レンツとアウティング誌 - 30
「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌
第 23 巻 1893年10月 - 1894年3月(合本版)
OUTING AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION. VOL. XXIII. OCTOBER, 1893—MARCH, 1894.
328頁、
また、人里離れた道端のあちこちに石仏が置かれているのも見かけた。内野から街道は、勾配を気にすることなく山腹を登っていく。箱根の道のように、大きな石や岩で舗装された短い区間が 2 つある。幸い頂上まで 2 マイル登るだけで、反対側の山家村まで 5 マイルの道は急だが、その後は緩やかに自転車を走らせることができた。
原田という小さな町はわずか 4 マイルしか離れていないが、翌朝 30 マイル走ってようやくそこにたどり着いた。山家村を出ると西に広い谷が広がっており、私はその谷を 15 マイルも下っていったが、道に自信があったので誰にも道を尋ねなかった。ところが村と村の間の距離がだんだん合わなくなってきたので、道を尋ねたところ、正しいルートとはまったく逆の方向に進んでいると知らされた。私は日本で道に迷ったのはこれが初めてだったので、気分があまりよくなかった。15マイルを自転車で引き返した。原田に着くと、私は慎重に田代までの道を尋ね、ついに電信線ではっきりと示された長崎街道に向かった。轟木と中原まではやや起伏があるが、後者の地点を過ぎると道は平坦な谷に入り、神崎と境原を通って肥前国の佐賀に通じている。辺りは急に暗くなっていたが、私は牛津まで走り続けた。大きな街でも小さな町でも、日本の建物の建築様式はいつも同じで、質素で、時には瓦屋根、時には厚さ2フィート近くの藁葺屋根だった。日本中の旅行で非常に顕著で悲しい特徴は、盲人に出会う割合が非常に高いことである。これらの不運な人々は絶えず叫んだり、竹笛を吹いて自分の存在を知らせたりしている。子供が幼児を背中におんぶして、頭を後ろに垂らして眠らせる習慣が失明や視力低下の原因であると主張する人もいる。閉じた目に当たる強い日差しは非常に有害である。
長崎はわずか 72 マイルしか離れていないため、日本での自転車旅行は終わりに近づいていた。その港から 12月12日に中国の上海に向けて出航する予定で、船は日本の蒸気船「西京丸」を選んだ。翌朝は降り続く雨のため、長崎に向けて出発できなかった。自転車旅行では、常に雨を考慮に入れる必要がある。これを怠ると、自転車乗りは予定を間違ってしまう。午後には雨が止んで石畳の道路が乾いたが、谷を 15 マイル下って塚崎まで自転車を走らせたところで、再び雨が降り始めた。風と時折のにわか雨のため、自転車に乗るのは少々不快であった。しかし私は狭い谷を下り嬉野へ行き、そこから道は3マイルにわたって別の尾根を曲がりくねって登り、濡れて滑りやすい山腹を下って大きな内陸湾の岸にある彼杵(そのぎ)へ向かった。大村への道は湾に沿った美しい平坦な道だが、風とにわか雨で少々不快だった。地境の分水嶺を越えた後、私は諫早まで急流な川に沿って進んだ。肥前国の道路での輸送はほとんどすべて荷馬またはポニーが使われ、ロープのハーネスは赤、白、緑、青の色で作られており、馬はサーカスの動物のように見える。通常これらのノロノロと歩く荷役の動物は疲れていて怖がらせることができないので、私は馬を曳いている眠そうな人足に警笛を鳴らす必要はないと判断した。しかし、一頭の若いポニーはまだ元気で、自転車を見るとすぐに飼い主から飛び出し、樽や荷物を四方八方に飛ばしながら、猛スピードで逃げ去った。人足は狼狽していた。
諫早から電信線に沿って進むと、道は起伏のある土地を横切り、天草湾沿岸の矢上町に着いた。日が暮れてきたので、9マイル先の長崎まで自転車で行くことはできなかった。
日本での最後の道は、決して平坦で楽な道ではなかった。昔の地震で小さな半島の南にそびえる高い山脈がある。
西京丸は、日本郵船が運航していた貨客船で、その後の日清戦争や日露戦争では軍艦として活躍した船である。