レンツとアウティング誌 - 19
「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌
第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版
「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .
VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893
242頁、
男の給仕が、要求に応じて順番に一人ずつ手伝ってくれた。私が部屋に戻ると、仲居さんが布団を敷いてくれた。旅館には何人かの宿泊客がいて、全員が同じ部屋に布団を敷いて寝た。女性たちはいつも、首の下に置いた箱枕の上で頭を支えて眠る。これは、手の込んだヘアセットが乱れないようにするためで、こうすると髪は 3、4日ほどそのままで、その後またヘアセットが必要になる。
私は翌朝 9 時に出発し、やがて大きな山脈の麓にある小田原に着いた。地元の人たちは、道中ずっと、これらの山々を越える石畳の道の厳しさについて私に教えてくれた。急勾配のところまで自転車で行くと、道は大きな石や岩で舗装されていて、簡単に通行できるような工夫は一切なく、まっすぐ山腹に続いているだけであった。そんな道を自転車で登るのはまったく不可能だったので、私は日本人の人足(クーリー)を雇い、竹の棒を手に入れた。私たちは一緒に2時間半山腹を登り、時には自転車を担いで石から石へと踏みしめ、車輪を揺らしながら登った。それはひどく困難であった。時には人足は力尽き、時には私が力尽きたが、ついに頂上にたどり着いた。休憩後、日本人の人足は帰っていった。
遠くにはっきりと見える富士山は、私が登ってきた山よりも少し高いだけに見えた。下り道はまだ大きな石や岩で舗装されていて、箱根の村を抜けて美しい芦ノ湖へと続いていた。そこから低い丘を曲がりくねって登り、その頂上からは海と箱根の山々が見えた。この高さを超えると、まだ石畳の道が続いていた。時には短い区間を自転車で走れたが、ほとんど三島の街まで歩かなければならなかった。
三島でまた日本食を食べたが、胃がもたれそうだった。
旅館の連中に風呂を占拠されたが、私はほとんど何にでも慣れてきていた。
三島に着く前のこの山道は、ロッキー山脈、太平洋海岸山脈、アレゲニー山脈で私が通ったどんな傾斜や岩だらけの道よりもひどかった。三島までの距離は、小田原から登って8マイル、反対側を下って10マイルだった。この登りの苦労は大変で、すぐには忘れられないだろう。自転車以外の乗り物では、この峠道を越えることはできない。