2022年5月12日木曜日

自転車関係資料-101

 自転車関係資料-101

この資料も「別冊・旅とサイクリスト」昭和46年4月20日発行から

28頁の一部を抜粋、

日本に始めて自転車が輸入されたのはいつのころか、明確な記録はない。幕末に渡来したという説もあるが、歴史書に残っているものでは、明治2年に横浜で外人が乗り回して日本人を驚かした、というのが最古らしい。明治3年に発行された「当世車づくし」に自転車が絵入りで紹介されているので、そのころには自転車が渡来していたことは確かである。台数も少なく、金持ちの高級なオモチャであったらしい。国産の第1号車は明治22年ころにできたようだが、以来80年間、日本の自転車産業は長い西洋のものまね時代を経て、自主技術開発の現在に至り、世界に君臨するところまでに成長したわけである。

註、この序文の記事は適切である。ただし「国産の第1号車は明治22年」については疑問が残る。

「別冊 旅とサイクリスト」
昭和46年4月20日発行
28.29頁

30.31頁

32頁

2022年5月11日水曜日

自転車関係資料-100

 自転車関係資料-100

別冊「旅とサイクリスト」昭和46年4月20日発行に杉野鉄工所(現、株式会社スギノエンジニアリング)の沿革が少し書かれていたので紹介する。
創業者は杉野佐太郎、二代目が杉野貞雄、三代目が杉野 安、四代目が杉野耕造(2010年現在)
創業は1910年(明治43年)と古い。今年で既に112年になる老舗である。

以下抜粋、
社名:株式会社杉野鉄工所
本社:大阪市東成区大今里1-10-7 
設立:昭和23年9月11日
役員:取締役社長 杉野 安
取締役 杉野朗子、取締役部長 永井敏彦、取締役工場長 進藤保郎、取締役 河合淳三
営業輸出担当者 村井永一
主要製品:自転車用各種ギヤクランク生産販売、ハンドルポストプレスフレーム製作、自転車用ハブ・ウィングナット・スピードメーター・ボトル等輸入販売
会社概況:当社は明治43年9月、杉野佐太郎が大阪でギヤクランクの製造したことに始まる。
昭和6年、2代目杉野貞雄が現在地に、当時としては珍しい鉄骨の工場を新築しドイツからクロームメッキ法を導入して近代的製法を開発、規格統一の運動を展開した。
昭和23年、時代の要求に応じて近代経営に出発するため株式会社に組織を変更、初代社長として杉野 安が就任した。
昭和35年、社長の第1回欧州視察の結論をもとに、自転車のスポーツ化が進められると確信し、スポーツ部品としてのギャクランク開発に力を集中した。
昭和40年、第1次合理化3ヶ年計画をスタートさせ、メッキ工場、組立工場の新設、冷間フラッシュ方式の実用化、鍛造工場の改良、ギヤ加工大型プレス・ホピングマシンの購入により着々と業績を高める成果を納めた。引き続き第2次合理化3カ年計画を実施し、八尾工場の新設、アメリカ製転造機の導入、1本クランクの生産ラインの完成などにより、年率25%の高度成長を示して、ギヤメーカーとして業界のトップの座を占めるまでに至る。
当社の創業の精神は「努力・創造・会社への貢献」です。そのため、パーフェクトC.Q.D生産を通じて社会に奉仕することを目標にしている。Cは原価、Qは品質、Dは納期のことで、これを完全に管理するのがパーフェクトC.Q.Dで、他よりも安く、良い製品をつくり、納期に間に合わすことが企業の本質であると信じて、従業員一同努力している。
当社の製品は、国内の主要完成車メーカーはもとより、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、ベルギー、オランダ、南ア連邦、アフリカ諸国、インドネシア・マレーシア、ブラジル、東南アジア、メキシコ、オーストラリアなどの世界諸国に輸出され、好評を博している。

別冊 旅とサイクリスト
178頁

表紙
別冊 旅とサイクリスト
昭和46年4月20日発行

2022年5月10日火曜日

有名な「ラントーン」⑤

 有名な「ラントーン」⑤ 最終回

イギリスの特許の侵害が関係しているかどうかにかかわらず、ラントーン・Rantooneの手と足の原理は、1860年代以降の多くのマシンで採用された。

1865年から1870年の間に、このタイプのベロシペードが少なくとも5つあり、「イングリッシュ・メカニック」のページに図解入りで説明されている。

タウンリー・ Townley dos-a-dos ベロシペード(1867年8月30日のイラストを参照)。

原型に非常に近く、実際、設計者は「ラントーンの構造」の使用を認めている。足踏み駆動の「レディース・パリジャン三輪車」には、「クランクアクスルに作用して速度を大幅に向上させるためにサイドレバーが取り付けられている」とある。

(「ベロシペード、自転車および三輪車」1869年、68ページ)。

ニーダム・タンデム三輪車イラストのリアライダー、1869年8月13日、「King of the Road」1975年、p100)は、現在クライストチャーチ三輪車博物館に貸し出されており、クランク付きリアアクスルで作動するハンドレバーと足踏みの組み合わせによって推進を向上させている。また、H.J.ローソンの1876年の特許(1876年の第2649号)では、手と足のレバーを別々に、またはその組み合わせで駆動するマシンも含まれていた。(上記のSammy Bartleetによる)完全を期すために、1880年代の最も有名な手動レバー推進機(元々は1869年に特許を取得)、チャーズリーの「ベロシマン」についても言及する必要があるが、ここでは、足の推進力は主要な駆動装置の補助的な役割である。

筆者はこれまで解決できなかったラントーンの関連した記事について、いくつかの疑問があった。 1869年にパンチの年鑑から複製された漫画「ラントーンの走り」は、その要点を明らかにしている。このマシンは、この記事で説明されているようなRantooneの特許取得済みの機能はないが、踏板駆動とティラー・ステアリングを備えた通常の三輪車であり、(例えば)Lisle's Ladies English Velocipede(「Velocipedes、Bicycles、andTricycles」p66)に似ている。パンチのイラストは、ビラリキーのデイブ・トゥイッチットが所有する2つのマグカップの装飾にも使用されている。 「サイクリスト・ツーリング・クラブのロマンス」では、1928年(p14)、J.T.ライトウッドは、「パンチ」を「かなり信頼できる史実」と云っている。ライトウッドは後に(p19)、1869年4月のマンチェスターの論文「The Sphinx」で言及し、当時の「ベロシペード・マニア」で論じている。ライトウッドは、「スフィンクス」で「一般的に”ラントーン”を明らかに使用していた」と云っている。この頃になるとこのマシンは非常によく知られるようになったため、あらゆる種類の自転車や三輪車は「ラントーン」と呼ばれるようにもなった。

またはパンチによって示されているように「Rantoone」も、筆者の見解では、一般的にある程度の妥当性はあるかもしれないが、正確な答えを提供しているわけではない。 「Rantoone」として知られている、パンチの漫画(およびDave Twitchettのマグカップ)に描かれているような特定のマシンが実際に製造され、かなりの数が使用されたことを示唆している。

それは、1896年8月15日の「The Hub」の「A Pioneer」による「Old Time」サイクリングに関する記事に登場する(p.65)。

その後、アメリカの発明である”Rantoone”と呼ばれるような偽情報もある。「ペダルの長さは約3フィートで、全体が薄い鉄ででき、靴のような黒い箱と同じくらいの大きさで、常に赤く塗られていた」とあり、次のページには、パンチの漫画とほぼ同じであるが、「ばかげたラントーン」(複製)というタイトルのイラストがある。このマシン(ジョセフ・グッドマンが特許を取得した以前のマシンよりも明らかに劣っている)は、アメリカと両方?、はたして誰が作ったか?、など謎である。

オリジナルの「Rantoone」との関係は何か(たぶん商標名の使用が許可されている)?

会員ならおそらくこれらの質問に対する答えを持っているだろう、それなら筆者は喜ばしい!

しかし、私たちのコメントをグッドマンのマシンだけに限定すると、ラントーンが1860年代、そして数年間イギリスでの三輪ベロシペードの開発に重要な役割を果たしたことは明らかである。

THE CELEBRATED "RANTOONE" by Roger Street
THE BONESHAKER、№122 SPRING 1990
19頁

21頁

22頁

完、

註、今後もラントーンに関する何らかの資料が出てきたら、また、このブログで紹介したい。
それに一つ付け加えれば、日本のラントーン型三輪車も忘れてはならない。ロジャー・ストリート氏が、日本の錦絵を見ていたら、この「有名なラントーン」の記事に付け加えたはずである。

2022年5月8日日曜日

有名な「ラントーン」④

 有名な「ラントーン」④

さまざまな現代の情報源から、ラントーン・Rantooneは、おそらく発明者からのライセンスの下で、或いは特許を取得して、少なくとも3つの英国企業によって販売されたことが分かっている。

その会社はチープサイドのチャールズ・ポメロイ・ボタン社( Charles Pomeroy Button)、エセックス・ストリート、ストランドのランサム社(Messrs. Ransome)、そしてバーミンガムのボーデスリー・ワークスのペイトン&ペイトン社(Peyton and Peyton) である。これらの会社は1869年頃に活動しており、当時のイラスト入り広告などの資料がある。

C.P.ボタンは早くも1865年には製品を製造販売していた。1865年9月23日付の「The Scientific American」の「Improved Velocipede」というタイトルの記事(イラスト付き)がある。「そのマシンはイギリスのどの州でも非常に人気があった」とある。

サミー・バートレット(バートレットの自転車の本、1931年発行、39頁)によると、ペイトン&ペイトンは1864年にラントーン車を製造していたとある、これは正しい記述と思われる。

価格はサイズによって異なるが、一般的には8〜14ギニーの範囲だった。(ただし、ボタンの広告はサイズと構造に応じて5〜25ギニーの範囲である)

このマシンには3つの標準サイズがあった。メインホイールの直径がそれぞれ30”(吋)のユースモデルと、ホイールの直径がそれぞれ36"と42"の2つの大人用モデルである。(Scientific American)

その他、より小さなサイズも製造された可能性がある。注:「幼い子供は、これらのマシンの1つを、そのサイズに合わせて、補助なしで操縦し、速い速度で推進することができる」とある。ブライドウェル博物館には、この3つの標準サイズがすべての現存されている。

ノリッジのバードウェル博物館(30'')、ボーリューの国立自動車博物館(36'')、クライストチャーチ三輪車博物館(42'')。 これら3台のマシンは写真を参照。残念ながら、これらを裏付ける正確な資料は残っていない。

ノリッジのマシン c.1860年は明らかに間違っているし、c.1865年の両方がリストアップされている、ボーリューのものは「Ransome's Rantoone Tricycle、1864年」としてカタログ化されているが、これらも裏付けがない。

ノリッジのマシンは、全体的に非常に良好な状態が保たれている。鉄のフレームは黒く塗られ、木製の車輪は黄色(青いハブ付き)、シートは黄色の青いフレームで塗られている。興味深い機能は、ハンドレバーを直角に伸ばし、ライダーに近いハンドル位置にある。これは、ユースマシンの特性であるか、特定のメーカーの一般的な変更の可能性がある。ボーリューのアイテムはかなり状態が悪い、クライストチャーチ三輪車博物館の展示品は、ハンドレバーと特許取得済みのステアリング配置が最も注目に値する。

ボーリューのマシンのハンドル部分は全体が変更され、ある段階でボーンシェーカータイプのハンドルバーに置き換えられている。

フルサイズのクライストチャーチマシンは、最近までヘアウッドの初期のものであり、事実優れたオリジナルの状態を保っている。フレームは赤と黒に塗り直されているが、コーチの裏地は(取得時に残っているいくつかのペイントの痕跡をたどる)、元のホイールはダークブラウンで、再び赤いコーチの裏地があり、ニスの保護コートを除いては手直しされていない。重さは約120ポンド。

他に車輪のないRantooneフレームの復元を待っているのは、ウォルサムストーのハロルド・ジョーンズ所有のもの。

 Rantooneは、イギリスだけでなくアメリカでも製造、販売されている可能性がある。米国特許には、保護を受ける資格のある個人を「英国サリー州ブラックフライアーズロードのジョセフグッドマン、ニューヨーク州ニューヨークのチャールズP.ボタンの譲渡人」とある。これには予期せぬ興味深い見出しが含まれている。 1860年代の後半を確認すると、ボタンは、1865年にグッドマンが馬車の車輪に関連して(1863年に英国の助成金を得る)など、英国の発明家によってアメリカで取得されたさまざまな特許の譲受人であったことがわかる。小さなアームハンドルアタッチメントなど、さまざまなアイテムをカバーし、ボーリングドリル、サンドポンプ、編み機、耐火金庫など。ボタンがアメリカに持ち込み、そこで特許を取得して販売した可能性がある。1865年の「Scientific American」のメモは「米国の特許は売りに出されている」で終わっているが、記者はその後のRantooneの米国での言及や発見を報告していない。おそらく購入者は見つからず、外国の製造業者もなかったはずである。

ノリッジのバードウェル博物館 17頁上

ボーリューの国立自動車博物館 17頁下

クライストチャーチ三輪車博物館 18頁


つづく、

2022年5月6日金曜日

自転車関連資料-99

 自転車関連資料-99

この資料はオバーマン・ホイール・カンパニーのカタログである。

ここに掲載されているビクター号は特に日本の自転車文化に影響を与えたブランドの一つである。福沢桃介、和田義睦らがこの自転車の熱心な乗用家であった。また、梶野仁之助もこの会社と取引があり、一時アッセンブル方式により、彼の工場で組立をしていた。

表紙 1892年(明治25年)発行

ビクター安全型自転車 Cモデル

サスペンションの仕組み 21頁

23頁

2022年5月3日火曜日

ポストカード-①

 ポストカード-①

下の画はポストカードから、

原画の年代は何時頃のものか分からない。

一見どことなくラントーン型の四輪車というところであるが、よく見るとその駆動方式は違っている。

レコードレーシングカー、フリーホイールチェーンと鋼歯車付き(Record Rennwagen mit Freilauf Ketten u.Stahlgetriebe)

とある。

註、この画を見る限り、手動式の後輪駆動である。足は使っていないようだ。フリーホイールのスチールギア付であるから年代的には1800年代の後半かも知れない。

レコードレーシングカー
のポストカード

宛名側

2022年5月2日月曜日

自転車関係資料-98

 自転車関係資料-98

現、株式会社スギノエンジニアリング の二代目にあたる杉野貞雄氏が書いた資料が出てきたので参考までに紹介する。

この本の一部を抜粋、

「自転車の話」杉野貞雄 著 昭和2年6月20日発行 杉野鉄工所

序
杉野貞雄氏は本校機械科卒業以来自轉車製造にして約十年計り没頭せられて居ますが今回本
著の原稿を示されましたので直ちに筆を執って内容索引に代へ個條書きして序文といたしました。
一、自轉車の各部は此頃やかましい規格の統一上最も其の必要を痛感する適例であると云ふ事が出版の根源と思ひます。
一、今日迄内外を通じて自轉車に関する良い著書が極めて少ないと云ふ事も一つの動機であります。
一、 本書の内容は平易で且つ学理をも合せて親切に記述されて居る事は何より結構と思ひます。
一、 本書は氏の経験を骨子として書かれたもので極めて適切で其の要を得て居られます。尚ほ次篇には自轉車の「フレーム」の構造、回轉部分に及び終りに電気メッキの一般まで書かれる筈であると云ふ事が親切な仕方と思ひます。
一、 一般卸商人は申すに及ばず修繕に従事される人は進んで本書を熟読なされば便益が非常に多からうと存じます。

昭和弐年六月
大阪市立都島工業學校長 杉田  稔 識

はしがき
一定の規準なくして製作さる物は魂なき人間に等しく何等価値の存在を認めざるなり。故に予は我等の製作する自轉車にも魂ある規準正しきものを造られん事を望む。然るに未だ我国には統一せる規格なく偶々嘗て全国自轉車業組合聯合大会に於いて諸氏の批判を乞はんとせしも大阪案として提出を許されず廃案の悲境に遭ひ其の賛否を得る能はざりしは甚だ遺憾とする所なり。
併し来るべき日諸氏の賛同を得る自信を以て努力を重ね此処に其の一端を発表して「自轉車の話」を刊行す。 幸に諸氏の忌憚なき御批判を得ば幸甚なり。
尚終りに臨んで今回の愚挙に対し御多忙なる製造家諸氏の熱烈な御同情御指導を賜りたることを深く感謝す。
昭和貳年六月
著者 識

目次
一、自轉車の沿革・・・・・・・・1頁
二、自轉車の構造・・・・・・・・4頁

一、クランクシャフトに就いて・・4頁
二、クランクピンに就て・・・・・5頁
三、チェンに就て・・・・・・・・6頁
四、ギャクランクに就て・・・・・12頁
五、 ペタルに就て・・・・・・・・17頁
六、ネジ山角度に就て・・・・・・19頁

一、自轉車の沿革
自轉車と云ふ名称は千八百七十年頃よりの呼称であると推定されますが自轉車 (CYCLE) は希臘語の (KUKXOS) ククロス (輪) と云ふのが語源となって居ります、 そこで自轉車の類似のものとしては紀元前千五百年(即ち今より約三千五百年前) 古代文明の源であるエジプトのバビロンの時代に既にあったので、有名なポンペーの壁画に歴然と書かれてあります。故に尤も確實な証左とする事が出来ます。
紀元後は十六世紀迄記録がありませぬ、それは西暦一六九五年の仏国雑誌「カリッジ」に掲載されてありますが一六六六年仏国の医師でロッシエルのエリーリチャルト氏によつて発明されました、其れは第一図の様な今から考へると誠に児戯に等しい様な幼稚なもので、木製の輪に太い木を固く接合してその木に跨って足で地上を蹴って飛び廻ったもので名称はホッピーホース (HOPPY-HORSE) と云つて現在英国の博物館に保存されてあります。
次に西暦一七六六年仏国ダブリン学校教授が四輪車を発明しその改良したものを一七七九年路易十六世メリーアントネフトの面前で試乗して非常に賞賛を博したと云ふ記録があります、一八一六年同じく巴里の写真の元祖でニュピース氏がセレリーピースと称する二輪車を発明されました。

一八五五年巴里でエルンストミンショウと云ふ十三歳の少年がクランクとベタルを発明致しました、 元来此少年の父は鍛冶屋で父が常に使用する回轉砥石のハンドルから思付いたと云ふ事です、次で一八六五年改良を加へ第二図のベロシピード (VELOCIPEDE) と云ふ車が出来まして漸く実用に供せられる様になったのです、 此名称の訳は飛脚車と云ふのでありまして未だ此時代には自轉車の名称はありませんでした、千八百六十八年項英国コベントリ市の一ミシン会社の技師トーナー氏が仏国から此ペロンピードを取寄せまして製作にかかりましたが英国では非常に斬新で便利なものとして推奨されました、同市がそれ以来今日隆盛な基を為したものと云ふ事が出来ます。

この車の輪は木製で今のタイャーの代りに鋼鉄を巻き付けてサドルは木の上に薄い皮を張ってありました、車体はスプリングの長い平たいもので鋼鉄板と鉄棒とに依って作られてありまして迚も重いものであります、此時代に前後して米国に於ても旺に製作されまして一八七〇年には五十の自轉車学校が出来、 二ヶ月に三百人の卒業生を出して居ります。

一八六九年頃、巴里で前車輪六〇吋後輪十八吋と云ふ前車輪の突飛に大きい奇妙なものが出来ました、米国ではこれをスターマシン第三図 (Star Machin)と云ひましたがこれは日本に来てダルマと称しました、明治三十四五年頃名古屋では旺に小僧車として使用されましたが金輪で騒々しい事をいたら名古屋名物の一つでありました。

一八七五年に英国の牧師チャレス氏が発明されました手動式と云ふものがあります、三輪車で腰掛て両手でバーを動かしてスタンドの様なもので地上を蹴るので一時間二十二哩と云ふ快速力を出したのでありまして、足の不具な人等に賞賛されたとの事です。
それから一八七八年頃米国ボストン市及びハートフォート市で前導式の安全車が出来ました、その年に前後して英国サセックス州オスボン市の機械師ゼームススターレー氏が初めて後導チェン式の丸ゴム輪、股柱、球受の現代式のものが発明されました。 (第四図) 此人は尤も輪界に著名な人で一八八三年六月故人になりました、遺骸は生前因縁深きコベントリー市に埋葬され尚氏の銅像が同地に建てられて居ます。先年名古屋の岡本氏が渡英の際この銅像の写真を持ち帰られたとの事です。
一八八八年ブルファストの獣医ダンロップ氏が空気入のタイャーを発明した。
其の後一八九三年にダンロップ会社が設立されました。同氏は前記スターレー氏と共に輪界の二大恩人としても過賞でありますまい。

我国では明治十四年米国から矢野次郎、中村泰興、 市村市左衛門氏の清壮年諸氏が輸入せられまして旺にハイカラ宣伝をせられました、明治十九年にスチーブンス氏が初めて自轉車で世界一周を完成し日本へも来朝したとの事です。又その頃現今の著名の劇作家松居松翁氏が著作した自転車の一小冊子があります。俳優左団次は毎日明治座に自轉車を利用して出勤して居るとか人力車と自轉車とドチラガ早いか等と云ふ面白い奇問奇答がありました。その後明治廿九年には自轉車倶楽部が出来き競争会が各地に盛んになり東京も不忍池等に時々開催されまして三十年頃より内地で弗々製造も創り三十五年には東京、名古屋に於て稍大規模の製造会社が設立せられました。今日では全国至る所に製造工場があり有力な事業と認められる様に成りました。(青木氏稿より)

昭和貳年六月十五日印刷
昭和貳年六月二十日發行
杉野鐵工所發行

註、この記事を読むとかなり首をかしげたくなるような部分もあるが、これが当時の自転車の歴史認識であることを思えば致し方無い。
杉野鉄工所は、明治43年9月創業の老舗である。現在の会社所在地は奈良県奈良市東九条町であるが当時は大阪市東区清堀町にあった。

表紙

序とまえがき

目次

自転車の沿革


奥付