2024年8月15日木曜日

レンツとアウティング誌 - 最終回

  レンツとアウティング誌 - 最終回

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 23 巻 1893年10月 - 1894年3月(合本版)

OUTING AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION. VOL. XXIII. OCTOBER, 1893—MARCH, 1894. 

331頁、

普通の旅行者が訪れる場所でも、宿泊施設の質を考えると、値段が法外なこともある。一番安い硬貨は、中央に四角い穴が開いた真鍮の貨幣で、この貨幣は 1 枚で 10 分の 1 セント相当の価値があり、この硬貨は主にあらゆる物価が非常に安い内陸部で使われている。

日本は山の多い地形だが、道路は素晴らしく、特に国道は素晴らしい。自転車に乗る人は、この素晴らしい道路に着くと、間違いなく快適な場所に行かれる。この道路は実際には 900 マイルに及ぶほぼ直線の幹線道路である。アメリカでは、これほど良好な状態に保たれた道路はどこにもない。残念ながら、私は魅力的な国を離れるための簡単な準備をいくつか終えた。この優れた空気入りタイヤ自転車が次に訪れる国は、「花が咲き乱れる」、奇妙で、不親切で、半分しか理解されていない、そして私にとってはあまり魅力的ではない中国である。

神経をすり減らすようなサイレン、またはピストンホイッスルのきしむような音が、日本船が出発しようとしていることを皆に知らせ、数分のうちに船はゆっくりと向きを変え、船首を港の出口に向け出発した。この船には船室の乗客が14人しかおらず、30人の日本人と中国人が操舵室でくつろいでいた。船の士官は全員イギリス人で、乗組員は日本人だった。

菊の国を最後に見た景色はとても美しかった。丸みを帯びた緑の山々はゆっくりと穏やかな波に沈み、私が去った素晴らしい国は紫がかった靄に残影され、船は黄海の濁った波をかき分けて進んで行った。



1892年12月11日
レンツは長崎を西京丸で出港
上海に向かう

註、その後もレンツの自転車世界一周の旅は続くが、彼にとって平和で美しい日本の旅はここで完了する。トーマス・スティ-ブンスもそうであったが、日本の美しい自然と人情に触れた思い出深い旅になったはずである。不幸にしてレンツはトルコ国境付近の手前で強盗殺人事件に巻き込まれ帰らぬ人となった。
しかしながら彼が日本の自転車文化に多大な影響を与えてくれたことは事実である。

トーマス・スティ-ブンスとフランク・レンツそして梶野仁之助が日本の自転車文化に重要な役割を果たしたことを忘れてはならない。

トーマス・スティ-ブンスは、それまでの三輪車主流の文化から二輪車であるダルマ自転車流行の端緒となった。

フランク・レンツは、最新式の空気入り安全型自転車をこの旅を通して日本人に大いに喧伝した。

梶野仁之助は、スティーブンスが自転車世界一周旅行で使用したコロンビア社のオーディナリー自転車やオバーマン・ホイール社のビクター号をいち早く日本に導入した。そして、その後、オバーマン社の許可を得て、部品で大量に仕入れ組み立て生産した。これは日本で最初のアッセンブル方式による自転車産業を興したことでもある。