2025年11月9日日曜日

長崎金右衛門の自転車

 長崎金右衛門の自転車

官報 No.618 明治18年7月23日、

今月11日より20日までに、専売特許を願出したる者は左表の如し、但し専売特許を與へたるときは其の都度更に広告すべし

明治18年7月22日 農商務省

発明

自転車 長崎金右衛門 神奈川県

官報 No.618 明治18年7月23日
国会図書館所蔵
以下同じ

新聞集成明治編年史
 第六卷 昭和15年発行

6人乗り9人乗り 人力車発明
〔明治18年4月4日、東京橫濱毎日〕 神奈川縣下足柄上郡圓通寺村大工職長崎金右衛門(四三)は、去る明治六年の頃より一種の人力車(同人は之を自轉車と名く)を工夫せんと思ひ立ち、數年の間日夜心を此事に潜めしが、昨十七年七月頃に至り其雛形(六人乗を二人にてひくもの)を製造したりしに付き試験を行ひし處、果して豫想の如く輕便のものなりしかば、初めて安堵の念をなし、爾來益々改良に従事し、今回は三人にて九人を運搬するものを案出し試験を行ひしに、悉く意の如くなるのみならず、其速力は一時間二里餘を走り、至極便利のものなるにぞ、賛成者もに増加せしかば、先づ第一着として、 横濱小田原間を往復するの見込にて、長崎は去月廿八日縣廳へ出願したりとぞ。

2025年11月8日土曜日

自轉車瓦版 第45号

 自轉車瓦版 第45号

昭和60年7月2日発行

新聞記事より

神奈川スポーツ史 昭和戦前 41

自転車、地元競走会は大盛況 全国大会で小原らが活躍

あぜを崩して走路

大正時代から続いた実用車に競走会は、昭和に入ってますます熱気をおびてきた。そんな競走会もいつものことながら、 グラウンド造りには苦労が多かった。手っ取り早い方法としては、神社の境内や学校の校庭を利用していたが、時には刈入れの済んだ田んぼの畦 を崩して走路を造った。わき水が出れば、もみ殻を敷き、でこぼこになれば、ドラムかんにセメントを流し込んだローラーで整地したという。・・・(読売新聞、昭和53年3月11日付け)

自転車⓷雑学教室

「乗る者ははね返り野郎―」悪評だった明治初年

わが国に自転車が渡来したは、どうやら慶応年間(1865一68)らしい。はっきりしだ記録はないが、東京の市街に登場したのは明治3年とか。・・・(読売新聞、年月日不明)

この新聞スクラップは、横浜・戸部の関戸自転車店から送られて来たもの。写真中央の選手が、関戸自転車店のご注人、関戸恒一氏、当時はアマチュアの自転車競技選手であった。


自轉車瓦版 第45号

昭和15年、都道府県対抗選手権大会の県代表
左から神藤国男、関戸恒一、小原幸一の三選手
平田忠心氏提供

2025年11月7日金曜日

E. G. ラッタの三輪車

 E. G. ラッタの三輪車

第378,253号 1888年2月21日特許取得

発明者:E. G. ラッタ

アメリカ合衆国特許庁

ニューヨーク州フレンドシップ在住のエミット・G・ラッタ、メイン州ポートランドのポープ・マニュファクチャリング・カンパニーの譲渡人

ベロシペード

1888年4月3日付特許第380,495号の一部を構成する明細書

1887年2月9日出願。シリアル番号227,043。(模型なし)

ニューヨーク州アレガニー郡フレンドシップ在住の私、エミット・G・ラッタは、自転車の新たな有用な改良5点を発明した。以下はその明細書。

本発明はタンデム三輪車に関するものであり、現在使用されているものよりも容易に運転および制御できる機械を製造し、ハンドルに起因する振動を低減し、道路状況に応じて速度を変更できる装置を提供することを目的とする。

本発明は、以下に記載され、特許請求の範囲で指摘される改良点からなる。

添付の図面は3枚で構成されており、図1は改良された三輪車の縦断正面図である。図2はサドルとサドルサポートを取り外し、サドルを点線で示した上面図である。図3は主軸と接続部の部分的な背面図である。・・・


図1

図2

図3

明細書 1頁

2頁

3頁

4頁

2025年11月6日木曜日

自轉車瓦版 第44号

 自轉車瓦版 第44号

昭和60年6月30日発行

☆真船氏からの情報、

〇新聞集成『明治編年史』の自転車関係について、① 「ぜんまい仕掛の車発明」明10.5.24讀賣. 下谷龍泉寺村 野口茂兵衛 10人乗り、1日に40 里走る。②「新案自転車」明11.6.26東京日日、 芝松本町二丁目四十番地、 新谷某速力は秒速 2間 、新橋と浅草に会社を建てる。③「一種の人力車発明」明18.4.4東京横浜毎日、神奈川県下足柄上郡圓通寺村 大工長崎金右衛門(43)2人で6人乗をひく、3人で9人乗をひく、1時間2里余走る。④「小田原一熱海間人力鉄道に計画変更」汽車から人力鉄道に変更、明25.10.8朝野。⑤「鉄道人力車の発明」 明26.7.6.国民 、神奈川県下足柄下郡星崎熊治郎、勾配1間で1寸を登るのに運転器を 8寸挽くと9尺進む、1人で400貫目を載せた列車を運転出来る。鉄軌道を用へれば10両余を2人の力で容易に運転出来る。

以上、編年史よりひろい出して見た。イラストがないのでどのような物か分らない。あるいは自転車とかけ離れたものかもしれない。しかし、なにかの参考にはなるだろう。別の資料から裏付けられるとよいのだが、今後調べて見たい。

☆明治発行のに小国民」(学舎館)、自転事関係の記事あり、①M26.小国民第5年第6号、運用自転車、P.42~P.43。②M27. 小国民第6年第8号、水陸自転車、P.32。③M27小国民第6年第10号、自転車、P.33。

 小国民に限らず、当時の雑誌をたんねんに調べれば、かなり自転車関係の記事も出てこよう。いずれにしてもたいへんな労力が必要である。

※自転事に関する情報なんでも結構ですからハガキでご連絡下さい。


「ぜんまい仕掛の車発明」
明治10年5月24日 讀賣新聞
新聞集成『明治編年史』第3巻 214頁
国会図書館所蔵

2025年11月5日水曜日

E. G. ラッタの自転車

E. G. ラッタの自転車

ベロシペード

第378,253号 1888年2月21日特許取得

E. G. ラッタ 発明者 

アメリカ合衆国特許庁

ニューヨーク州フレンドシップ在住のエミット・G・ラッタ、メイン州ポートランドのポープ・マニュファクチャリング・カンパニーの譲渡人

ニューヨーク州アレガニー郡フレンドシップ在住の私、エミット・G・ラッタは、自転車の新たな有用な改良5点を発明。以下はその明細書。

本発明は、特に「安全自転車」として知られ、前輪と後輪を備え、2つの車輪がほぼ同じ直径である自転車の改良に関するもの。

本発明の目的は、安全で、強固で、整備性に優れ、現在使用されている自転車よりも容易に操縦できる機械を提供すること、また、使用しないときには折りたたむことができるようにし、保管スペースをほとんど必要とせず、輸送を容易にすることである。

本発明は、以下に説明し、特許請求の範囲で指摘する改良点からなる。・・・


図1

図2

以下はその明細書
1頁

2頁

3頁

2025年11月4日火曜日

自轉車瓦版 第43号

 自轉車瓦版 第43号

昭和60年6月27日発行

☆会報“自轉車”№22、のミス・プリントについて、

P.5右上5行目、「ナライアスロン」→「トライアスロンJ、P.5右下から8行目、「サイクルスポーツ」を追加。

☆『自転車泥棒』(原題: Ladri di Biciclette, 英題: The Bicycle Thief)監督はヴィットリオ・デ・シーカのビデオカセットをお譲りします。送料とも4500円、希望者は事務局へご連絡下さい。(申込みから3 週間ぐらいかかりますのでご了承下さい。)

☆ マッチラベル・コレクション

ヒドリ自転車ほか

宮田自転車ほか

2025年11月3日月曜日

L.A.W - 2

  L.A.W. ブレティン・アンド・グッド・ロード

L. A. W. BULLETIN AND GOOD ROADS.「L. A. W. 速報と道路」

アメリカ自転車連盟発行

1895年7月19日発行

目的:軍隊用自転車のテスト

アーサー・P・スタンリー・ハイド著

第9アメリカ歩兵連隊のヒュー・D・ワイズ中尉は、6月12日にオンタリオ湖のサケット港にあるマディソン兵舎から注目すべき走行試験をした。

オンタリオ湖からニューヨーク州ガバナーズ島まで、19ポンドの自転車に乗って3日半かけて、距離は397マイルを予定。だが道に迷ったため、実際に走った距離は418マイルとサイクロメーターは示していた。この行軍の目的は、自転車がどれほど価値があるかを判断することであった。ワイズ中尉はこの行軍のために何の体力的な準備も訓練もしていない。84時間の行軍中、そのうち54時間は自転車に乗っていが、睡眠はわずか6時間しか取らず、目的地に到着したときにはそれほど疲労を感じていなかった。・・・・


13頁

14頁

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表紙

2025年11月2日日曜日

自轉車 第9号 - 7

 自轉車 第9号 - 7

快進社 明治34年4月1日発行

以下は拾い読み、

女子嗜輸會に臨みて

尾川松子

芳春三月十日は、吾等同志の間に成れる、女子嗜輸會の例會日に當り、三島醫學士の講話あるべく、且つは近郊散策の企もありとの通知ありければ、妾は此日午前九時半新橋發列車にて、關西地方へ公用を帯びて出張せらるる父を停車場まで見送り、連れの人々へ挨拶もそこそこに、急き會場なる神田鍋町東宮いと子氏方へ行けば、早や例刻を過ぎて時針は十時二十六分を示してあり、會員も十三名程見へ、三島先生も来られてあり、本會の爲め万端斡旋の勞を取らるる快進社の佐藤氏等を相手に、雑話を試みられてありき、やがて大學病院へ朋の見舞に行かれたりと云ふ朝夷竹子、岩堀げん子兩氏の歸場せらるるを待ら受け三島先生の講話開かれたり、其大要を摘記すれば左の如くにてありき。余が自轉車に関する知識は、僅かに一周日前程より乗車を練習しつつある位にて、是すら足痛の爲め中止しあるなれば、未だ諸子に向つて講話を爲すべきの場合に至り兼ねれど、何れ研究の後材料を得て、委しく説く所あるべし、只今日は初對面の挨拶迄に自分が斯くと心付きたる二三の点を御話せん、當初、此會を設立せらるるに當て、女子の自轉車乘用の利害如何を問ふものありしが、余は前に云ふ如く、未研究のものあるを以て利害の詳細を明言するを得ざれ共、免に角余は女子の自轉車乘用は不可あるものにあらず、獎勵すべきものなれば、强て嗜輸會の設立に向て非難の論法を向くる勿れとの注意を與へたりき、元來日本女子の体育不完全は、内に屏息するより起こるものあるを以で、此弊根を除却するの道を求むるは、日本女子体育の發達を計る上に於て最捷徑のことたるを信するの余は、諸子が奮然蹶起・・・


18頁

19頁

20頁

2025年11月1日土曜日

L.A.W

 L.A.W. ブレティン・アンド・グッド・ロード

L. A. W. BULLETIN AND GOOD ROADS(L. A. W. 速報と道路)
アメリカ自転車連盟
1898年1月発行
註、以下の記事は当時の自転車の歴史認識を知ることが出来る。

自転車の進化
III. 最初の二輪車
1767-1821.
最初の二輪車が登場した正確な日付は、四輪車が登場した日付と同じくらい不確かである。一般的には1816年か1818年とされているが、もっと以前だった可能性もある。1767年頃にはそのような機械がいくつか発明され使用されたと言われており、今世紀初頭にホビーホースが登場した際には、以前のものよりも改良されていたという印象があった。おそらく、1787年のイギリスの雑誌に掲載された以下の詩は、初期の出来事に言及しているのだろう。

「私を軽蔑する人もいるかもしれないが、私の魅力を高く評価する人もいるだろう。それでもなお、彼らは自分が賢いと思っている。時には、確かに私はおもちゃで、活発な少年を喜ばせるために作られた。しかし、私はあらゆるジャック・オー・ダンディを楽しませる。偉大な人物でさえ、時には私を便利に使い、私にまたがると、ペガサスに乗っていると思うだろう。」

これらの感情は、1820年頃の状況について私たちが知っていることと非常によく一致しているため、当時書かれたもと思われる。しかし、機械が完全に役に立たなかったため、当然ながら短命に終わったであろう。それでも、同時代に他の注目があったはずであり、将来の調査で、18世紀に何らかの粗雑なホビーホースが作られたことが証明されても不思議ではない。1808年、奇妙な機械の外観とその説明の痕跡が見つかった。同じ大きさの2つの車輪がフレームで接続され、上部のバーには馬の頭と体を表現した彫刻が施されていた。スケートのように、足で地面を蹴って推進し、前輪を回転させる手段がなかったので、直線でしか移動できなかった。この欠陥により、制御が困難で、どの速度でも危険であり、役に立たない装置であった。
ライン川沿いのマンハイムのフォン・ドライス男爵か、シャロンのニエプス氏のどちらが最初にこの装置を製造したのかは、まだ完全には分かっていない。前者は森林の管理者としての職務で発明したようで、後者はリュクサンブール公園に来る常連を驚かせていた。1818年、ルイ・ジョセフ・ディヌールはパリでドライス男爵のために特許を取得した。特許では、この機械は「velocipede(ベロシペード)」と呼ばれていた。この新しい言葉は、当時フランスで動物に曳かれる乗り物に使用されていた「velocifere(ベロシフェール)」という名前に由来している。ドイツ人は発明者にちなんで「Drais Lauf-Mashin(ドライス・ラウフ・マシン)」と呼び、イギリスでは「Draisine(ドライジーネ)」として知られていた。この形式はドイツで現在も保存されており、今でも関税では、自転車「Fahrraeder(ファレーダー)」に関するセクションで「Draisinen(ドライスネン)」と「Strassen-draisinen(シュトラッセン・ドライジネン)」という言葉が使用されている。1891年、フォン・ドライスの故郷のサイクリストたちは、「自転車の父」として彼を記念する記念碑を建てることを決めた。
 1816年、フランスのニエプスのセレリペード は、最初はセレリフェール、後にセレリペードと呼ばれた。その構造はドライジーネと似ており、これらの機械が大きく改良されたのは、操舵機能が導入されたことである。ドライジーネでは、前輪は先端に旋回するフォークに取り付けられ、その上に乗り手が握るためのクロスハンドルが付いたバーで制御された。サドルのすぐ前には、移動時に寄りかかるためのチェストレストがあった。操舵時には、腕がハンドルの下から握るように設計されており、ほとんどの図に示されているように、腕をハンドルの上に置くことはない。セレリペードの操舵は、パーチを貫通し、上部にクロスハンドルが付いた垂直のフォークによって行われた。どちらの機械も、以前のものと同様に、乗り手の長い歩幅で推進された。フォン・ドライス男爵はフランスで特許を取得した直後にイギリスに導入したと主張されているが、この印象は彼の名前が機械と結びついていることから生じたようである。いずれにせよ、1818年、ロング・エーカーのデニス・ジョンソンはドライジンの細部を改良し、大幅に軽量化して、同年12月に特許を取得した。彼は当初「パリジャン・カリキュラム」と呼んでいたが、これは一般的な名前ではなかったため、「ペデストリアン・カリキュラム」に変更された。大陸で使用されていた古い名前もこの機械に適用され、関心が高まるにつれて「ホビーホース」や「ダンディホース」という用語が一般的に使用されるようになった。調節可能なサドル(明らかに前後のみに可動)が使用され、新しいステアリングアームとハンドルが採用された。1819年、リーズのジョン・ベインズは、「レバー、踏み板、杖」で駆動する機械の特許を取得した。この機械は、足が地面に触れないように設計されていた。実用化はされなかったようで、ほとんど知られていない。2年後、サリーのルイス・ゴンペルツは、前輪を駆動するために腕を使うことで脚の動きを補おうと試みた。彼のフロントフォークはソケットで作動し、操舵ハンドルには前輪ハブのピニオンと噛み合うセグメントラックが取り付けられており、腕で推進力を補助することができた。これは扱いにくく実用的ではなかった。その間に(1819年)、ドライジーネはニューヨークに移入され、大きな関心を集めた。この流行は他の都市にも広がり、いくつかの機械が製造され、貸し出された。6月にはW・K・クラークソンに「ベロシペードの改良」の特許が与えられた。しかし、特許庁は1836年の火災で焼失し、この特許はファイルに復元されていないため、詳細は分からない。

12月31日発行の743ページにある「自転車の進化」の第2章の小見出しは、「三輪車と四輪車」とすべきであった。

12頁

13頁

表紙

2025年10月31日金曜日

サイクリング誌

 サイクリング誌

1896年2月1日発行

斬新な三輪車

写真は、最近パリで開催されたサロン・デュ・シクリュに登場した新製品の三輪車である。ハンバー社が、有名なフランスの自転車専門家であるボーディ・ド・ソーニエの設計に基づいて製作したもので、ソーニエ氏によると、雨天や泥濘地での使用を想定している。このマシンは、同じサイズの車輪を持つ空気入りタイヤ付き三輪車である。フレームは取り外し可能なアルミチューブで構成されており、防水素材に覆われている。キャブへの入り口は後部にあるため、乗客と運転手が同時にキャブに乗車できる。


サイクリング誌
1896年2月1日発行

2025年10月30日木曜日

自轉車 第9号 - 6

  自轉車 第9号 - 6

快進社 明治34年4月1日発行

以下は拾い読み、

奥州轉輪記

那珂通世

今年二月下旬、文部省より栃木福島宮城三縣學校視察の爲出張を命ぜられ、三月三日を以て雙輪を轉じて、自宅を出發せり。

余は、奥州の生まれなれば、奥州街道は、明治の初に幾度も往返したれども、近年に至りては、汽車の便にのみ依れるが故に、都邑宿驛の盛衰、道路田野の變遷等、委しく観察すべき機會を得ざりしが、此度は、學校視察の序に、途上の風光を貪り見るも亦一興なりと思ひ、かくて轉輪旅行を擇びたるなり。 轉輪旅行の旅装と云へば、鳥打帽に半ヅボンと定まれる様なれども、余は諸學校臨視の命を受け居れば、かかる略装をなし難し。山高帽に、上下揃へる洋服を着て、鐡の足輸を以てヅボンの裾をくくりたるは、殆ど平日出校の装に異ならず。唯白シャツとカラーとは、いかにも疾走に便ならざれば、これは風呂敷に包みて手荷物とし、チョッキの下にフラネルのシャッ三枚、ヅボンの下に股引二枚をはき、外套を用いず、襟巻を巻かず、腰にピストルを帯び、 手に皮の手袋をはめて、これにて奥州山野の寒風氷雪にも畏れざる覺悟なり。先年岐蘇路播州路北陸道などを巡遊せし時は、手荷物の重さ一貫目に近く、・・・・

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2025年10月29日水曜日

「ホイール」誌 - 14

 「ホイール」誌 - 14

サイクリング・トレード・レビュー

第2巻 第6号

ニューヨーク、1888年10月5日

ロードスカラーの競技

マディソン・スクエア・ガーデンにて、10月7日(日)より開催。

新発明のロードスカラー、または陸上漕ぎ三輪車による6日間のボートレース。

14名の出場選手は、世界の偉大なスカラーたちだ。出場者は以下の通り。

ジョン・ティーマー、ウィリアム・オコナー、ジェイコブ・G・ゴーダー、ウォレス・ロス、ジョージ・ブーベア、ウィリアム・G・イースト、アルバート・ハム、ジョン・マッケイ、ジョージ・W・リー、フレッド・プレイステッド、ジョン・ラーガン、ピーター・H・コンリー、ジェームズ・A・テン・アイク、ジェイコブ・ティーマー

賞金1万ドル

提供される賞金は、これまでのボート競技で競われたものよりも高額で、レースは訓練された選手たちによる真の競争となる。10月7日(日)深夜0時から6時間漕ぎ、その後は毎日午後2時から12時まで、土曜日の深夜0時まで漕ぎ続ける。

入場料50セント、指定席1ドル

148頁
「ホイール」誌
1888年10月5日発行

2025年10月28日火曜日

自轉車 第9号 - 5

 自轉車 第9号 - 5

快進社 明治34年4月1日発行

下は、石川商会神戸支店、石川賢治氏寄贈写真

口絵

ピアス広告

「ピアス」は米國製自轉車中總ての點に於て最も完全なる最も優等なるものなり去ればニュー、ヨーク市及び其附近に散在せらるる、愛輸家諸君にして、昨年一年間に於て、ピアスを其競走用に供して、賞牌を得たるもの實に弐百七拾七人の大多数に達し内壹百名は一等賞を得、九拾七名は二等賞を、而して殘餘は皆悉く三等賞以下を得たるものにして、此内知れ渡りたる重なる人物の姓名は、クラマー、 サリバン、ジョンベタル、ワアーレンバアージャー、ウェルシング、ブロッス、ハンター、エンベルトン、スクレイーバー、ビリングトン、ムーアー、コッフェー、エールス、ウイドナーア等の諸君なるが、殊に著しき例をあぐれば、ニェーブリストンの人なるビー、シー、チャー氏の如きは常に深くピアスを愛乗に供して、今日まで前后得たる賞牌の數、實に四拾六個の多きに及びたる由にて特に本社に向て感謝状を寄せられたり
ピアス製造元、米國バッファロー市
ジョージ・エヌ・ピアス會社

2025年10月27日月曜日

ロンドン・デイリー関連

 ロンドン・デイリー関連

下記はロンドン・デイリー関連の資料、

「少年園」13巻154号 1895年(明治28年)3月18日発行

自轉車世界一週

自轉車に乗じて世界一週を企てたる米国の新聞記者ロンドン、デイリー嬢は、本月五日香港より入港のシドニー號にて神戸に着し、次で横濱に来れり。

註、ロンドン・デイリーについては→こちらを参照


354頁

奥付

2025年10月26日日曜日

自轉車 第9号 - 4

 自轉車 第9号 - 4

快進社 明治34年4月1日発行

下の口絵は、自転車直輸入業横浜石川商会米國支店員、石川健治氏寄贈


口絵

靉晚峰の広告
靉晚峰「アイバンホー」
定価 金百二拾五圓より金百九拾八圓まで
「アイバンホー」自轉車は夙に貴邦人に知られたる彼の「クリーブランド」自轉車と製造所を等くし而かも研究の上に研究を加えたる最近の製出にして出藍の譽れある自轉車なり其構造、極めて精巧にして其速力、頗る迅速なる其上に体裁の優美高尙なるは此車の長所なり又其護謨環は世界有名の「ダンロップ」にして掛け外ずし自在の二重輪なり尤も競走車には競走用護謨環中彼の有名なる「ハートフォルド」を用ゆ
北米トロント市
カナダ、サイクル、エンド、モートル會社


IVANHOE BICYCLESのカタログ
1900年頃

2025年10月25日土曜日

「ホイール」誌 - 13

 「ホイール」誌 - 13

サイクリング・トレード・レビュー

第2巻 第6号

ニューヨーク、1888年10月5日

アメリカン・ランブラーの広告
史上最高のヒルクライム・クランクマシン
史上最速のコースター、即納可能
安全、美しい、高速、簡単なステアリング
製造元:ゴーマリー&ジェフェリー・マニュファクチャリング社
イリノイ州シカゴ

表紙

28頁
ゴルマリー&ジェフェリーのカタログ
1888年

ゴルマリー&ジェフェリーMFG社、イリノイ州シカゴ
アメリカン・ランブラー
これまでで最も軽量で、最も独創的、最も楽に走行する後輪駆動
ホイールを除くすべてニッケルメッキ

註、ゴーマリー&ジェフェリー・マニュファクチャリング社(Gormully & Jeffery Manufacturing Company)は、19世紀末のアメリカで活躍した自転車メーカー。
会社概要、
トマス・B・ジェフリーとフィリップ・ゴーマリーにより 1878年に創業。
所在地は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
主な製品は、ランブラー(Rambler)ブランドの自転車