2025年7月31日木曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-28

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-28

山全般の神である大山津見神を祀る祭りがここで行われている。今日は11月15日、「酉の日」、つまり毎年大山津見神を祀る祭りの一つである。広い境内は人で溢れ、行商人、屋台、曲芸師、そしてあらゆる種類のアトラクションが、この場所を村の縁日のようにしている。

ダルマ自転車を境内の外に置いて、私は人混みの中をぶらぶら歩いた。歩道の両側にある神聖な池には、鯉が群がっている。ある老婦人が、お麩をこぢんまりと売って大儲けしている。人々はそれを買って鯉に投げ、群がって食べるのを見て楽しんでいる。

興味を持ったグループは、ヤンキーの模造品を売っている周りに集まる。そこでは「銀でコーティング」するための小さな箱入りの粉を売っている。また、歌集を売っている人たちは、可愛い少女4人組が次々と歌を歌う斬新なパフォーマンスで客を惹きつけている。また、遠く離れた国の有名な社寺や観光地の写真シーンを含む、小さな旅回りの覗き見ショーもある。

この神社の中には、かつて働き、その賃金を年老いた父親のために酒に費やしていた昔の木こりを祀る祠がある。父親はもはや自分でお金を稼ぐには年を取りすぎていた。父親の死後、息子はその孝行が報われて「純酒の滝」を発見したと伝えられている。

この祭りのために、華やかに装飾された山車と、古い弾薬運搬車によく似た蓋付きのタンブリル(荷車)が囲いから運び出された。小さな鈴が吊り下げられており、母親たちは子供たちを抱き上げ、鈴を鳴らさせ、賽銭箱にコインを投げ入れている。これらの車には神々の御神体が積まれているのであろう。

赤く塗られた木馬が、馬小屋の木の柵の後ろに厳粛な様子で立っている。しかし、日本の社寺とその所有物にはほとんど反対の誓いを立てたいほどである。目にするもののほとんどがあまりにも不可解だからだ。日本神話の神秘を探求した人なら、大山祇神(大山津見神)を訪ねることで、きっと大きな満足感を得られるだろうが、平均的な読者は他の社寺を見た後、すべてに飽きてしまうだろう。猿虎蛇(さるとらへび)のような恐ろしい神話上の怪物や、「二十四孝」は一般人にとって何を意味するのだろうか?しかし、日本の社寺はすべて、こうした装飾で彩られている。芸術作品として称賛に値するものもいくつかあるが、そのほとんどは、醜悪な絵や表現である。


467頁

東海道五十三次之内 三島 朝霧
歌川広重

2025年7月30日水曜日

「自轉車瓦版」 第14号

 「自轉車瓦版」 第14号

昭和60年5月6日発行

☆明治の「輪友」雑誌(M.36.3.10.17号)に次のような興味のある記事があった。

△自転車に関する良書を知りたし其著書と書名と発行所の垂示を乞ふ、(下總好輪生)

▲記者の知る所では、

松居松葉君著「自転車全書」 神田区南甲賀町 内外出版協会発行

梅津大尉著「自転車指針」 京橋区南伝馬町厚生堂発行 

佐藤喜四郎君 「自転車修繕法」 神田区西小川町 快進社発行

尚ほ此他に博文館にも某氏の著書ありと覚ゆ。 P.47

 ◎大坂から今度『輪界』という雑誌が出たが遉がに田村規茂氏が幹する丈あって巻中気骨のある文字を以て満されて居る。輪士の読むべきものは東京で『輪友』 大坂で『輪界』だ。(愛読生) P.67 

▲新刊寄贈書目の欄に、◎「輪界」第1号 大阪輪界社発行とある。69ページ。

我国自転車団体の最も古い日本輪友会の話(一)

 石川 信君「……それから「自轉車」という機関誌も作りまして、たしかこれは5号まで出して廃刊したと思って居ますが、何しろそう云う風で盛に会員も募りました。また雑誌上では欧米の自転車界の事跡も調べて報道しまして、大いにこの道を奨めたのでございます。この雑誌は私も保存して置いたのですが、ただ今一寸見えなくなりました。多分慶応義塾の福澤さんの所には保存してあるだろうと考えます。P.38 

☆福島の真船氏がMTBのハンドルグリップをみて説明したように、やはり反対についているようである。Rightの「R」という文字が左側のグリップに書いてあった。ほとんどのMTBのグリップが反対に付いているのであるからおもしろい。だれが最初に間違えたのであろう。

註、私の所有する水谷のマウンテンバイクもやはりハンドルグリップの左右が逆になっている。


水谷のマウンテンバイク
平塚の土方自転車店で
1983年10月16日購入

ヘッド部

ハンドルグリップ 左が付いている

左側に(R)の文字
これも一つの歴史である
直さずに敢えてそのままにしている

2025年7月29日火曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-27

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-27

青い海に船が点在している。

村や茶屋が、何マイルも先の三日月形の海岸沿いに点在している。そこには、雄大な雪を頂いた富士山が山頂から海へと優雅に傾斜している。三日月形の湾を巡り、興津、由比、蒲原、岩淵といった海岸沿いの村々を通り、大きく優雅に広がる円錐形の山の麓にある小さな町、吉原へと続く。実に素晴らしいサイクリングだ。この辺りの海岸線は、そこから見える富士の独特の美しい景色から、日本の詩歌の中で「田子の浦」と云われている。

この驚くべき山は日本最高峰であり、おそらく現存する円錐山の最も優れた例と言えるだろう。地元の伝説は、この山をロマンティックな光で包み込んでいる。その起源は京都近郊の琵琶湖の形成と同時期とされ、山と湖は一夜にして形成された。一方は標高12,800フィート(3775.56メートル)の平野から隆起し、もう一方は海面に達するまで沈んだのである。

富士山の山頂は、悟りを求めて山頂に登った役行者に倣い、「完全なる平安」を得たいと願う日本の修行僧などの巡礼地である。正統派の日本人は、巡礼者の草鞋から落ちた砂粒が、夜の間に自ら再び山頂に登ると信じている。

さらに、伝説によると、六十五日目の数時間、山から雪が完全に消え、翌夜には再び降り始めるとも信じられている。かつて活火山であった富士山は、今でも山頂付近の様々な割れ目から水蒸気を噴き出しており、いつの日か吉原や近隣の村々の善良な人々に、その力強い感覚を鮮やかに感じさせるだろう。富士山は日本人の特別な誇りであり、その美しさは日本の美意識に強く訴えかけている。詩人は富士山について歌っている。

「大いなる伏山よ、天にそびえ立つ!汝は人間に与えられた宝、日本を見守る守護神、汝に永遠に目を奪われよう!」

富士山を過ぎ去り、吉原から16マイル進むと、今夜の目的地である三島に到着した。


466頁

237 頁 
特徴的な山の近く 
「アウティング」誌 第12巻 4月~9月
 1888年(合本版)

岩淵 東海道
明治期の写真

2025年7月28日月曜日

「自轉車瓦版」 第13号

 「自轉車瓦版」 第13号

昭和60年5月4日発行

☆「自転車泥棒」ヴィットリオ・デ・シーカの傑作、ビデオテープソフトを東芝で発売予定。(1本14,800円、5月21日発売)

「失業した労働者とそのかわいい坊やが、どうにも食えなくて、ついに自転車泥棒をやることにしようとするが、失敗して、二人は手をしっかり握り合い、涙を流して町を歩く、あのラスト・シーンをもう一度」。

☆名画のビデオの話しが出たついでに、自転車が登場する映画を思い出してみたい。

『八十日間世界一周』従者ジャン・パスパルトゥーがダルマ自転車に乗って町を行く。

『E.T.』エリオット少年とE・Tを乗せたBMXが、月を横切るシーン。

『プロジェクトA』 ジャッキー・チェンが、細い路地を自転車に乗って逃げる。悪人達がやはり自転車で追いかける。

『肉弾珍勇士』 曲乗りの一輪車が登場にする。

『瀬戸内少年野球団』自転車で、駐在さんが走り回る。

『青い山脈』 セーラー服の女学生が自転車に乗っている。自転車のフェンダーの部分に”光”という文字が見える。

『明日に向かって撃って!』 ポール・ニューマンとキャサリン・ロスが二人で自転車に乗り回す。バックには「雨に濡れても」の主題曲が流れる。

・・・・・その他自転車が登場する映画はまだまだあると思うが紙面の関係でこの辺にする。


「自転車泥棒」1948年公開のイタリア映画
ヴィットリオ・デ・シーカ監督

2025年7月27日日曜日

ツール2025最終日

 ツール2025最終日

2025年7月27日 日曜日

ツール・ド・フランス2025の最終日

2025年のツール・ド・フランスで、タデイ・ポガチャルは2年連続・通算4度目の総合優勝を達成した。最終ステージは雨のパリで行われ、モンマルトルの丘を含む新コースで開催された。


ツール・ド・フランス2025最終日
タデイ・ポガチャルが4度目の総合優勝
公式サイトより
以下同じ

パリ市内は歓声に包まれた

第21ステージ 最終ステージは
ワウト・ファン・アールトが優勝

最終ステージの結果

スティーブンスの日本旅行記 パート2-26

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-26

四つん這いで近づいてくる男が私の注意を引き、剃った頭を偶然、私の部屋のドアの角にぶつけてしまった。彼は入り口で立ち止まり、自分の体をつねったり揉んだりするパントマイムをした。彼の使命は、私がサービスを望んでいるかどうかを知ることである。少額のチップで、日本の盲目の按摩師は、頭から足まで心地よい感覚になるまで揉み、押し付けてくれる。この仕事は目の見えない人か老婆にしかできない。多くの日本人は風呂に入った後に彼らのサービスを受け、その施術がとても心地よく、有益だと感じている。

日本の模倣の最も面白い例の一つは、ほとんどすべての村の宿屋の壁を飾るアメリカ製の時計である。面白いのは、これらの時計の持ち主は、それが何のためにあるのか全く理解していないように見えることだ。私の宿屋の壁の時計の一つは11時、もう一つは9時半、そして朝私が出発すると、3つ目は7時15分を指していた。村の通りにある他の時計も同様に時刻が異なっている。村々をダルマ自転車で走りながら、これらの大きく異なる時計に注意を払うことは、今日のサイクリングの楽しみの一つになっている。

坂ノ下から美しい渓谷と松に覆われた山々を抜け、四日市まで、道は平均して良好だが、ところどころで多少の起伏がある。四日市は小さな港町で、東海道沿いのほとんどの旅行者は、ここから往復する蒸気船で宮へ向かう。しかし、車道はさらに10マイル先の桑名まで続いており、そこから宮へは、水田、堤防、運河、沼地などの平坦な狭い道を横断しなければならない。

岡部と宇津ノ谷峠を越えると、1、2マイルはゆっくりと進む必要がある。ここに長さ約600フィート、幅12フィートのトンネルがあり、両側の入り口にある簡単な反射板によって、わずかな日光がトンネル内に差し込んでいる。これらは単なるガラスの鏡で、光線をトンネル内に反射するように斜めに設置されている。

この小さな峠を下ると、東海道は平坦な水田地帯を横切り、安倍川を渡り、人口3万人の静岡市の海岸付近に近づく。すぐ先に見える富士山の眺めは実に美しく、平坦な道は砂利の浜辺に沿って進む。波は寄せては引いて、時を刻んでいる。


465頁

宇津谷隧道
Googleストリートビュー
以下同じ



註、宇津ノ谷隧道について
明治宇津ノ谷隧道は、 明治9年(1876年)に開通した有料トンネルだった。
レンガ造りの趣のあるトンネルで、文明開化の象徴とされている。
  明治29年の失火で一部が焼失した後、明治37年(1904年)に再建された。
国の有形文化財に登録されている。
場所は、静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町に位置している。

2025年7月26日土曜日

「自轉車瓦版」 第12号

 「自轉車瓦版」 第12号

昭60年5月1日発行

☆名古屋の三輪氏は最近、戦前の機関銃印自転車の金文字看板を入手したそうである。値段は数万円とのこと。機関銃印自転車は、自転車文化センターにその実物があるので既に、ご覧になった方もいると思う。

★〜チリリン・チリリンと出てくるのは、自転車に乗りの時間を借り・・・・・という歌詞で始まる「チリリン節」の音盤があることが分かり、この程度、カセットテープに録音することができた。その他に、『ハイカラ節』、『ペタル進軍歌』、『お使いは自転車に乗って』も録音した。『チリリン節』の音盤は、大正時代のものでる。

☆「外国製自転車研究報告」(日本自転車工業会、1950~1953) をながめていたら、100年以前と称する自転車として十字型の安全車の写真が載っていた。神奈川県登戸(川崎市)の小島氏所有とあり、なるほどかなり古そうな自転車である。しかしその自転車をよく見ると、どう見積っても明治20年代のものとしか考えることは出来ない。確かに、前ブレーキの形状は、タイヤを上から押さえつける構造で初期の部類に入ることは間違いないし、タイヤもたぶん空気入で はなくソリッド式のものであろう。恐らく明治 25年前後のものと思われる。そうなると"50 年以前と称する自転車”と訂正する必要がある。しかし、そのようなことは小さな事で、この偉大な研究報告を過小評価するものではない。


神奈川県登戸(川崎市)の小島氏所有の自転車
「外国製自転車研究報告」

「外国製自転車研究報告」
日本自転車工業会 編
1950年版

機関銃印自転車の琺瑯看板

暁号
「機関銃印自轉車」
日本スヰフト株式会社

2025年7月25日金曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-25

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-25

枝は垂直の支柱に水平に伸び、数百平方ヤードの広い庇を形成している。東海道側には、この巨木を模した小さな松の木も広がっている。 

湖を見下ろす山々の斜面に雪が積もり、小さな汽船や多くの帆船が穏やかな水面を行き交い、雁も飛んでいる。左手にこれらの美しい景色、右手に茶畑を望みながら、東海道は松並木を抜け、湖岸沿いの多くの村々を通り過ぎて行く。

中山道は、乗馬鞭の製造で有名な草津村で左に分岐する。石部を通り、横田川を渡るところまで東海道は平坦で良好な状態を保っている。この川の交差点の近くには、3匹の猿が目、口、耳を覆っている興味深い庚申塔がある。これは「悪いことを見ず、聞かず、言わず」という意味である。この地域では主に茶の栽培が盛んで、起伏のある尾根や丘陵地帯のなだらかな斜面に、濃い光沢のある茶の木が茂り、はっきりとした畝や群落が広がっていて、とても美しい。

急な斜面をジグザグに下り、東海道は八十瀬川の小さな谷へと下って行く。丘の麓には奇妙な祠のような洞窟があり、粗雑な偶像がいくつかある。金魚の入った水槽、そして私が今まで見た中で最も粗雑な仏像が一つ安置されている。野心的な仏像彫刻家の狙いは、「大いなる静寂」の擬人化を創造することにある。八十瀬川の谷にあるこの像は、まさにこの方面における傑作と言えるだろう。かすかに口と鼻が彫られた長方形の巨石が、人間の形を朧げに削り取った直立した石板に鎮座している。これほど静謐なものはないだろう。

あと1、2マイル進むと、46マイルの旅は坂の下村で終わる。快適な宿屋が待っているが、ほとんどの日本の村と比べても良くも悪くもない。しかし、東海道沿いの宿屋の主人は、神戸以南よりもヨーロッパ人の客に慣れている。毎年夏になると、多くのヨーロッパ人とアメリカ人の観光客が人力車で横浜と神戸の間を旅する。

この宿屋で、私は初めて日本独特の制度、盲目の按摩師に出会った。


464頁

庚申塔

伊勢坂ノ下筆捨山之古跡 (書画五拾三駅)
歌川芳虎 画 明治5年
国会図書館所蔵資料

2025年7月24日木曜日

ツールとオリンピック

 ツールとオリンピック

2021年7月24日(土)晴れ

小山町でオリンピック、男子自転車ロードレースを観戦

一瞬に走り抜けて行く

先頭はヤン・トラトニク(スロベニア)、タデイ・ポガチャルのサポート役に徹する


先頭はヤン・トラトニク(スロベニア)
静岡県小山町上野
2021年7月24日撮影

2021年7月24日NHKのライブ映像より
静岡県小山町上野付近

ワウト・ファン・アールト 銀メダル
リチャル・カラパス 
タデイ・ポガチャル 
NHKのライブ映像より


以下はツール・ド・フランス
ツール・ド・フランス2025
第17ステージ 
総合成績トップのタデイ・ポガチャル
公式サイトより

第17ステージ の結果
2025年7月23日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-24

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-24

茶葉の粉末を、シェービングブラシによく似た、奇妙に割れた竹製のミキサー(註、茶筅)で熱湯と混ぜる。その結果、香り高いお茶が出来上がり、鼻腔には心地よいが、ヨーロッパ人の味覚にはほとんど受け入れられない。

昨日の人力車のおじさんは、郵便配達員の様に「ホーン、ホーン、ホーン!」と叫びながら、道を開けながら、私より先に進んでいく。彼が群衆を切り開き、私が後を追うように進む。その間も6マイルのペースを保ち、風車のように腕を振り回しているのを見ると、まるで私が車輪の上で忠実な侍を従え、本物の大名のように思えるかもしれない。

京都からは、日本で最も有名な街道である東海道が始まる。この道は、何世紀にもわたって今日と同じように、偉大な街道であったと言われている。京都から東京まで、325マイルにわたって伸びている。

東海道とは対照的に、中山道と呼ばれる別の道も、古都と新都を結んでいる。しかし、中山道は東海道よりもやや長いだけでなく、起伏が多く、面白みに欠ける。

京都を出た後、東海道は丘陵地帯を通る低い峠を越えて、琵琶湖として知られる美しい湖畔の大津へと続いている。

この湖はレマン湖とほぼ同じ大きさで、その美しさにおいてスイスの宝石に匹敵する。自然の美しさを深く理解する日本人は、琵琶湖にうっとりする。「琵琶湖の八景」はよく語られる。この八つの美とは「石山秋月、勢多(瀬田)夕照、粟津晴嵐 、矢橋帰帆 、三井晩鐘 、唐崎夜雨 、堅田落雁 、比良暮雪 」である。これらはすべて、湖周辺の名所である。琵琶湖の水には、様々な伝説やロマンが語り継がれている。琵琶湖の起源は、紀元前数世紀に起きた地震によるものとされ、伝説によれば、湖が形成されたと同時に、富士山が駿河平野から雄大な姿で現れたとされている。

多くの寺社があり、遠方から多くの参拝客が訪れ、その美しさを拝観する。観光客にとって特に興味深いのは、枝が水平に伸びた見事な松の木である。(註、唐崎の松)


463頁

琵琶湖を巡る

歌川広重「近江八景 石山秋月」
国会図書館所蔵資料

唐崎の松
「日本之名勝」
明治33年発行
国会図書館所蔵資料

344頁
「マレーのハンドブック」
初版は1891年
琵琶湖の部分

一部抄訳、
琵琶湖は紀元前286年の大地震によって誕生し、同時に富士山が駿河平野から隆起したと言われている。日本の詩歌や美術には「近江八景」という概念が頻繁に登場するが、この概念は他の多くの日本のものと同様に、中国から来ている。中国では、瀟湘八景と云う。或いは瀟湘の八人の美女がいたとも云われている。近江八景とは、石山秋月、勢多夕照、粟津晴嵐 、矢橋帰帆 、三井晩鐘 、唐崎夜雨 、堅田落雁 、比良暮雪 である。

2025年7月23日水曜日

「自轉車瓦版」 第11号

 「自轉車瓦版」 第11号

昭60年4月30日発行

☆4月28日、東京晴海で開催されているサイクルショーへ行く、いつもこのようなサイクルショーを見て感じることはどこのメーカの自転車もあまり代り映えしないということである。どこのブースを見てもロードレーサー、ピスト、MTB、BMXなどのスポーツ車ばかり、実用車や子供車はどこに行ったであろうか。なにも目新しいものはカーボンファイバーの自転車やディスクホイールの自転車ではないはずだ。やはりだれもが楽しく乗れる自転車が求められているはずである。このサイクルショーでの収穫は、書籍コーナーで次の本を買ったことであった。

「At Your Service - A Look at Carrier Cycles, By John Pinkerton.1983」と「Joseph Lucas the first king of road」。

☆横浜にPB商品専門店が進出、無印良質の自転車も販売される。PBとはプライベートブランド(自社開発)の略で、包装や装飾類などのムダな部分を省き、安価で質の高い商品作りを目指すもの、もちろん自転車もタイヤ、サドル・ブレーキなど最低限必要な部品で構成されたもの。大手スーパーの西友が来年中、横浜市内に計画。

★トライアスロンの第1回大会が宮古島で4月28日に開催された、日本で初めての本格的な大会。優勝者は予想どおり神奈川の中山俊行 (22才) であった。


Joseph Lucas
The First "King of the Road"
by Peter W. Card

Wholesale Catalog. December, 1897.

THE "Silver" King of the Road.

2025年7月22日火曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-23

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-23

3人の若い生徒は、まるで『ミカド』の「三人官女」のように一列に並び、先生の説明に納得してクスクス笑っている。とても可愛らしい3人の女の子で、そのうち2人はアメリカで最も人気のヘアスタイルで髪を束ねている。

生徒たちは甘いお菓子とお茶を楽しみ、帰る前に、私が翌朝に学校を訪問し、「ボニー・ドゥーン」と「蛍の光」の歌を聞く代わりに、校舎の敷地内でダルマ自転車に乗るという約束をした。「蛍の光」は「オールド・ラング・サイン」のメロディーで歌われており、その日本語の歌詞は琵琶湖近くの宇治の茶畑の伝説を記念したものであると云う。伝説によると、ある学者たちが宇治近くの人里離れた場所で学問を続けるためにやってきた。ある時、油が切れて部屋の明かりを調達することができなかったが、無数の蛍がやって来て、小さな明かりでその場所を照らした。

「学校の3人の生徒」との約束は、翌朝、最寄りの道から少し遠回りして街へ向かった。しかし、この寄り道は十分に報われた。約束されている歌やオルガン演奏以外にも、学校には多くの研究科があり、非常に興味深い。東京市場向けのレースや刺繍、自分たち用や販売用のドレスを少女たちが作り、その収益は学校の維持費に充てられる。この地で最も興味深い学問の一つは、「日本の儀式」と呼ばれるものである。これは、天皇陛下のためにお茶を点てるという、古くからの宮廷儀式を今も受け継いでいるようである。儀式を見学したいと申し出ると、いつもの襖で仕切られた小さな部屋に案内された。一組の少女たちが一列にひざまずき、小さな火鉢の横に座る。とてもきちんとした身なりの老婦人と向かい合っている。老婦人は教師である。彼女が手を叩くと、障子の一枚が静かに開き、先生の一人が小さな漆塗りの盆に小さな急須と湯呑、茶筒、その他様々な道具を持って登場する。この「儀式」には実はほとんど何もなく、茶を点てる人の優雅な動きこそが、このパフォーマンスの魅力である。使用されるお茶は細かく挽かれた宇治の抹茶で、帝の御家のために特別に栽培されている。


261頁

「大日本物産図会 宇治茶製之図 二」
歌川広重(三代)明治10年
国会図書館所蔵資料
以下同じ

宇治茶の看板
左下の自転車にも注目
「宇治茶のかほり」
大正12年

宇治茶産地略図
同上

抹茶臼ノ図
「日本山海名物圖會」 二
江戸中期

2025年7月21日月曜日

「自轉車瓦版」第10号

「自轉車瓦版」 第10号

昭和60年4月28日発行

☆真船氏からの出版情報。『まほうつかいの自転車』平塚ウタ子作、むかいながまさ絵、フレーベル館 S.57.9 、700円(児童書)。

『ザ・ファビュラス・ワールド・オブ・サイクリング 1984』マエダ工業(株)で取扱い、4,500円、写真集、192ページ、ツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリア、世界選手権、ロサンゼルス・オリンピックなどを収録。

『パールイズミ、イメージポスター』(2版・タテ73cm×ヨコ52cm) モデルは、ロス・オリンピック個人ロードレース2位のレベッカ・ツウィッグ選手、400円、パールイズミ有限会社。

『MOVIN' ON』 BMX、スケートボードなどを扱ったフリースタイルの新雑誌, 隔月刊、¥200- ワイルドキャット (〒155東京都世田谷区代田5-13-10)。

★60.4.18付け朝日新聞に、鶴田勝三、ボーンの自転車による富士山 の写真(明治33年)が掲載された。この写真はマエダ工業(株)の経営者、河合淳三氏が10年前、渡米した際にコロンビア社からもらい受けたもの。大阪の高橋 勇氏は、この写真を見て、自転車による富士登山はこれが最初だと説明している。

◎自転車情報何でも結構ですからお寄せ下さい。

鶴田勝三 富士山山頂で曲乗り
自転車はアメリカ製デートン号
明治33年8月21日

富士山ダウンヒル
明治33年8月21日
「私は自分のクリーブランド号に乗り、
デビンは小橇(そり)に乗った」
(ヴォーガン紀行文より)

2025年7月20日日曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-22

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-22

ヒンドゥー教の無数の神々は、この国の奇妙な伝説や神話と比べれば、容易に理解できるように思える。

この寺院の近くには、気軽に訪れて、人々にはるかに満足感を与えてくれる素敵な小さな庭園がある。日本庭園を訪れるのはいつも楽しいことだが、景観の魅力に加えて、歴史的な関心がこの庭園にさらなる魅力を与えている。池には飼いならされた鯉が放たれており、訪問者が手を叩くと、餌をもらえることを期待して、鯉が群れをなして集まる。庭園内の鉄格子には、不機嫌そうなガチョウが2羽閉じ込められている。ある歴史的な出来事を記念してそこに飼われているが、その出来事が何なのかは、同行者の博識な女性でさえ知らないようである。マレーの膨大なガイドブックにも説明されていない。鶴、雁行、昇る月、竹林といった、いつもの伝統的な主題で内装が飾られた小さな宮殿と、500年前、将軍の足利義満が瞑想にふけっていた小さな円形の茅葺き屋根の別荘が、庭園の見どころとなっている。

私が本当に楽しみたいと思っていたのは、この国で最も有名な庭園の一つである修学院離宮で、何よりも園芸が芸術として追求されている。しかし、今日はここに入ることができず、うんざりしたので、人力車車夫に帰るように伝えた。平坦な道を1、2マイル進むと、人力車車夫は別の寺院で私を降ろした。彼が私を何か特別な場所に連れて行ってくれるかもしれないと思い、彼の後を追って中に入った。神道を学んだ人なら、きっとこれらの寺院に何か特別なものを見つけるだろうが、普通の人間にとっては、一つ見ればすべてを見るのと同じことである。しかし、彼は寺院を山ほど見せようと思っているようで、さらに別の寺院へと私を急がせた。

B氏のところでは、女子神学校の副校長と、最も興味深い3人の生徒からなる代表団が私の到着を待っていた。彼らは地元の新聞で私の旅行について読んでいて、副校長の言葉によれば、「こんなに有名な旅行者に会えてとても興味津々です」とのことであった。


460頁

2025年7月19日土曜日

錦絵関連

 錦絵関連

下の錦絵は、小林幾英 画の「志ん版車づくし」明治20年ごろ

この錦絵は現在、サントリー美術館の「まだまだざわつく日本美術」で展示されている。

会期、2025年7月2日(水)~8月24日(日)10:00~18:00

※作品保護のため、会期中に展示替あり、とのこと。
小林幾英(こばやし いくひで)は、落合芳幾の門人。姓は小林、名は英次郎。飛幾亭、箴飛亭の画号。作画期は明治18年(1885年)~明治31年(1898年)頃。


志ん版車づくし」明治20年ごろ
サントリー美術館所蔵

2025年7月18日金曜日

スティーブンスの日本旅行記 パート2-21

 スティーブンスの日本旅行記 パート2-21

神戸は日本の条約港の一つであり、今日では他のどの港よりも多くの外国貿易を行っていると言われている。神戸は非常に快適で住みやすい場所であることが想像できる。外国人居留地はかなり広く、周囲は魅力的で、気候は穏やかで健康的である。

神戸と大阪で楽しい日々を過ごした。大阪から27マイルの平坦な道を、淀川に沿って進むと京都に着いた。8世紀から1868年まで京都は日本の首都であり、一般的に国の旧首都と呼ばれている。現在の人口は約25万人で、首都として栄華を誇った昔の全盛期の約半分である。

京都に住んでいるのは、アメリカ人の元海軍士官であるB氏である。彼は数年前に軍務を辞め、若い日本人に射撃を教えるというより、平和的な活動をしている。この機会は縁起の良いものであった。なぜなら、国全体が英語学習への熱意に燃えていたからである。英語は公立学校で正規の授業として導入された。B氏は京都に居を構え、今では母国語について、興味深く大勢の少年たちを教えている。紹介状を受け取った私は、淀川沿いの快適な邸宅で昼から晩まで過ごすことができた。彼の専属人力車で、午後のひとときを様々な名所を巡った。最初に訪れた西本願寺で、アメリカ人観光客の一団に偶然出会った。この寺の絵画や装飾は、日光に匹敵すると、一人の女性が熱っぽく言った。この女性は宣教師か、あるいは日本の寺院や物事に詳しい人らしい。同行者たちは束の間の観光客で、彼女の説明を熱心に聞いているが、私と同じように、寺を出てからはすぐに忘れる。日本の神話、宗教、寺院、政治、歴史、そして称号は、私がこれまで見てきたものの中で、最も混乱していて、すぐに理解するのが難しい。


459頁

2025年7月17日木曜日

ホビーホース関連

 ホビーホース関連

「THE ANALECTIC MAGAZINE」 第13巻 1819年1月~6月

註、『論説雑誌(アナレクティック・マガジン)』(1813年-1820年)は 、フィラデルフィア でモーゼス・トーマスによって出版された。

第15、ヴェロシペードまたはドライジーネ。「ロンドンの新聞より」

この独創的なマシンは、カール・フォン・ドライス男爵、王室の森林所有者により発明された。

バーデン大公、発明者によるその性質と特性の説明は、

1.整備された道路では、活動的な人間が歩くのと同じ速さで坂を登る。

2. 平坦地では、大雨の後でも時速6~7マイルで進み、これは急使と同じくらいの速さである。

3. 道路が乾燥して固まっている場合は時速8~9マイルで走る。これは馬の速さに相当する。

4. 下り坂では、全速力で走る馬に匹敵する。

その理論は、人間の歩行動作に車輪を応用することに基づいている。

動力の節約に関して、この発明は非常に古い馬車の発明に例えることができる。馬が馬車を曳くと、馬車と荷物の両方を、背中に一人で荷物を運ぶよりもはるかに簡単に運ぶことがでる。したがって、人はヴェロシペードを使えば、全重量を足で支えるよりも楽に体を動かせる。同様に、ヴェロシペードは、たった一つの踏み跡、つまり轍を踏むだけで、常に道路の最良の部分を進むことができることも疑いない。固い道では、ヴェロシペードの速さは熟練したスキーヤーのそれに似ている。なぜなら、この二つの動作の原理は同じだからである。実際、乗り手が動かない間にも、足が動いている時と同じ速さで、かなりの距離を走る。そして下り坂では、指のゆっくりとした動きだけで操作されるため、馬に付随する危険にさらされることなく、長い距離を走って馬に勝つことができ、足で瞬時に止めることができる。

2つの車輪が前後に配置され、止まり木で接続されている。止まり木にはサドルが置かれ、ライダーの座席となる。前輪は軸を中心に回転する。前方のクッションに前腕を置き、これにより装置とライダーのバランスが保たれる。

操作方法。図に示されている姿勢になり、肘を伸ばし、体を少し前に傾け、腕をクッションに置き、上昇しているように見える側を軽く押すことでバランスを保つ。舵(そう呼べるのであれば)は両手で持ち、両手はクッションに置かず、完全に自由に使えるようにする。これは、腕がマシンのバランス維持に不可欠であるのと同じくらい、マシンの操作に不可欠だからである。(注意を払えば、すぐに十分な器用さが身に付く)。次に、足を軽く地面につけ、最初はまっすぐな直線で、長くゆっくりとした動きをする。つま先が外側に向くと、かかとが後輪に接触してしまうので注意する。ヴェロシペードのバランスと方向を器用に把握できるようになって初めて、足の動きを速くしたり、高速走行中に足を上げたままにしたりする。サドルとクッションは、好みに応じて上下に調整でき、さまざまな人の身長に合わせることができる。

発明者は、2人を乗せ、交互に、または両方で推進するマシンの製作も考えている。また、3つまたは4つの車輪と女性用の座席も備え、或いは傘を付けた仕様や順風時には帆を利用することも検討している。

このマシンは機械力学における要望を満たしているように見える。これまでの試みはすべて、動力は速度を犠牲にしてのみ得られるという既知の原理に基づいて失敗した。しかし、推進原理は他のものとは全く異なる。マシン本体からではなく、外部で作用する抵抗、つまり自然に最も適合した方法、地面に対する足の抵抗から得られる。マシン本体はいわば2つのスケートによって支えられ、推進力は両足の交互の動きによって与えられる。

このマシンはドイツ語で「ドライス・ラウフマシン」、フランス語で「ドライジーネ」と呼ばれている。ドライス男爵の指揮の下、数年前に馬なしで走行する馬車が作られたが、操作には2人の召使いが必要で、非常に複雑な職人技に加え、重くて高価だったため、男爵はある程度の完成度に達した後、この設計を完全に放棄し、現在のマシンに切り替えた。十分に訓練された人は、平坦で良好な地面であれば時速8、9マイル、さらには10マイルも走行できると言われている。


『アナレクティック・マガジン』
第13巻 1819年1月~6月
以下同じ

517頁

518頁

519頁

515頁
第15、ヴェロシペードまたはドライジーネ
「ロンドンの新聞より」