴェロシペード・レースがある。など・・・

2025年7月6日日曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-15

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-15

10ヤード四方ほどの小さな庭園には、小さな湖、洞窟、趣のある石灯籠、青銅のコウノトリ、花、そして小な木々に囲まれていた。しかしながら、長崎から続く悪天候は、まるで運命のように、私の旅の終わりが快適なものにならないようにと思わせる。雨や泥濘、そしてそれに伴う遅れがあったにもかかわらず、中国での経験の後では、日本での最初の数日間はまさに楽園のように思えた。中国への嫌悪感を抱く私の感覚に、太陽が輝き、天候や道路状況も良好な日本という国とその人々を初めて体験した時、私はどんな印象を抱いていただろう。

周囲の地域は山岳地帯で、いくつかの峰の頂上には雪が積もっている。道は時折起伏に富んでいるが、小さな谷から谷へと曲がりくねりながら長い坂を下る。薪と米を積んだ仔馬を曳いた山間の農民たちが、出迎えてくれる。藤色の蓑、幅広の菅笠、粗末な草鞋といった古き良き日本の住民の衣装は、ダービーハットや騎手服を身につけた「新日本人」の同胞たちとは際立った対照をなしている。都会育ちの日本人の急速なヨーロッパ化、政府の進歩主義政策、青い制服を着た憲兵隊、そして国全体の革命にもかかわらず、これらの山里の民たちが祖先のやり方や方法、そして古風な衣装を捨て去るまでには、まだ長い年月が必要だろう。日本は今後数十年にわたり、山里の民の保守主義と自由主義的な都市生活者は興味深い比較対象となるだろう。一方は異国の衣服をまとい、異国の風習を真似し、あらゆる面で異国のやり方を取り入れる。他方は藤色の衣装、菅笠、草鞋、そして「古き良き日本」の伝統に執着するだろう。

ほとんどの農家は藁葺き屋根である。美しく整然とした藁葺きで、様々な工夫が施されていることは言うまでもない。中には、濃い緑色の低木でできた生垣に囲まれている農家もある。生垣は、上部が茶色の藁葺き屋根の延長のように見えるように刈り込まれており、茶色の藁葺き屋根は単に色を変え、地面に向かって同じ急勾配で傾斜しているように見える。この工夫は非常に魅力的な効果を生み出し、特に、きれいに刈り込まれた数本の若い松が、まるで家の周りの番兵のように生垣の上にそびえ立っていると、その効果は際立っている。今日見られた比類のない「樹木剪定」の一つは、山を模して刈り込まれた低木である。


449頁

2025年7月5日土曜日

ツール

 ツール

今日からいよいよツール・ド・フランスが始まる。

下の写真はツール・ド・フランスの第1回大会を伝える記念すべき「自動車」(ロト)紙の記事である。

「ツール・ド・フランス - スタート」

1903年7月1日から19日までL'AUTO主催

中央の図は、第1回ツール・ド・フランスのルート


「L'AUTO」誌

註、この日刊紙のロト「L'AUTO」は、後のレキップの前身である。
ロト紙は1903年に購買部数の上昇を企図して、自転車競技のツール・ド・フランスを創設した。
第1回ツール・ド・フランスは、1903年7月1日から7月19日にかけて開催された。
全6ステージで総距離は2,428km。当時の1ステージあたりの平均距離は約400kmと非常に過酷であった。
優勝者: モーリス・ガラン (Maurice Garin) - フランスに帰化したイタリア出身の元煙突掃除夫。
参加者と完走者、60人が出走し、完走できたのはわずか21人。
優勝者の平均時速は25.679km/hであった。
ゴール地点は、1967年まではパリ16区の自転車競技場パルク・デ・プランスが最終ゴール地。
この大会は、後のツール・ド・フランスの礎を築く、歴史的なイベントとなる。

2025年7月4日金曜日

「自轉車瓦版」第6号

 「自轉車瓦版」第6号

昭60年4月14日発行

☆福島の真船氏からの情報「サイクル サイエンス」小島千明著A5判 174P コロナ社 ¥1600-自転車のAからZまで構造、整備など楽しく乗る方法解説。 

「自転車冒険の旅 1038日」(児童書)ポプラノンフィクション NO.17 成田ケイ作 A5変形判 206P ポプラ社 ¥880- 自転車で日本縦断の旅を達成した少年の記録。

 “サイクル フィットネス” 自転車健康法、エアロビックな運動、発行は丸石自転車(株) B6判・14P。 

その他の出版物として、「MON マガジン」5月号 自転車特集。 
「トライアスロン」の3号などが発売。

☆ 当研究会が・・最近入手した資料。

”ノーリツ号 自転車行進曲、波風惣三郎・歌上艶子(歌)、岡本工業株撰定 岡本工業產業報国会歌 波岡惣三郎(歌)”昭和10年代、ビクターの特別委託吹込音盤。

(歌詩の一部)
1、
ひらり飛び乗り 気も軽く
ペダルひと踏み まっしぐら
風は涼しく 気は躍る
一瀉千里の その速さ
見ろよ自慢の ノーリツ号

“書簡、自転車及び附属品類他大津市横江時計店”1通 、自転車に関する文書、和紙墨書6枚、明治34年。

“塩田商会自転車附属品定価表“45×60cm 大正期。その他自転車税に関する資料 3点。

(レコードを除き、コピーを希望する方はご依頼下さい。) 


サイクル・サイエンス
- 自転車のAからZまで -
小島 千明 茨城大教授 著
1985年5月25日発行

「自転車冒険の旅 1038日」
 レキ君一家の日本縦断
成田 ケイ (著)
 1985年4月1日発行

2025年7月3日木曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-14

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-14

丘陵地帯の小さな沖積の谷に点在する無数の町や村を結ぶため、内陸に1、2マイルほど伸びる道が作られた。ある大きな村を通り過ぎると、書店の上に掲げられた「英語の本」という看板が目に留まった。神戸への道案内のようなものを買おうと思い、少なくとも英語を理解できる人がいるだろうと期待して店に入った。店の若い男性は英語を一言も話せず、置いてある「英語の本」は小学生向けの入門書やスペルブックなどであった。

下関の村々の建築は、驚くほど芸術的である。趣のある切妻屋根の家々は雪のように白く塗られ、奇妙な模様の茶色の釉薬瓦が屋根に葺かれ、これも白く縁取られている。家々の周りには、コウノトリや動物、魚などを模して刈り込まれた生垣、小さなオレンジや柿の木、可愛らしい花壇、そして日本特有の小さな造園用の置台が点在している。小さな谷を抜け、小さな岬を越え、海岸沿いの平坦な砂利道が続く道を30マイルほど走り、やや大きな村に到着した。

今晩の客人の中に、光沢のあるトップブーツ、ぴったりとしたコーデュロイのズボン、そしてジョッキーキャップを身につけた若い紳士がいた。その風貌は、私がここ何日か見た中で、最も「馬好き」と思われる人物だった。プロの騎手であろうことは容易に想像できる。しかし、おそらく彼は生涯一度も馬に乗ったことがないだろう。彼はロンドン・グラフィック誌を見てこのスタイルの洋服に夢中になり、横浜からその服を調達するために多大な苦労と経費を使い、今や故郷の田舎の人々を驚かせ、その風貌から「最高にカッコいい」と云わせているのだろう。彼はダルマ自転車に並々ならぬ興味を抱く様子である。そこから推測すると、彼は西洋のスポーツのある種の概念を実際に吸収しており、したがって理解力のない同胞の前では、スポーツの達人として振る舞いたいと願っているのだろう。全体として、この馬好きの若い紳士は、私がこれまで出会った中で最も驚くべき「新しい日本人」の代表例である。

冷たい霧雨が降り、次の日の旅の始まりである。


448頁

2025年7月2日水曜日

自轉車瓦版 №5

 自轉車瓦版 №5

「自轉車瓦版」第5号

昭和60年4月11日発行

☆瓦版の2号で紹介した羽田のある倉庫にあったという木製自転車の件は、その後調べたところ自転車メーカーである新家工業のものということが分った。なんでも20年ぐらい前にそこに勤めていた人が見たとのことである。

☆“錦絵幕末明治の歴史”(NO.5 明治の新政、講談社 昭52.6. 25発行)には、いろいろな錦絵が掲載されているが、その中で「東京高輪風凉図)という画がある。ひげをはやした西洋人風の男が「 一人車」という自転車に乗っている。この自転車はかなり大きく描かれ、 前輪のペダルクランクで走るようすが分かる。しかし、ミショー型とはすこし違った形になっており、フレームの形状にも不自然さがみえる。この本には他に、三輪車などの画がある。

 ☆“横浜鉄橋之図”という五雲亭貞秀画(明治3年)の錦絵に出て来る三輪車は、例の“横浜開港見聞誌”の三輪車と同じもののようだ。 やはり前輪に巻いた組ひもを引っぱっているように見える。作者が同じ五雲亭だから当然かもしれない。貴婦人が乗っているところも同じだ。


「東京高輪風凉図)
豊原国周 明治3年(1870)

「横浜鉄橋之図」
五雲亭貞秀
1870年(明治3年)

2025年7月1日火曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-13

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-13

日本の神話でも解明されていないような他の奇妙な物は、少なくとも3フィート(91センチ)の長さの鼻を持ち、まったく不釣り合いな怪物的な人間の顔である。(註、天狗の顔)

雨の昼下がり、散歩をしていると、大声で暗唱する子供たちでいっぱいな大きな校舎の前を通った。下駄や和傘は、玄関先にある専用の棚にしまってある。大声で叫ぶ陽気さは、生徒が楽しみながら遊びを続けているように思える。野菜や果物を売る女性たちは、まるでノルマンディーの酪農家のように容姿端麗で、おしゃべりしたり、笑顔でお辞儀をしたりして「野菜売りごっこ」をしながら歩きまわる。私が骨董屋の品物を見るために少し立ち止まっている間、その店主は火鉢のそばに座り、煙草を吸いながら丁寧にお辞儀をし、甲冑を着た精悍な姿の武将の鎧を楽しそうに笑いながら指差していた。彼の行動には明らかに、私に何かを売りつけるつもりはまったくない。ただ、この鎧に私の注意を喚起したいだけである。何かを売ろうとしているわけではないが、もし求められれば、間違いなく彼の善良さから商売するであろう。 

2 台の小さな昔ながらの消防車が市庁舎の横に無造作に置かれている。火を消す遊びに飽きて、おもちゃを捨ててしまったように見える。私は海辺まで歩き回り、そこからホテルを見つけようとした。船頭たちは藤の花の防水コートを着てくつろいでいる。彼らは私を自分たちのボートに乗せて目的地まで連れて行きたいように望んでいるが、彼らの態度から見て、それは単なる楽しみのためであることがよくわかる。誰もが笑顔で都会的で、真剣そうに見えない。心配そうな顔も見られず、素晴らしい人たちである。彼らは他のどの国よりも幸せに生きるという感じである。托鉢僧でさえ、貧困を面白がっているようで、人生は単なるユーモアの実験であり、真剣に考えるに値しないものであるかのようだ。

昼には天気も晴れ、強い北風の中、下関に別れを告げた。

道路は瀬戸内海の海岸に沿って数マイル続いており、丘のふもとを曲がりくねって下って行く。


447頁

天狗
小田原市板橋 量覚院秋葉寺
2023年8月12日撮影
サイクリングの途中に寄る


2025年6月30日月曜日

ダンディー・ホース

 ダンディー・ホース

下の図は有名なダンディー・ホースの風刺画。手彩色エッチング。

ダンディ・チャージャーは快調だ、時速10ノットで疾走する。群衆が呆然と笑っている間を通り過ぎる・・・

「この忌々しい船乗りめ、仕立て屋をコケにしたな!」

ダンディ・チャージャーに乗るジャック。

ラドゲート・ヒル、フェアバーン・ブロードウェイにて。


ダンディ・チャージャー 1819年
手彩色エッチング
大英博物館所蔵

註、大きな船乗りの三角帽子をかぶり、剣を携えた海軍士官がダンディー・ホースに乗っている。その後には、紳士が地面に倒れ、片腕で体を支え、房飾りのついた棍棒を持ち、片足を宙に上げている。巻尺から仕立て屋と分かる。

2025年6月29日日曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-12

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-12

小倉からは狭い海峡を挟んで日本本土の下関が見える。これまでは九州を横断してきた。下関は幅数百ヤードの海峡を挟んで本土と隔てられている。

小倉から人力車道はさらに数里進むと大里(だいり)に至り、そこから小道は丘陵地帯とハゼノキ林を横切り、さらに2マイルの門司村まで続く。ここで私は小さな渡し船に乗って下関に渡り、午後2時頃に到着した。

雨天のため下関で24時間過ごした。宿屋の女将はヨーロッパ料理に精通しており、とても美味しいビーフステーキとコーヒーを用意してくれた。下関はヨーロッパの品物とその巧妙な模倣品で溢れている。通りを1時間ほど散歩すれば、日本人が外国の物にどれほど魅了されているかが分かる。ほとんどすべての店が、外国から輸入された商品、あるいはその偽造品を専門に扱っている。輸入品を単にコピーするだけでは満足せず、日本の職人は一般的にオリジナルに何らかの改良を加える。例えば、石油ランプの正確な模倣品を作った後、日本の職人は使用していないときにそれを置くための小さな漆塗りのキャビネットを作る。宿屋でコーヒーを入れるコーヒーポットは、3つの空間を持つ独創的な装置で、明らかにアメリカ人の創意工夫を再現したものである。

近くの小さな丘の頂上には大きな神社があり、本殿まで石段が続いている。階段の入り口、そして斜面を登る途中にも、独特の鳥居、いわゆる「鳥の止まり木」があり、神道の象徴となっている。境内には数多くの社が鎮座している。社は主に木造で、それぞれが祀られている様々な神々の像が納められている。社の前には、金銭を入れるための閂付きの賽銭箱がある。日本の信者は社の前で一分間、頭を下げて両手を合わせ、小さな硬貨を一、二枚賽銭箱に投げ入れ、次に参拝したい社へと向かう。本堂には、数多くの絵画、弓矢、刀、そして明らかに奉納物と思われる様々な品々が飾られている。漁師の運命を司る神社は、巨大な銀紙の魚と無数の三叉の魚槍で特徴づけられている。


445頁

下関へ小舟で渡る

赤間神宮
Googleストリートビュー

「赤間神宮」赤間神宮社務所 1978年発行
国会図書館所蔵資料

2025年6月28日土曜日

ツール・ド・フランス

 ツール・ド・フランス

今年のツールも2025年7月5日から開催される。

誰がマイヨ・ジョーヌを着て走るのか、いまから楽しみである。

下の写真は50年前のツールの場面。当時の役者がそろっている。

メルクスを猛追するテブネ
公式サイトより
以下同じ

左は山岳王のインプ

マイヨ・ジョーヌはテブネに


註、1975年の第62回ツール・ド・フランスは、1975年6月26日から7月22日まで全22ステージで開催された。
優勝は: ベルナール・テブネ(フランス)
彼は、5連覇中のメルクスを破り、見事総合優勝を果たした。

総合優勝: ベルナール・テブネ(プジョー・BP・ミシュラン)
2位: エディ・メルクス(モルテニ・RYC)
3位: ルシアン・ファンインプ(ジタン・カンパニョーロ)

ポイント賞: リック・ファンリンデン
山岳賞: ルシアン・ファンインプ
新人賞: フランチェスコ・モゼール

1975年のツール・ド・フランスは、エディ・メルクスの時代に終止符が打たれ、新しい時代の幕開けを告げる象徴的な大会となった。

2025年6月27日金曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-11

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-11

夕食後には、急須のお茶と火鉢が用意される。

翌朝下関に向けて出発した。松林に覆われた丘陵地帯を数マイル横断すると、小さな河口にある芦屋に着いた。ここ芦屋で、私は初めての日本式の髭剃りを楽しむ。通りすがりのにわか雨を避けながら、村の床屋を利用した。日本の髭剃り師は石鹸を使わず、指を温かいお湯の入ったボウルに浸して顔を濡らすだけで髭を剃る。髭を剃っている間、彼は頻繁に油石でカミソリを研ぐ。彼は顔全体と首を剃り、耳たぶ、額、鼻も忘れずに剃る。もしヨーロッパの旅行者が日本の村の理髪店の椅子に座っている間、冷静さを保っていなければ、顔や首の産毛はすべて剃り落とされ、口ひげや髭はそのままで、眉毛もかなり短くなっていることに気づくだろう。

芦屋から道は小さな運河に沿って若松まで続き、田圃を横断する。何十隻もの石炭運搬船が運河に沿って浮かんでおり、潮の流れだけで進んでいる。潮が変わるまで漂い、その後係留され、再び干満するまで辛抱強く待っている。長年の経験から、彼らは間違いなく、1回、2回、または3回の潮汐を計算し、特定の船着場や村まで運搬船を運ぶ。

若松の通りは活気があり、絵のように美しい光景である。華やかな衣装をまとった田舎の人々で賑わっていた。屋台は、食欲をそそる食べ物、おもちゃ、衣類、提灯、紙製の花、そして想像できるあらゆる日本の品々が並んでいる。人々は珍品を展示することで、小さな群衆を集めている。私がしばらく立ち止まって見ていると、ある老人が小さな色紙のロールを売っていて、水を入れたボウルにそれを入れると、花、船、家、鳥、動物に展開した。

税関の制服を着た若い男性は、英語を少し話せるので、「日本の神様」について説明した。笑顔で、おしゃべりし、お辞儀をし、滑稽な顔をした群衆が、明らかに楽しんでいるのは、何らかの宗教的な祭りなのである。

若松から小倉にかけては、丘陵地帯が広がっている。


444頁

若松駅 大正期
Wikipediaより

2025年6月26日木曜日

ヴェロシペードの本

 ヴェロシペードの本

下の写真は最近メタに投稿されたもの。

当時この本を購入した人物のメモ書きがある。

次のように書いてある。

1869年8月1日
ブリストル駅で購入
自転車と三輪車
しかし、それらを持っていない
コーポラック・モーラー(このように読める?)

投稿者のコメント、
この本をオークションで買った。最初の所有者は、おそらくWHスミスの書店で購入したのであろう。WHスミスのスタンプが押されており、ロンドンの住所である186 The Strandが記されている。

註、WHスミスとは、
1792年、ヘンリー・ウォルトン・スミスと妻のアンナは、ロンドンのリトル・グロブナー・ストリートに小さな新聞配達店「ニュースウォーク」を開業。
しかし、数か月後、ヘンリーは急逝し、アンナが事業を継ぐことになった。彼女はザッカイアス・コーツと共同経営を行い、1812年に彼が亡くなるまでその仕事を続けた。1816年にアンナが亡くなると、H・W・スミスという名前で営業していた新聞販売店と文房具店の事業は、彼女の二人の息子、ヘンリー・エドワードとウィリアム・ヘンリー・スミスに引き継がれた。1828年に会社はW・H・スミスとして知られるようになった。


表紙

メモ書き

1843年頃のブリストル・テンプル・ミーズ駅
ジョン・クック・ボーンの版画

☆ヴェロシペード関連本一覧

①Velocipedes, Bicycles, and Tricycles; how to Make and how to Use Them
 VELOX 1869.  (1982年8月1日に 当研究会で復刻出版)

②The Velocipede: Its History and Practical Hints how to Use it.  
by Experienced velocipedist  1869.

③THE VELOCIPEDE, its past, its present & its future, by J. F. B 1869
 
④THE MODERN VELOCIPEDE; its history and construction, COMPILED
BY A WORKING MECHANIC.

⑤ THE VELOCIPEDE; how to use and how to choose it. 
by Simpkin, Marshall & Co. 1869.

⑥VELOCIPEDES, how to learn with-out a master 1869.

⑦THE VELOCIPEDE, and how to use it, 1868.

⑧THE VELOCIPEDE; its history and how to use it. 1869.

⑨THE VELOCIPEDE; its history varieties and practice, 1869.

⑩THE BICYCLE, its use and action by Charles Spencer, 1870.

⑪LE XÉLOCIPÈDE SE STRUCTURE SES ACCESSOIRES INDISPENSABLES  1868

⑫CADUCÈTRES OU JAMBES-ETRIÈRES BREVETÉES S. G. D. G.
POUR VÉLOCIPÈDESLE  1869

⑬ALMANACH DES VÉLOCIPEDIA ILLUSTRE 1869

当研究会で1982年8月1日に復刻出版

2025年6月25日水曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-10

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-10

村の粋な人は皆、ヨーロッパの服に憧れるものだ。そのためか、道を行くと、ダービーハットをかぶり、赤い毛布を羽織り、ぴったりとした白いズボンを着て、わらじを履いた男たちによく出会う。ヨーロッパの帽子やコートを羽織った村人は、まるで私がそれを気に入っていることを内心で意識しているかのような、愉快な自己満足の表情を浮かべて私の居る宿屋にやって来る。一方、ヨーロッパからの旅行者は皆、和服から洋服に変わることを嘆く。

大きな運河沿いをしばらく進むと、今夜泊まる福間村に着いた。ここの宿屋は隅から隅までピカピカである。しかし、宿屋の主人がどうやって商売をし、これほど清潔な部屋を維持しているのかは、不思議でならない。宿屋の決まりは、到着した客がまず湯に浸かり、その後、小さな火鉢のそばにしゃがみ込み、夕食の時間まで煙草を吸いながらおしゃべりすることだ。日本人は他のどの国の人々よりも湯浴みに熱中している。彼らは45度(華氏140℃?)に温められたお湯に浸かる。これは「イギリス人」や「アメリカ人」にとっては全く耐えられない温度だが、徐々に慣れていく。男女ともに毎晩、定期的に熱い風呂に浸かる。日本人はヨーロッパ人との付き合いからまだそれほど多くの「mauvaise honte(正気の沙汰ではない)」を吸収していないので、男女問わず浴槽に頻繁に入り、まるで皆が小さな子供のように互いに気を配らない。「浴槽の波間に戯れるビーナス」は、日本の旅館の日常風景だ。ヨーロッパ人の観光客が、服を脱いで浴槽に入っていくのを見ようと日本人が群がることに、なぜ反対するのか、彼らには全く理解できない。彼らはただ、肌の白さ、独特の脱衣の仕方、そして一般的な好奇心からだ。彼らは入浴を見守ることに、何の抵抗も感じていない。では、なぜ心の中で萎縮し、彼らを追い払わなければならないのか?

旅館の通常の食事は、ご飯、様々な魚、カリカリの生カブの小片、漬物、ケチャップのようなソース(醤油)で構成されている。肉は、特別に注文しない限りほとんど出ない。もちろん、その場合は追加料金がかかる。日本酒も購入する必要がある。


443頁

福間駅付近
Googleストリートビュー

2025年6月24日火曜日

自轉車瓦版 №4

自轉車瓦版 №4

昭和60年4月2日発行

★名古屋のクラシックオートバイを扱っている店に、アメリカのヘンダーソン(1938 年製? オートバイファンには有名なメーカー)という自転車があるとのこと。価格は15万円とちょっと高い。詳しくは事務局まで照会ください。

☆横浜の楽文堂という文房具店の前を通りかかった時、そのショーウィンドに「自転車ライト」と称して、ダルマ自転車の電気スタンドが飾られていた。緑色のフレーム、前輪の大きな車輪部分がライトになっているらしい。値段を見ると¥9800-とかなり高価。

 ☆兵庫県立図書館より、“中村春吉 世界無錢旅行”(当研究会復刻)の寄贈依頼があり、この度発送した。

☆この瓦版は、2ヵ月に1回以上情報等の提供がある会員との連絡用(メモ)として使用しております。したがいまして、全会員には配布されませんのでご了承下さい。 当研究会のコミュニケーションの中心はあくまでも機関誌“自轉車” ですから、瓦版で扱った重要な情報等は総て機関誌上にて再度とりあげます。なお、瓦版のバックナンバーを希望される会員はハガキでご依頼下さい。 

◎いつものように情報等お待ちしております。


「中村春吉 世界無錢旅行」
日本自転車史研究会
昭和59年1月1日復刻

奥付

以前の楽文堂
Googleストリートビュー

2025年6月23日月曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-9

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-9

雨のため、筑紫(Futshishiとあるが?)で一日休まざるを得ないが、我慢できないほどではない。店主は盲人で、三味線を弾き、娘たちに芸者ごっこをさせて私を喜ばせた。筑紫では牛肉も鶏肉も美味しく、日本のほとんどの町と同じように、魚料理も非常に美味しい。

雨上がりの天気は晴れ渡り、霜が降り、福岡への道はまさに快晴だった。田舎は相変わらず魅力的で、人々は礼儀正しく感じが良い。朝のダルマ自転車に乗っていて目にした珍しい光景は、道路で作業する大勢の囚人達だった。彼らは軽い鎖で繋がれ、きちんとした茶色の制服を着ており、自分たちの仲間ではない、罪のない人間の世界を、まるで申し訳なさそうに見つめているかのようだった。彼らの真剣さと滑稽さが交錯する顔を見ていると、彼らが冗談を言う以外に何か悪いことをしたとは想像しがたい。実際、鎖で繋がれ、刑務官に厳重に監視されていること自体が、深刻な出来事とは程遠いように思える。

福岡には、小柄でスマートな軍人風の騎兵隊員が黄色い紐の制服を着て現れ、学校や警察、電信技師と同じようにアジア人らしくない格好をしている。人力車との衝突で頭を打ったこと、小柄な日本人との衝突でひっくり返されたこと、そしてボブテールの猫(短い尻尾の猫)との衝突で猫の尊厳を傷つけたことなどが、福岡の思い出に刻み込まれている。人力車の数と人々の独特な習慣を考えると、一日中、衝突を防ぐために、猫のように注意深く見張っていなければならない。平均的な日本人は、家のドアを後ろ向きに出て、お辞儀をし、道路の真ん中に出て、訪問してきた友人や、贔屓にしていた店主にさえ別れの挨拶をする。村を通過するとすぐに、誰かがドアから後ろ向きに出て、ダルマ自転車のすぐ前を通り過ぎる。

道沿いでよく見かける奇妙な光景は、1エーカーか2エーカーの土地に紙製の日傘(和傘・番傘)が敷き詰められていることである。糊付けされ、糊で固定され、色付けされた後、市場に出荷される前に天日干しされている。傘と提灯は、日本の旅行者にとって衣服と同じくらい重要な装いの一部となっている。最近では、衣服は和服とヨーロッパの衣装が奇妙に混ざり合ったものも見られる。外国の革新的なものへの憧れはあらゆる階層に浸透している。


442頁

長崎街道の筑紫神社付近
Googleストリートビュー
以下同じ

長崎街道
左は筑紫神社の森

2025年6月22日日曜日

十字号

 十字号

下の写真は三菱十字号初期型のハンドル上部である。

最近写真を整理していたら出てきた。この十字号については再三このブログでも取り上げている。このブログの左上の検索欄に十字号と入力すれば、過去の記事と写真が数多く出てくるので参照願いたい。

この十字号を購入(1983年頃)してから既に40年以上もなる。当初はどこにも十字号のマーク等が無いので、不審に思っていたが、このハンドル部分の刻印を見て、領解した次第である。この十字号も今は手元にない。クリーブランド39と同様、現在はシマノ自転車博物館の所蔵になっている。


ハンドル上部の刻印
DUJEE
2009年5月3日撮影

三菱十字号初期型
2009年5月3日撮影

三菱十字号 1947年製
この写真は購入時に近い1983年に撮影 

同上

十字号のパンフレット
資料提供:瀧川美佐緒氏

2025年6月21日土曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-8

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-8

丁寧に作られ、他の国のものとあらゆる点で遜色ないタバコが、大胆にも「葉巻」と、ラベルが付いている。こうして、奇抜な模倣者たちは間違いを犯す。シェイクスピアが日本人を見れば、「この世は舞台であり、男も女もみな役者に過ぎない」(註、シェイクスピアの戯曲『お気に召すまま』二幕七場のセリフ)という彼の言葉の意味をより深く理解できただろう。他のほとんどの国では生活が深刻な問題であるのに、日本人だけが「生計を立てるふりをしている」ように見えるのだ。彼らはいつも、世に出て数年間生計を立てるという行為自体が、大きな冗談に過ぎないのだ。楽天的な道化師のように私には思える。

日本では、あらゆる階層、あらゆる境遇の人々の間に、最も幸福な状態が存在しているように思われる。学校の校舎の前を通ると、手入れの行き届いた校庭で、東洋では決して見られないような様々な運動に取り組んでいる生徒たちが目に入る。今日は中原(なかばる)の公立学校の前でしばらく立ち止まり、興味深い運動の様子を眺めた。黒いフロックコートにダービーハットをかぶった教師たちの監督の下、女子のクラスは二列に並び、号令とともにボールを投げたり、キャッチしたりしていた。男子のクラスは木製のダンベルを操り、様々な規則的な運動で筋肉を鍛えていた。若者たちは大いに楽しんでおり、その様子は西洋の学校生活の最良の要素を余すところなく彷彿させ、自分の目で見たものとは信じられないほどである。おそらく日本の子供たちは、この広い世界の中で、勉強や学校に行くことを本当に楽しんでいる生徒たちなのだろう。先生の一人が門まで来て、丁寧にお辞儀をして私に挨拶した。私は英語で話しかけたが、彼は一言も話せなかった。

日本の木造家屋は脆く、仮設のように見えるが、官庁、警察署、郵便局、学校などは、まるで最近完成したばかりのように、新しく、輝いて、芸術的に見える。道路もまた、フランスの道路を模倣しようとしているかのように、まっすぐで整然と敷設されているところもある。また、何マイルもの間、陽気なイギリスの緑の小道――狭く、曲がりくねっていて、ロマンチックな――を横切ることもある。日本の道路は主に3メートルから4メートルほどの幅があり、人力車が2台通行できるほどの余裕がある。人力車は道路を走る唯一の車輪付き車両である。素朴な橋が、せせらぎの美しい小川にかかっていることが多く、夕方の早い時間に鳥栖に近づくと、滝が数多く見られた。

441頁

長崎街道 中原(なかばる)
Googleストリートビュー

2025年6月20日金曜日

ジェソップの日本一周

 ジェソップの日本一周

ジェソップの日本一周自転車旅行

以下の記事は、「サイクリング」1898年(明治31年)2月29日号

自転車で日本一周、

ルイス・ジュリアン・ジェソップ、ロンドン州ポートマン・スクエア在住は、イギリスの自転車乗りで、写真、顕微鏡、そして今や人気の芸術や科学の多くに興味を持っている人物である。

自転車乗りとして、数少ないレースでの勝利以上の名声を誇り、ひどい事故に巻き込まれても、多かれ少なかれ無傷でいるという特技を持っている。

自転車での日本一周の旅を通して、目にするすべての光景と驚異を、サイクリストの目、そして旅慣れた視点から見つめ、日の出ずる国での体験を、カメラで撮影したスナップ写真とともに、『GYCLING』誌の多くの読者に伝えたい意向である。

ジョン・マーストン商会が特別に製作した、「サンビーム」を2台持参する。丈夫なクリンチャータイヤを装着し、あらゆる点で、最高の作りと装備を備えたマシンである。荷物を運ぶためのアクセサリーに加え、コーンヒルのR.&J.ベック社製の装置も取り付けて、カメラを安全かつ振動なく運ぶようにしている。カメラも2台用意。

装備の基本的な部分は以上であるが、その他、ディクシー・アンド・サンズ製の双眼鏡、気圧計、温度計、コンパス、44口径のコルト連発ライフルなどを準備。

今週イギリスを出発して日本に向かう予定。

註、他の資料を調べたが、実際に彼が日本に来て自転車で一周したと云う事績は今のところ確認できていない。


最近メタにアップされた記事
「サイクリング」誌 1898年2月29日号

2025年6月19日木曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-7

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-7

佐賀の道は平坦で、どこまでもダルマ自転車で走れる道が1マイル以上続く。何百人もの子供たちが合唱で歌っている大きな校舎を通り過ぎ、地元佐賀の名物である大きな青銅の仏像を過ぎると、道はやや起伏のある田園地帯を抜ける。概ね全行程をダルマ自転車で走れた。道中には、杉の並木が点在する。荷馬や牛を連れた農民の群れに出会う。馬は、まるで凶暴な小悪党のようで、従者というよりは、むしろ主人のように思われる。

日本の馬は、きつい腹帯や過積載、そして他の国の馬がおとなしく我慢している様々な屈辱を嫌う。彼らの要求に応えるため、20フィートの紐の先で気ままにのんびりと歩くことが許され、馬体は華やかな装飾で飾られている。馬の独特な性格は、他の国の馬のオーソドックスな方法に倣って怖がらせるのではなく、見た目が気に入らないものには何でも闘志を燃やすことだ。この特異性は、私にとって非常に興味深いものとなる。馬が私や自転車に腹を立てるときの通常の動作は、後ろ足で立ち上がり、キーキーと鳴きながら鼻息気を吐き、同時に私に近づいて噛みつきたいという態度を示すことだ。このため、農民の一団とすれ違うときは、私は常に用心深くなければならない。というのは、農民たちは、馬の行動によって絶対に必要になるまでは、馬を拘束することを考えていないからである。

人力車は今ではかなり頻繁に見られるようになった。逞しい手足の男たちが引く人力車は、生まれたときとほとんど変わらない裸体で、時速6マイル(約9.6キロメートル)の速さで駆け抜ける。瓦を積んだ重い手押し車を田舎の工場から街まで曳いている男たちも見かける。中国ほどではないにせよ、重労働のほとんどは人間が担っているようだ。

どの町や村でも、ヨーロッパ製品の様々な模倣品に驚かされる。真面目で滑稽なこの人々が、名前、商標、そしてあらゆるものまでも模倣しようと試みた結果、滑稽な錯誤が至る所で見受けられる。本日、昼食をとった食堂の一角には、ギンガムチェックの傘を製造している傘職人が数人いる。どの傘にも「ジョン・ダグラス、マ​​ンチェスター」という社名がしるされている。


439頁

440頁
人力車が多い

佐賀県庁
「佐賀県写真帖」明治44年11月発行
国会図書館所蔵資料

2025年6月18日水曜日

クリーブランド39

 クリーブランド39

先日、写真を整理していたらクリーブランドが出てきた。

既にこの自転車は手元にないが、懐かしい思い出はまだ残っている。

日比谷公園で行われたサイクル・ギャザリング(1994年)である人に試し乗りをさせたところ、だいぶ劣化していたサドルが割れてしまった。私が乗る分には軽量なので問題はなかったのだが、後の祭りであった。ある人の好意により、何とかサドルの修復をしてもらう。

下がクリーブランド39の写真である。


 Cleveland 1898
2009年5月3日撮影
現、シマノ自転車博物館所蔵

Head badge
メンズモデル39
2009年5月3日撮影

チェーンホイール周り
2009年5月3日撮影

クリーブランドとリンゲ・ボーンシェーカー
奥に丸石の琺瑯看板
1985年頃撮影
この頃に米国のカール・ウィードマン氏から購入

1989年10月8日
東京、日比谷公園で開催された
「第3回 クラシック自転車ラリーとコンテスト」

十字号とクリーブランド
1993年5月2日撮影


宮田製作所が明治34年にアメリカのクリーブランド103型を見本に製作した自転車。
写真の説明書きには「クリブランド一〇三型自転車明治三十四年自転車製作所として初めて三台製作せしうちの一輌」(『宮田栄助追悼録』昭和7年9月9日発行)とある。