2024年8月3日土曜日

レンツとアウティング誌 - 21

  レンツとアウティング誌 - 21

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

244頁、

藤枝の旅館に泊まったが、注文したのはゆで卵、ご飯、お茶、ケーキだけだった。旅館ではいつもパスポートを見せたが、パスポートはすぐに警察に送られて検査された。

藤枝の警察署長は私の到着を聞いて、京都で英語を学んだ娘を連れて旅館を訪れた。もちろん椅子はなかった。日本人はみんな膝を折り曲げて座る。私はその正座の圧迫感で長くは耐えられず、たいてい足をまっすぐ伸ばしていた。若い女性がそれは失礼だと私に告げたので、その忌まわしい「国の習慣」に敬意を表し、私は苦痛に耐えながら再び正座した。お辞儀や挨拶は私にとってとても面倒で、アメリカの社交的な雰囲気が恋しくなった。

警察署長は1時間ほど滞在し、私がナイフ、フォーク、スプーンで食事をしたり、ご飯に砂糖を混ぜたりする様子に興味を示した。警察署長は啓蒙的な日本人で、私のカメラと自転車を非常に注意深く眺めた。朝、彼はさらに2人の日本人女性を連れて再び訪れた。グループ全員が代わる代わるひざまずき、両手を床につけ、額が手に触れるまで丁寧にお辞儀をした。私は心の中で「ああ、またか!」と思い、すばやくお辞儀を返した。

平坦な道を通って島田と金谷に向かった。しかし、金谷と掛川の間には越えなければならない2つの山があり、狭い道は再び登り、下りはジグザグになっていた。その後、道は袋井、見附、浜松へと少し下り坂になった。浜松はかなり大きな街だった。道沿いはほとんどが水田で、女性たちは一生懸命働き、男性と同じように器用に農機具を使い、大八車に荷物を積んでいた。米が主な生産物であり主食だが、ビートやサツマイモなどの野菜も栽培されている。小さなオレンジの木はいたるところに植えてあり、その果物は道端で1セント、5~6個という安い値段で売られていた。落花生も大量に栽培されている。

浜松を出発した後、東海道は再び帝国鉄道に沿って舞阪に向かった。舞阪は浅い湾にあり、新居村はほぼ反対側にある。

この湾の両側は鉄道の沿線で道路が整備されている。中央付近では再び平底舟が物資などを運んでいる。ここで道は再び短いが急な坂を登りになり、白須加と二川に至った。5時に暗くなり、天気は曇っていたので、私はそこで一泊した。歯を黒くした日本人女性が旅館の浴室で働いていた。この女性は衣服を濡らさないように上半身裸で働いていた。夕方、私が藤枝から59マイルも離れたところから来たと聞いて、盲目の按摩の日本人が訪ねてきた。彼は人力車夫の激しい労働後の筋肉をほぐすのが得意なので、私が体をほぐす必要があると考えたに違いなく、あらゆる筋肉を指でもんだり、押したり、さすったりし始めたので、私は彼が一晩中それを続けるのではないかと心配した。しかし、日本の料金20セントですぐに彼から逃れることができた。

翌日は夕方まで雨が降り続き、眠っている二川の街を離れる望みは完全に打ち砕かれた。しかし、私は寂しくはなかった。近所の人たちが白人に初めて会うために何度も立ち寄ったからだ。夕方、持っていた小さなマウスオルガン(ハーモニカ)で彼らに数曲演奏し、彼らは大いに喜んだ。試してみたいと言われたので、すり減ったハーモニカを渡した。すると、彼女たちはものすごい勢いでそれを吹いた。今度は年老いた地主が三味線を弾き、三人の少女がそれに合わせて踊った。かなり奇妙な演奏会となった。

夜の間に雨は止み、激しい風が吹き、道路はきれいに乾いていた。私は八時に出発することができた。雨上がりで空気はかなり涼しく、私は時速10マイルで豊橋、御油、赤坂、藤川を通り岡崎まで走った。各街では、20、30人の小さな日本の子供たちが後を追った。彼らの父親は皆人力車夫に違いない。若者たちは草鞋や雪駄を履いていても鹿のように速く走れたからだ。この区間の東海道はほぼ平坦で、午後には知立、鳴海を経て人口16,000人の熱田まで平坦な道が続いた。この町は尾張国の首都名古屋の郊外にある。私がそこを通りかかったとき、3人の日本人がかなりぎこちなく古いスタイルのガラガラと鳴るボーンシェイカー(註、国産の木製ダルマ自転車)に乗っているのを見た。

註、明治25年頃の日本での自転車事情は、国産の木製ダルマ自転車が流行っていた時代である。レンツは日本製のダルマ自転車に乗っていた3人の日本人を名古屋で目撃している。原文には「 This town is a suburb of Nagoya, the capital of the Owari province. I saw three Japanese riding old style rattling boneshakers rather awkwardly, while I was passing through.」

レンツは、この自転車を「ボーンシェイカー」と云っているが、一般的には「ボーンシェイカー」とはミショー型のガタクリ車をさす。日本ではこのミショー型自転車は殆ど普及していない。レンツは欧米の最新式ダルマ自転車と比較して、むしろ日本のこの自転車を古いタイプのミショー型自転車の一種と判断したのである。

日本のダルマ自転車のタイヤはゴムではなく大八車と同じように薄い鉄が巻かれていたので、走るとガラガラと音をたてた。


244頁

以下は参考資料
撮影場所はどこであろうか、東海道沿いの宿場町なのかいまのところ判然としない。

写真の一部を拡大
レンツは愛車のビクター号のやや右側に立っており、その横は人力車に乗る旦那の奥方であろうか。人力車夫の半纏の襟に何か文字が見えるが不鮮明で判読できない。
よく見ると軒の上にやはり半纏を着た人物がいる。

明治20年代のダルマ自転車
写真提供:自転車文化センター 

「明治24卯年四月上旬国友作之」
のダルマ自転車
江戸東京博物館所蔵